73:信じることしか能がない



「では、今年はこのメンバーいく。異論はないな?」

ぐるりと、見回してくるコーチの目に、各々が頷いて肯定を示して見せる。しおりも習うように頷いて、手元の用紙にもう一度目を落とした。

書かれた名前を、指でなぞる。託された歴史が、王者の重圧が。その名前のひとつひとつにのしかかっているような気がして、心臓が重く鼓動を打つ感覚がした。

今年の、インターハイのレギュラー6人が決まったのだ。

名門箱根学園のレギュラー決めは主将、顧問、コーチはもちろん、OBの有志たちを交えてかなり大規模に行われる。
すんなり決まる年もあるらしいが、ほぼ毎年のように意見が激突するのが通例らしい。その例に漏れず、今年のレギュラー決めも混迷を極め、土曜日の午前から始まった会議が、終わるころには夕方になっていた。

……考えすぎて少し頭がボーッとする。
みれば、会議に参加した面々もそれは同じようで、どこかぐったりとした様な、それでいて、期待と決意に燃えているような、不思議な雰囲気を持ち合わせている気がした。

部活の主要人たちが居ないため、今日の部活は自主練だが、候補に挙がっている選手たちは今頃気が気ではないだろう。

けれど決まってしまったのだ。
よほどのことでもない限りは覆らない。彼らがこの夏の主役になる。去年の夏の激闘を思い出して、胸がずくりと熱くなるのを感じた。

何時間にも及ぶ会議で凝り固まった体を大きく伸びをしてほぐす。まだ、夢を見ているようにぼんやりとした頭で窓の方を見た。

南向きらしいこの会議室は、昼過ぎから夕方にかけての日差しがかなり眩しいため、早いうちからブラインドが下ろされている。スラットの隙間から漏れる光は鮮やかなオレンジ色だ。会議室の白い床材をボーダー状に染め上げ、幻想的な模様を形作っていた。


……本来なら、ただのマネージャーであるしおりが参加して良い会議ではなかった。

もちろんしおりにもその気はなく、むしろ、部活における主要人たちがいない今日はいつもより気合を入れて皆の練習のサポートをしようと思っていたのだ。
けれど、主将たちからの猛烈な押しにより、あれよこれよと言う間に連れてこられて来てしまったのである。『お前が一番部員を見ているだろう』なんて、そんな理由で。

今までも何度か大会のレギュラー決めに立ち合わせたことはあるが、インターハイという大舞台に向けてのそれは初めてである。

独特の威圧を放つ主要人たちの中に小娘が混じっていること自体場違いだ。
そう思って、初めは酷く恐縮したものの、いざ会議が始まると目の前を飛び交う議論の中、いつの間にか自身も人選に参戦していたのだった。

時には納得しながら。時には頑として譲らずに、ひとり、またひとりと選手を絞り込んでいく。

そうして、ここに集う全員の賛同の元、ようやく残った6人がこの紙の中にある『彼ら』なのであった。


背番号の順に、指でなぞっていく。前半は王者箱根学園が誇る、尊敬すべき先輩たちの名だ。
王者の名に恥じない、素晴らしい選手たちである。

そして最後の二人は……――
彼らの名に行きついた瞬間、指先が止まった。

くすぐったいような、泣きたくなるような気持ちで胸が溢れ、一度天井を見上げて大きく深呼吸する。そうして祈るように、ふたつの名前の上に手のひらを重ねた。

……この二人は、しおりが押した。
まだ二年だが、実力、成績共に申し分ないからだ。中にはまだ早いのではないかという意見も出たが、しおりはそうは思わなかった。だって、もはやエースと言っても過言ではない人たちなのだから。

背番号5 2年A組 福富 寿一
背番号6 2年C組 新開 隼人

選ばれた同期ふたりの名前。並んでいる見慣れた文字に感極まって泣きそうになるのを堪えて、誤魔化すように鼻を鳴らした。

発表は、明日のミーティングで行われる。
二人はどんな顔をするだろう。皆はどんな顔で受け入れるだろう。
今年の夏は、どんな暑さで自分たちを迎え入れてくれるのだろう。

戦いの日が迫っている。感傷に浸っている場合ではないと自分を叱咤して、手の中の紙を丁寧に折りたたんだ。









**********











ざわざわと、部室内がどよめいている。
レギュラー会議の翌日に行われた部内ミーティング。そこで発表された今年のインターハイ出場選手の発表中に、予想外の事態が起きたのだ。

動揺する部員たち。これでは収集がつかなくなる。何とか騒ぎを鎮めようと思うのだが、しおり自身、今起こっている事態に酷く混乱し、どよめきの中心にいる彼をただ見つめることしか出来なかった。

いつもと変わらない、少しだけ口元に笑みを浮かべた整った顔。その穏やかな表情の奥で、彼が何を考えているのかが全くわからない。

……誰よりも努力していた。誰よりも勝ちに貪欲で、インターハイ出場をかけての部内レースだって、『実力勝負』を謳って3年の先輩にその座を譲ろうともしなかった。
それが、どうして。

「……本気で言ってるの?」

思わず口をついたしおりの言葉に、新開は一瞬だけ困ったような顔をしたが、すぐに元の笑みを取り繕って、そしてゆっくりと、深く頷いた。

……そうじゃない。
ちゃんと、彼の口から彼の言葉で話して欲しい。皆が納得する理由を。私を納得させられる理由を。
何も答えない新開に、怒りなのか、悲しみなのか、とにかくドロドロとした訳のわからない感情が押し寄せてきて、涙が出そうだった。

「ねえ、答えて。本気で言ってるの?」

震える声が、少しだけ裏返る。
だって、納得できない。この部にいる誰もが憧れた、彼本人も欲しがっていたインターハイ出場の切符を、彼は今、自分で手放そうとしているのだ。

――『辞退』という形で。

当然ながら、インターハイに出場できる人数は決まっている。いくら望んでも、願っても、3年間で一度だってその舞台に足を踏み入れられない先輩だって、山ほどいる。

なのに先輩たちがこの晴れ舞台を後輩に託してくれるのは、自分たちが箱根学園自転車競技部だというプライドがあるからだ。

王者は落ちてはいけない。王者が王者たるために必要なのは誰なのかを彼らはちゃんと分かっている。だから自分たちが最後の舞台に立てずとも、潔く身を引くのだ。
なのに。

「ごめん、オレには無理だ」

まるで当然のように、顔色ひとつ変えずに言い放った彼に、思わず頭に血がのぼった。

どうしてそんな無責任なことが言えるのか。どうして皆の気持ちを踏みにじるような真似が出来るのか。
思わず手が出そうになれば、隣にいた福富にそれを止められ、行きどころのない怒りが歯がゆくて唇を噛んだ。

「本人が決めたんだ。それを無理に覆す必要はない」

……そうかもしれない。でも、それで納得してしまうのが嫌なのだ。

新開に向けられた、部員たちからの非難の目。まるで異端を見るような、疑心暗鬼の視線。そんなものを向けられる人ではない。向けられていい人でもない。
尊敬と、羨望を受けながらも気にした風もなく飄々と笑って返す、それが彼なのに。

突き刺さる視線の槍に、新開は肩をすくめて悲しそうに笑うと、すっと踵を返し、出口へと向かった。
誰も、彼に何の声もかけない。人口密集したこの部室で、彼の行く先を開けるように人の波が出口への道を開けた。

「待って、新開くん!待っ……――」

バタン。
しおりの叫びもむなしく開けられた部室のドアが、年季の入った音を立て、それでもきっちりと閉まった。

外と中を隔てるものなど、そこにあるたった数センチの壁だけだ。なのに、今はその距離がやけに遠い気がして。もう一生追いつけないような気がして、酷く怖くなった。

無意識に追いかけようとしたしおりの身体の前に、行く手を阻むようにして福富の腕が差し出される。
目が合い、福富が頷く。どうやら『自分が行く』ということらしい。

確かに、福富と新開は中学も同じで、チームメイトとして、友達としての付き合いも長い。
状況把握すらままならない自分より、彼に行ってもらうのが適切に思えて、一歩、後ずさって彼に道を譲った。

「行ってくる」
「うん……あの、福ちゃん」

出ていく間際、彼の名を呼べばその人はまっすぐとこちらを振り返ってみせた。
きっと今、自分は酷く情けない顔をしている。不安でいっぱいで、余裕の欠片さえない顔だ。

名門箱根学園自転車競技部のマネージャーとして、冷静でいたい。2年の先輩として堂々としていたい。けれど、そんな肩書きを気にして取り繕うことなど出来ない状況なのだ。

息をのんで、震えそうになる声を絞り出して口にした。

「新開くん、何か理由があるんだよね?理由もなく放り出すなんて、しないよね?」

彼に聞いたってわかるはずもないのに、すがるような問いかけが口をつく。ただ確証が欲しかったのだ。誰かからの同意が欲しい。
自分の知る新開が、自分の信じる新開がそんな人ではないと、誰かに肯定してほしかった。

「しおり」

後ろから、誰かがしおりの肩を抱く。東堂だ。落ち着かせるように背を撫でられ、震える呼吸が少しだけ正常に戻った。

続いて固く握りしめられた拳に、誰かの手のひらが重ねられる。

「……力抜け、血出てんだろォが」

固まってしまったように力の込められた指先を一本ずつ解くように荒北の指が絡んでくる。
よほど強く握りこんでいたのだろう。短く切りそろえていたはずの爪が柔らかな手のひらに突き刺さり、その皮膚に傷をつけているようだった。

二人とも、冷静であるようには見えるが、その表情は硬く険しい。眉間に寄せられたしわの深さがそれを物語っているようで、しおりはすがるように福富を見た。

彼の瞳は揺らいでいなかった。まっすぐにしおりを見つめたまま、微動だにしていない。
諦めていない、疑ってもいない。固い意志がそこにある気がして、しおりはキツく噛みしめていた唇の力を、少しだけ緩めた。

「信じろ」

強い声だった。揺るぎなく響く、安心する声だった。
いまこの場で、一番説得力のある彼からの肯定の言葉。
それに少しだけ安心して、強く頷いてみせた。


 
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