72:理由



梅雨も間近になった、休日の夕刻である。そろそろ日も傾き始め、自主練に勤しむ者たちが帰り始める時間帯。湿気た生暖かい空気が、練習で疲れた体をさらに気だるげにさせるような、そんな感覚だ。

ひとり、またひとりと部室から出ていくチームメイト達を横目に、今日初めて部室を訪れた新開は、堪えきれない思いを胸に部室のドアをノックした。

「二年、新開入りまーす!」

自分でも、浮かれた声になっているのがわかる。開けていく視界の中、まだ数人の部員が残っている部室の中に真っ先に彼女の姿を見つけて、思わず堪えていた笑みが漏れた。すぐに新開の姿を捉えた彼女がそれに返すように「おかえり!」と笑顔を向けて駆け寄ってくる。

(『おかえり』って良いな)

……そう。なんか、夫婦みたいで。

いや、それ以上考えるのはやめよう。
ニヤけた顔がさらにニヤけそうになるのをグッと我慢し、代わりに彼女の目の前に、今日の成果である手の中のトロフィーを小さく掲げてみせた。

「えっ、もしかしてまた優勝したの?」

大きな目を更に大きく見開いて、しおりが驚いたように声に出す。答えることをせずに、すかさず証拠のトロフィーを彼女に手渡せば、合金のズシリと来る重さがそれを事実だと伝えたのだろう。彼女は押し黙って、手の中のトロフィーをまじまじと見つめていた。

大会という大会を総なめにしていた彼女なら、このくらいのトロフィーは家に山ほどあって、見慣れてもいるだろう。

なのに、目の前の彼女は、それを見て喜んでいるのだ。
顔を見ればわかる。少し高揚した頬に、キラキラと輝いたままトロフィーから視線を離せないでいる瞳。口を不自然に真一文字に結んでいるのは、叫び出したい感情を抑えているからか。

普段の彼女ならここで抱き着かんばかりに飛びついてきて、手のひとつでも取って回り出すのだが、そうしないのは、他の部員……特に後輩たちの目があるからだろうと直ぐに理解できた。

自分たちが上級生になったのと同じく、彼女もマネージャーとは言え『先輩』の立場になった。可愛くも、才能にあふれる後輩たちに自分たちが見せなければいけないのはフレンドリーさではない。圧倒的な実力差と、威厳だ。

それは練習の司令塔であるしおりにも言えることで、マネージャーとして部員たちを献身的に支えながらも、きっちりと一線を引いて、良い具合に部内の空気を引き締めてくれているように見えた。

1年は、彼女が無邪気に笑ったり、恐ろしい剣幕で怒鳴ったり、声をあげて泣いたりする姿など知りはしないのだ。
いや、3年の先輩だってそこまで感情をむき出しにした彼女を見たことがないだろう。

強い彼女が激しい喜怒哀楽を見せるのは、『自分たち』の前でだけだ。
そんなどうしようもない優越感がじわりと胸を支配していく中、先輩の顔をした彼女が大人びた表情を纏いながら、新開にトロフィーをそっと返した。

「すっかりエーススプリンターね」
「はは、買いかぶりすぎだ」
「今年だけでU−17スプリントレースに利根川クラシック、それに神宮クリテウムの優勝カップまで持ち帰ってきた人が何言ってるの」

つらつらと、淀みもなく自分が好成績を残した大会の名前を並べた彼女に、新開が苦笑を漏らす。この箱根学園自転車競技部で、大会優勝の記録を持っている者などかなりの人数だ。なのに、そのひとつひとつが彼女の中に刻み込まれ、その結果が練習内容として反映されていく。

どこまでも、部員を見ている人だと思う。
いつまでも、自分を見ていて欲しい人だと思う。

胸の奥が締め付けられて、その切なさに息が詰まる。何も言えずに半ば見とれるように彼女を見ていると、その視線が不意に重なり、彼女の目元が優しく弧を描いたのを見てドクリと胸が波打った。

「優勝おめでとう、新開くん」

何十回も、何百回も他人から言われてきた言葉。それが当たり前と思って受け入れてきた言葉。なのに、彼女がそれを発するだけでこんなにも世界が明るくなる。

「ありがとな、しおり」

自分がペダルを回し続ける理由は、もちろん自転車が好きだからだ。
けれど、少し前から……いや、ずっと前から徐々に、なのかもしれない。その理由の中に新たな意味が加わっているのをひしひしと感じていた。

彼女からの賞賛を聞きたい。憧れだった彼女の隣を、胸を張って歩ける存在になりたい。
たとえ何があろうと、どんな敵がいようと。脇目も振らず、前だけを見て。

ただ我武者羅に、まっすぐに。彼女のいるゴールへと飛び込みたいのだ。














*********












――静寂の中で、動かない命を見下ろしていた。

先ほどの優勝の高揚が、耳に残る観客からの煩いくらいの歓声が、受け取った、王者の証のトロフィーの重みが。それを見つけた瞬間にピタリと身を潜めた気がした。

もう夏も間近だというのに、手足の末端が凍るように冷たい。この道を通らなければよかったと。気が付かなければよかったと後悔した次の瞬間、それが自分の奪った小さな命に対してひどく残酷な思考なのだと気が付いて、罪悪感で胸が詰まった。

寒くて、怖くて。今すぐに自転車に跨って逃げ出してしまいたいのに、まるで凍りついたように指先ひとつ動かせない。
いま跨ったりしたら、誇り高く美しいこの愛車が、汚い自分で穢れてしまうような気さえしたのだ。

……誰よりも速く走れば、誰もが認めてくれると思っていた。
まっすぐに、自転車乗りのプライドを貫き通して勝負することが、レースでのフェアプレイだとそう思っていた。

この事故だって、他人から見ればただの『レース中の不運な事故』だ。しかも、観客からすれば不運だったのは命を落としたこのウサギではなく『飛び出してきた障害物によって落車した新開』の方なのだ。

新開自身も、今のいままでそう思っていた。
『障害物で落車したが、すぐに立て直して優勝を手にした自分』の実力に確かな自信を持ち、半ば酔ってすらいた。けれど今は……――

自分の信じて走ってきた道が、まっすぐな一本道が、急にガラガラと音を立てて崩れていく錯覚に襲われて足元がフラつく。
必死で踏みとどまろうと踏ん張るが、膝が制御不能なほどに震えてしまい、結局バランスを崩し、新開は前のめりに転んでしまった。


一気に近くなった、動かない命との距離。

もしかしたら……といちるの望みをかけ、冷え切った指でそれに触れれば、暖かく柔らかかったはずの肢体は、既に冷たく、硬い物質へと成り代わっていた。きっと自分との衝突の瞬間から徐々に、徐々にそうなったのだろう。

誰にも看取られない、孤独の中で。

「ぅ……ぐっ……」

吐き気がする。これのどこがフェアプレイなのか。
握りしめたままだったトロフィーが目に映って、無駄に輝かしいその色に腹が立った。彼女に見せようと喜んで受け取った、勝利の証。けれど、今となってはこんな物の何が嬉しかったのかすらわからない。

取り返しのつかないものを奪って手にした勝利など、彼女に見せられない。
見せられるわけがない。綺麗な彼女を、こんなもので穢したくない。


彼女からの賞賛を聞きたかった。憧れだった彼女の隣を、胸を張って歩ける存在になりたかった。
たとえ何があろうと、どんな敵がいようと。脇目も振らず、前だけを見て。


――けれど、もう叶わない。





絶望で真っ白になった頭の中、不意に、亡骸に手を置いていた右手に、何か暖かなものを感じて、新開はハッと顔をあげた。

いつからそこにいたのだろう。もしかしたら、気が付かなかっただけで最初からそこにいたのかもしれない。動かなくなった小さな命の傍らに、それよりももっと小さな命があった。

ヒクヒクと鼻を鳴らし、横たわる亡骸を不思議そうに眺め、次いでその肢体の上に乗った新開の手を興味深そうに嗅いでいる。

指先を、少しだけその仔ウサギに向ければ、それは一瞬だけ警戒したように身を引いたが、すぐにまたとぼけた顔で鼻を鳴らして、小さな舌で舐めてみせた。

小さな命だった。暖かい命だった。
自分の奪った命が残した、大切な命だった。

途端にとめどなくあふれ出てくるのは大量の涙と、情けない嗚咽だ。滅多に泣いたりなどしないため、止め方なんてわからなかったが、それでも構わないと思った。

暖かな命を両手で抱きあげ、胸に抱いた。聞こえてくる命の鼓動は、小さく、速く、けれど確かに動いている。当たり前のことが酷く嬉しくて、また滝のように流れ落ちてくる涙が仔ウサギを抱いた手を濡らした。

どこもかしこも冷たくなってしまった自分からこぼれ出した水は、予想外に暖かい。
今度こそ、この暖かさをなくさない。なくしてはいけない。小さな命の重みを、しっかりと抱きしめた。


 
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