70:女の子のプライド



日当たりのいい廊下を駆け抜けていく。
一年前は追いかけてくる東堂たちから逃げ回るために走り、その度に教師から叱られていたこの廊下も、今では『あの場所』に続く道という印象の方が強くなっていた。

荒北の居そうな場所なんて、ひとつしか知らない。
けれどそこにいるという根拠のない確証が、しおりの中では揺るぎなくあったのだ。

廊下一面に広がっている窓ガラスの一枚の前に立ち、スライドさせる。スカートのまま豪快に飛び越えたこともある窓を、今日は上からそっと身を乗り出すにとどめて、静かに彼の名を呼んだ。

「荒北くん」
「……おう」

予想通りにそこにいた荒北は、いつものごとく校舎の壁に背を持たれかけて佇んでいた。
しおりからの突然の呼びかけにさほど驚きもせずに、ただゆっくりと答弁だけを返してくる。視線はいまだボーッとどこかを見つめたままで、頭上にいる彼女の姿など視界の端にも入っていない。

……それが今の自分たちの距離感だ。
わかってはいたが、チクリと胸が痛んだ。

「謝りたいことが、あるの」
「……謝られるようなことされた覚えはねえぞ」
「私にはあるの。この間、いきなり髪なんて切ってごめん。驚いたよね」
「べっつにィ」

短く返した彼の視線が、チラリとしおりに向いて、すぐ逸らされる。いつも寄せられている眉間のしわが、さらに濃くなった気がして、そんなに自分と話すのが嫌なのかとしおりの胸が酷く痛んだ。

もう彼との距離は縮まらないのだろうか。この先も、この当たり触りのない距離感でギクシャクと接しなければならないのだろうか。

突発的だったとはいえ、それなりの覚悟があったからこそ、自分の意志で髪にハサミを入れたのに。
それが生んでしまった辛すぎる結果に、後悔がじわじわと心を侵食してくる気がして、覚悟が鈍ってしまいそうだった。

そうして押し黙ったしおりに、荒北は言葉を続ける。

「そもそもオレが切れっていったようなもんだ。むしろお前は怒ったって良かったんだ。『オンナは髪が命』なんだろ?」
「そうだね。長髪って女の子らしさの象徴みたいなものだから」

――それがプライド。
少なくとも、そう思っていた。

返した言葉に、今度は荒北は黙りこくって動かない。彼の表情は良く見えないが、そこに自分が感じているのと同じ類の後悔やら罪悪感やらが渦巻いている気がして、しおりは無意識に、開け放した窓からそっと手を伸ばした。

こちらを向かない荒北の顔を両手で包み、自分の方に向けさせる。細い目が見開かれて、発達した喉仏がコクリと上下に揺れるのを見た。困惑した表情の彼に、しおりは不格好に口角をあげながら問うた。

「ねえ。私がどうして髪伸ばしてたか、わかる?」

手の中の彼の顔が、小さく左右に振られる。

……当たり前だ。誰にも言っていないのだから。

けれど答えは至極簡単だった。

女の子らしくあるために、長い髪が必要だと思っていたのだ。
過去を捨てるために。忘れるために。自転車に乗っていたことを、周りに気取られることのないように。

だから髪を伸ばした。

「逃げたかったの。過去から」

情けないよね、と苦笑すれば、一言も発せず聞き入っている荒北の瞳が動揺するように揺れていた。

彼が考えているのは、きっと自身の過去のことだろう。肘を故障し、グレて髪をリーゼントに出来る程伸ばした自分の過去のこと。

自分たちは、驚くほど似ているから。
だから彼は、しおりが自分で髪を切った『本当の理由』に気が付いたのかもしれない。

それまでずっとどこかぼんやりとしていた彼の瞳がはっきりと色を持ち、そしてやっとまっすぐにしおりを見据えてくれた。

前に荒北が髪を切った理由を問うた時、彼はしおりに言ったのだ。『必要ないプライドだから捨てた』と。
潔い生き方が眩しかった。自分もそうありたいと思わせ、進ませてくれる程に、彼の言葉はまっすぐだった。

けれど、その時の自分にはまだ全てを捨てる勇気はなかったのだ。それくらい、自分の過去は暗く心の中にこびりついていたのかもしれない。……でも。

「――でもね、今は皆と一緒に走りたいの。だから女の子のプライドなんて、必要ない」

だって、過去から逃げる必要など、荒北たちに出会ってどこかに吹き飛んでしまったのだから。

あの髪だって、切るのを先送りにしていただけでいつかは切ろうと思っていたのだ。ただそのきっかけが、先日の荒北の言葉だったというだけ。彼が気に病む必要も、自分が怒る理由も、どこにもなかった。

「……バカじゃねーの」

思い切りすぎだ、と続けた荒北はなんだか泣きそうな顔をしていて、こちらもつい涙腺が緩みそうになってしまう。
それを何とかこらえて「へへ、」と笑えば、荒北も久しぶりの笑みを浮かべてくれた。

荒北が、身体の向きを変え立ち上がる。窓のヘリを挟んで向き合えば、そうやって面と向かって話すのさえ久しぶりな気がして、何だか妙に嬉しかった。

「私のショートは似合いませんか」
「あ?東堂が可愛い可愛いウルセーし、似合うんじゃねえの」
「荒北くんは、どうですか」
「なんで敬語なんだよ。……まあ、似合うけどさァ」

視線を逸らし、首元を掻くその仕草は照れた時の彼のクセだ。思わず吹き出せば荒北に怒られたが、そこまでがいつもの一連の流れ。そんなやり取りに付き合ってくれる彼も、心なしか楽しそうに見えた。

ひとしきり笑った後、二人の間を沈黙が通る。
……こういう時に横切ると言われているのは、天使だったか、死神だったか。
心地の良い沈黙に、まあ、どちらでもいいか。と1人ではにかんで、もう一度荒北を見つめた。

「ねえ、隣に行ってもいい?」
「別にいいけど、窓から出るのはナシな」
「えー、窓からの方が近いのに!」
「そこの女らしさは捨てちゃダメだろが!」

むくれたしおりに、荒北はため息をつく。
彼女との出会いを思い出してしまったのだ。バランスを崩し、空から降ってきたじゃじゃ馬女の姿は、今でも忘れられない。
あの時のように足を踏み外して怪我でもしたらどうするのか。彼女にはそういう配慮が足りないように思うのだ。

それに、ヘリを乗り越えた瞬間にまた下着が見えてしまう可能性だってぬぐいきれない。そんなことになれば、健康な青少年のこちらとしては色々と堪らないのである。

というか大体、こんな大きな段差で足をあげ、あまつ飛び降りようとするからそういう心配が出てくるのだ。

百歩譲って、支えられるような階段か、彼女を釣り上げるクレーンか何かがここにあれば別だが、そんなものがあるはずもない。

(ない……が、)

荒北は咄嗟に、代用できるものを思いついてしまった。

普段の自分からすれば、それはあまり気乗りする考えではない。しかし、今はそんなものよりただ気が急いているのだ。

……隣に並んで話したいと思っているのは、彼女だけではない。
二人を隔てている校舎の壁という距離すらもどかしくて、そんな自分の感情に小さく舌打ちしながらも、迷いなく手を伸ばした。

「おい、オレが合図したら軽く飛べ」
「え、何なに?わっ、」

いきなり両脇に手を差し込まれ、どうしたらいいか迷っている彼女を気にもかけず、荒北は「せーの」の掛け声と同時に彼女を持ち上げる。
果たして彼女が飛んだかどうかは不明だったが、どうにしろふわりと持ち上がった体は軽く、大して苦労することもなく彼女を窓の外に引き寄せることが出来た。

そのままそっと地面に降ろしてやれば、驚愕の表情に体を固めた彼女が荒北を見上げている。間抜けな顔に鼻で笑ってやると、そこでハッとしたのか、彼女は顔を真っ赤にして慌てていた。

「なっなななななにを……!」
「しおりチャンがすぐに出て来たいって言うから手伝ってやったんだよ。あー、重かった」
「今非常口の方に回ろうと思ってたところだもん!持ち上げられるなんて思ってなくて、ダイエットもしてなくて、だからっ」
「冗談に決まってんだろ」

恥ずかしさと怒りを込めた非力な拳で叩いてくる彼女の頭を、なだめるようにポンポンと叩いてやる。
いつものクセで髪をなぞるように手を沿わせれば、滑らかな髪の感触が首筋辺りで消え、しおりの素肌に触れた。すると荒北は驚いたように手を引っ込めて、自分の手と、短くなってしまったしおりの髪とを見比べて、頬を指で掻いていた。

……確かに活発な彼女にはショートヘアが似合う。
けれど、荒北にとっての彼女のイメージからは、あの長い髪が切っても切り離せないのだ。

揺れる髪に触れるのが好きだった。野郎ばかりの部活の中で、彼女とのすれ違いざまに香るシャンプーの匂いに癒されもした。

「……なげえ方が好きだなあ」

ぽつり、呟くように漏らした荒北に、しおりは何かを思い出したように顔をきらめかせ、満面の笑みを浮かべて、短くなった自分の髪に手をやる。

「私、また髪伸ばすから」
「あー……いや、別に無理して伸ばさなくてもお前の好きにしろよ」
「だから好きにするの。私、荒北くんの為に伸ばす」

さて、今の今まで忘れていたので、いささか登場が遅かった気がするが、最後のしおりの発言こそ、東堂たちにアドバイスされたセリフだったのだ。

『荒北の為に伸ばしてやるとでも言えばアイツの機嫌などイチコロだ』

そう言われて、いま実践に至ったわけである……が。
言うタイミングとニュアンスを完全に見誤っている。まるで恋人の好みに合わせるために髪を伸ばす女の子、といった風になってしまったが、もちろん発言した当の本人は気が付いていないのであった。

動揺しているのは、彼女からの直撃を食らった荒北だけだ。
突然の告白に、先ほどまで余裕ぶっていた顔を首まで赤く染め、うろたえている。そうして両手で顔を覆い隠し、悶えたい気持ちを押し殺して絞り出すのだ。

「ア、アリガトネェ」

恥ずかしさで消え入りそうな礼を言えば、諸悪の根源である彼女が嬉しそうに笑った。


 
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -