71:後輩たちの独白



「はい、今日はここまで!お疲れー」

パンパン、と手のひらを叩く小気味の良い音がして、疲れでぼうっとしていた頭が急に現実に引き戻される。
それはまるで催眠が解けたかのように。それまで車輪の回る音と男たちの荒い息遣いだけが響いていた部室から、スッと張りつめたような緊張感が抜けた。

「あー、もう無理!」
「足やべー、動けねえ!」

部員の何人かが悲鳴やら泣き言やらを口にしながら、ロードバイクから転げ落ちる。
年期は入っているが綺麗に掃除された部室の床。その上に大の字になってヒイヒイと息を漏らしては苦しそうに胸を上下させては、必死で肺に酸素を送っている。

体裁も気にせず次々と倒れこむチームメイトたちを横目に、泉田もペダルを踏んでいた足を止め、のろのろとロードバイクと自身を繋いでいたクリートを外した。

「うっ……」

床に足を付いた途端、疲労で棒の様になっている足が、自身の体を支えることすらままならない状態になっていることに気が付いた。
どうやったって、膝が笑ってしまう。それでも何とかロードバイクから降りて、他の部員たち同様ペタリと冷たい床に尻を付けば、自分がまるで力のない生まれたての小鹿のようになってしまったかのようで妙な感覚だった。

「ふふ、大丈夫?」

その姿を見られていたのか、自転車競技部唯一の女子マネージャーであるしおりがくすくすと笑いながらこちらに近づいてくる。その手にはタオルと給水ボトルが握られていて、その進行方向からすると、どうやらそれらは泉田用の物らしかった。

……ありがたい。
無事に自転車から降りられたは良いものの、疲れ切って立てそうもないのだ。
差し出された物資に礼を言って、冷やされたボトルの中身をグッと喉へ流し込めば、汗で流れてしまった水分がまた体中に沁み渡っていった。

きっと、体の筋繊維は酷く損傷しているだろう。この太ももの痙攣具合からいくと、筋肉痛三日間コースだろうと苦笑いした。

この数か月、箱根学園自転車競技部という自転車競技名門校での過酷な練習の中で、何度もこの裂傷が引き起こす筋肉痛を経験した。座っているだけで。寝ている時の寝返りすら苦痛に思うほどのとてつもない痛みが襲ってくるのだ。

しかし、それは自己治癒力により修復されることでより強く、たくましい筋肉へと変わっていく前触れなのである。
何度でも強く、美しく生まれ変わる筋肉。鍛えれば鍛える程応えてくれるその魅力に、泉田は恍惚の息を吐いた。

そんな彼の様子をしおりはニコニコと見つめ、そうして隣にしゃがみ込んだ。
穏やかな笑顔を浮かべる彼女の視線の先にあるのは、死屍累々の1年生部員たちだ。皆限界まで回したのだろう。話す余裕もなく、ただ肺に空気を送ることだけに特化した生物のように、必死で酸素を体に回しているようだった。

「ちょっと練習キツかった?」
「まあ……流石にローラー2時間ぶっ通しは疲れますね。でも、練習は嘘をつきませんから。ボクは嫌いではないです」

そう返せば、彼女は何だかとても嬉しそうにいつもの朗らかさで笑って見せる。
聞けば、なんでも彼女は主将に1年に体力ギリギリまで追い詰めるメニュー組めと申し付かっていたらしい。
つまり、本当にギリギリでメニュー組みしすぎたかも、と不安だったらしいのだ。

「けど何だかんだで全員クリアしちゃうんだから、さすがに箱学は1年生も優秀よね」
「いえ、そんな……」

謙遜しようと視線をあげれば、そんな彼女からの世辞に、部員たちが顔を見合わせて頬を緩めているのが見えた。

そりゃあ、嬉しいだろう。
だって相手は彼女なのだ。どういう経緯でかは知らないが、この名門箱根学園自転車競技部において、上級生の部員のみならず、顧問やコーチからも信頼されている正真正銘の『すごい人』だ。
そんな人からの褒め言葉なのだから、嬉しくないはずがない。

まだ息も整わないというのに、まるで子供のように嬉しいという感情を隠しもしないで笑っている部員たちに、思わずため息が漏れそうになるが、かくいう自分も、心の中からじわりと溢れてくる暖かな感情に、口元が緩みそうになっているのは事実だった。

「きっとみんな、すぐに今よりずっと速くなれるよ」

だから頑張ろうね、なんて。そんな月並みな言葉でさえも、部員たちの士気に変わっていく。
疲れ切った彼らの表情がその時だけはキラキラと輝き、硬い意思を持って上下に振られる。

……この人は、すごい人だ。

こういうところが、ものすごくうまい人なのだ。

まだ入部して数か月だが、ここという場面で彼女が部員を奮い立たせてくるのを何度も見た。慢心を叱り、折れそうな心には激を飛ばし、頑張る人には惜しみなく賞賛を与えてくれる。使い分けがうまいのだ。それだけ、選手一人一人を見てくれていると言ってもいい。

箱根学園自転車競技部には、顧問はもちろん、技術コーチもついているのだが、入部当初に練習メニューの作成は彼女主体で行っているという話を聞いて、失礼ながら何故彼女にそのような権利が与えられているのかと少し疑念を抱いていたのだった。

確かに、彼女も自転車には乗るらしいが、それでもコーチや選手の先輩方の方が技術も知恵もあるのは明らかなのだ。だのに、マネージャーというだけの彼女に頼る意味があるのか。

しかし、時がたてばたつほど、その割り振りが適切であることを知った。
誰よりも部員を見て、誰よりも考えて、誰よりも傍にいてくれているのは、彼女なのだということを、いつだって感じるのだ。

その信頼は、揺るぎない安心感へと変わり、いつしかどんな過酷メニューでも『彼女が言うなら自分にもできるのではないか』と思うようになる。

まるで神様みたいだ。人間臭くてよく笑う、箱根学園の女神様。
見つめていたら眩しくて、少しだけ目を細めた。













「なあ、ユキ。佐藤先輩ってどう思う」

帰り道、寮へと続く道のりを歩きながら隣にいる幼馴染に問えば、彼は面喰った顔をしてこちらに目をやった。

「……塔一郎、まさかお前あの人のこと」
「わあああ!違う、違う!恋愛的な意味ではなくて、マネージャーとしてだ!」
「なーんだ、つまんね」

せっかく塔一郎にも春が来たかと思ったのに、と冗談めかして舌を出す黒田に真っ赤になって声を荒げれば、彼は「悪ィ、悪ィ」と笑って、謝罪のつもりなのか泉田の肩を軽く拳でつついた。

黒田の瞳が宙を見つめる。長く付き合っていてわかるそれは、頭の切れる彼が考え事をしているサインだ。考えているのは他でもない、今自分が話題として振ったマネージャーの彼女のことだろう。

「正直、オレあの人怖ぇんだよ」
「どうして?優しくて良い人じゃないか」
「だってよ、さっきもあの人言ってたじゃん。『1年生には体力ギリギリまで追い詰めるメニュー組めって言われてる』って。お前さ、会って数か月のやつの限界値とかわかる?それで練習組める?」

問われて、首を横に振る。
出来ない。たとえそれが長年一緒にいる黒田だろうと、彼の限界値をはかって練習メニューを組むなんて、無理な話だ。それに、その対象が一人というならまだしも、今日のように1年全員まとめて見なければならないという状況で、全員のギリギリを見極めるだなんて、不可能に近い。

なのに彼女はそれを意図的にやっているのだ。全員のアウトラインを見極めて、メニュー組みをしている。
それを思うと、ぞわりと鳥肌が立った。並の観察力ではない。少なくとも常人には、そんな真似は出来ない。

「……確かに、少し怖いな」

微かに震えた泉田の声に、黒田も「だろ?」と肩をすくめてみせた。

けれど、腑に落ちない点もある。彼女が本当に自分たちの限界ギリギリを知っているとして、何故今日、1年全員同じメニューだったかということだ。
例え同い年でも、体のつくり、でき方の具合で個々の能力値が違う。確かに今日のメニューは自分たちは限界ギリギリだったが、体力的に劣る部員だっていたはずだ。なのに、メニューの完遂率は100パーセントだった。

恐る恐る、それを黒田に伝えれば、彼もそれには気付いていたようでさほど驚くこともなく頷いてみせた。どうやら、そのことについての仕掛けもわかっているようだ。

「一体どんなマジックを使ったと思う?」

首を横に振る。わからない。わかるはずもない。
目的地である寮はすぐそこだ。目と鼻の先で賑やかで暖かな光が建物の中から漏れ出している。お腹もすいた。クタクタで、早く熱いシャワーを浴びて布団に飛び込みたい。
けれど今は、そんな欲求よりも彼の話の続きが気になって仕方がなかった。

暗闇の中、耳に入ってくるのは夜虫たちの声。風の音。ざわめく木々の、葉のこすれ合う音。
寒くも熱くもない気温。なのにどうしてか、鳥肌が止まらなかった。

黒田が、ゆっくりと口を開いた。

「タネも仕掛けもないんだよ」

――あの人がやったのは、落ちそうになる奴らを『励ます』ことだけだ。
言った黒田に、泉田がコクリと喉を鳴らした。

それなら泉田も見ていた。一定以上のケイデンスがないとバランスの取れないローラー練習で、疲れてペダルが緩みそうになる部員の背を彼女が優しく叩くのを。励ますのを。

そして泉田も、あの2時間ローラーの中で一度だけ、彼女からの言葉を受け取っていた。

『もうちょっと力抜いて回してみて。楽になるから』

それは丁度、初めての長時間ローラーの練習に、足が釣りそうになっていた時のことだった。必死すぎて自分で力んでいたことすらわからなかったのに、彼女は釣りそうになっていた左の太ももをピンポイントで指さしたのだった。
言うとおりにすれば、ペダルは段違いに回しやすくなった。あそこで彼女の言葉がなければ、自分は一旦ローラーから降りる羽目になっていただろう。

……彼女は、それを他の部員にもしていたのだ。
落ちそうになる部員を目ざとく見つけては、何度も、何度も励まして、奮い立たせて、そして。

――限界突破させてみせた。

「っ……、」

感じる恐怖が息を詰まらせる。けれどこれは彼女に対する畏敬からの恐怖だ。彼女に指導して貰えたなら。付きっきりでマネージメントして貰えたなら。

自分はどこまで強くなれるのだろう。



その時一瞬、彼女と同学年の4人の先輩の姿が頭をよぎって、泉田は唇を噛んだ。
どれも怪物のように速い人たちだ。その速さは、強さはもちろん彼らの努力の賜物だということはわかっているが、その奥底……根本には、彼女という存在がいる気がした。

どうして彼らが彼女に執着するか。独占欲むき出しの感情を隠しもしないのか。それが今ならわかる気がする。
いなければならないのだ。箱根学園自転車競技部が王者たるために。自分を高みに持っていくために。彼女の存在が、必要なのだ。

泉田は、ふう、と息をつく。『たられば論』は好きじゃない。けれど、今自分の隣で話を聞いているのは幼馴染の彼だけだ。きっと少しの弱気は大目に見てくれるだろう。

「あと1年早く生まれていたら」

――3年間佐藤先輩と一緒だったのに。
羨むような声色に応えるように、暗闇の中で、微かに笑う声が「全くだな」と肯定を返した。




 
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