68:代償



「偵察だ」

王者の、と最後に付け加えた彼の言葉で、しおりはこの総北の金城という男が一筋縄ではいかない存在だということに気が付いてスッと目を細めた。

……どうやら、自分はまんまと乗せられたらしい。
今の彼との会話を思い出して、頭の中で小さく舌打ちをする。
彼の当初の目的は、おそらく荒北ただ一人だったのだろう。

王者たる箱根学園は、それゆえに敵も多い。この時期はインターハイ前で、自分たちの情報を少しでも隠そうとするため、箱根学園の選手がこの時期に地方の大会に出るということなど本来であればあり得ないのだ。

そんな中、この金城という男はどこかでこの大会に箱根学園の選手が出るという噂を聞いて、情報収集の為にわざわざやってきたのだ。
身のある情報が手に入る確証もないのに。いちるの望みだけをかけて、ここに来た。

そうして彼が見たのは、野獣のように優勝をかっさらう名もなき自転車乗り『荒北靖友』の姿。
それだけでも十分な収穫だったろうに、何の因果か、彼はその箱根学園のマネージャーであるしおりにも出会ってしまったのだ。

王者の情報が欲しい彼からすれば、こんなチャンスを利用しない手はない。
つまり金城は、相手が女だからと気を抜いて情報を漏らしていたのではなく、最低限の情報を餌にして、やんわりとこちらの情報も聞き出して来ていたのだ。

「……良い性格ね」
「お互い様だろう?」

不敵な笑みを浮かべ合う。だったらこちらも仕掛けてやろうではないか。しおりが意気揚々と口を開いた、その瞬間。

「オイ」

突然、背後で地を這うような声が聞こえて、しおりはビクリと肩を震わせた。
振り返ると、そこには不機嫌を顔中に張り付けた荒北の姿があって。ギロリと睨む鋭い眼光が、しおりの目の前にいる男に向けられたのが分かった。

「しおりチャン。それ、ナンパ?」
「え?ちがくて、あのね、」
「ああ、君は今のレースの優勝者か。とても良いレースだった。特に――」
「ンなことどーでもイイ。離せよ」

ぐい、と荒北の手がしおりの腕を引っ張る。するとその拍子に絡まった髪の束がピンと張りつめ、しおりは痛みに小さく悲鳴を漏らした。

その声に驚いたのは、荒北の方だ。
確かに、今のは少しばかり乱暴だったかもしれないが、それでも彼女が痛がるようなことをしたわけではない。しばし呆然としていると、その隙に彼女の目の前にいた男が荒北の手の中から取り返すかのように彼女を奪い去ったのが見えた。

(……こンの野郎!)

イラついて、意地でも彼女を引き寄せようと手を伸ばす。すると、その指から守るかのように男が彼女を引き寄せ、胸に抱いた。
彼女の目が見開かれる。かあ、と赤くなった表情に、荒北の頭の中も凶暴な赤で染められていく気がした。

「キミ、乱暴はよせ。状況を見ればわかるだろう」

非難がましく男が指さした先には、男の服のボタンと、そこに絡まる黒くてまっすぐな長い髪。間違いなく彼女の象徴ともいえる黒髪だ。
それが見事に小さなボタンに絡みついて、男と彼女を繋いでしまっている。

……状況は大体わかった。これはナンパではない。事故だ。
けれど、だからと言って荒北の中に込み上げた怒りが収まることはない。

何故なら、男は今も彼女を抱きしめているから。そして、彼女がその状況を受け入れてしまっているのだって気に食わない。
言いようのない怒りで、吸った息が喉でヒュッと音を立てるのが分かった。

「そいつはうちのマネージャーだ。返せよ」

荒北の言葉に、二人が困惑したような表情を浮かべる。

わかってるよ。これが彼らにとって仕方のない状況だってことも、自分が酷く子供染みた嫉妬をしているということも。

普段なら鼻で笑ってスルー出来るようなことなのに、この時ばかりはどうしてか湧き上がってくる怒りが収まらない。

彼女に出会って、自転車に出会って、仲間に出会って、収まりかけていた醜悪な負の感情が、ドロドロと身の内から零れ落ちてくるような、そんな感覚がした。

「荒北くん、ちょっと落ち着い……――」
「大体、お前がそんな風に髪なんか伸ばしてるせいじゃねえの?」

なだめようとした彼女の声をかき消して、荒北の不機嫌が口を割って出る。
いきなり自分に矛先の向けられた中傷に、しおりは喉をひきつらせてその動きを止めた。けれど、彼女が傷ついた顔をしたのはほんの一瞬だ。
次の瞬間には全てを悟ったような顔をして、諦めたような表情をこちらを向けて目を伏せていた。

いつもそうだ。彼女は物わかりが良すぎる。
理不尽な怒りを向けられて怒るどころか、まるでその怒りごと受け入れてくれるような、そんな瞳で見てくるのだ。
いつまでも甘やかしてくる母親のように、自分の精神は彼女に守られている。

対等になりたいのに、隣にいたいのに。
溢れた気持ちを抑えられないまま、荒北は心にもない言葉を紡いで、吐いた。

「それで男の気ィ惹いてるつもりか?そのつもりでレース見に来たのかよ。っこんなとこで他の男に口説かれて、見とれてんじゃねえよ!!」

彼女がそんな女じゃないことくらい、荒北はよくわかっていた。彼女の前にいた男が、何事か批判的な言葉を口に出していた気がするが、あいにく何も聞こえなかった。

見えているのは、何を考えているやもわからない、彼女のまっさらな瞳だけ。永遠のような短い時間の後、不意にその目が逸らされて、絡んだ髪がつながるボタンへと落ちたのを見た。
つながったそこを指で引っ張り、やはりすぐには取れないことを確認すると苦笑して。それから彼女は、男の方をもう一度見上げた。

「……金城くん。これ切ってもいい?」
「あ、ああ。オレは構わないが」
「そう。ありがと」

礼を言って、彼女はゴソゴソと持っていたカバンを漁る。そうして出てきたのは、テーピングや包帯のカット用に使っている大ぶりのハサミだ。
それでボタンを切るのだとわかり、荒北はようやく少しだけ冷静になる。
早くそいつから離れろと。自分のところに戻って来いと、強く念じながら、彼女のハサミの行く末を見守った。

ジャキッ

耳に届いた金属音。その中に混じる酷く耳障りな音と、同時に目に入ってきた映像に、荒北の動きが止まった。
見開かれた瞳に映るのは、しおりの後ろ姿だ。
その白く細い右手には、件のハサミ。そして左手には……――彼女の黒髪が一束、握りしめられていた。

「な……に、を」

金城が、顔を青ざめさせながら彼女の顔を凝視している。
彼女が左手で握りしめた黒髪をどこからともなく取り出した袋の中へ落とせば、半透明のビニール袋へ、主を失った相当量の髪が、ばらばらと収まっていくのが見えた。


ジャキッ

男たちが呆然とする中、2回目の切断音に、今度こそ我に返った金城が彼女からハサミを奪い取って、地面に落とした。
均等に、長く美しかった彼女の髪は、全体の3分の1程がその暴挙によって首元くらいまで切り落とされている。
ここまですると、もうカットで誤魔化せるようなレベルではない。少なくとも全体を、髪が切り取られた首付近まで切りそろえなければ、とてもじゃないがバランスが悪すぎる。

荒北は動けない。
混乱していたのだ。彼女の行動に。
いま切り取られた黒く、長い物が何かさえ、わからなかった。

そして理解する。
もう、風になびくあの髪を見ることが出来ないことを。
後ろから悪戯に髪を引き、彼女の注意をこちらに向けることが出来ないことを。

いつだって、どこにいたってすぐにわかる、彼女の姿を探すことだって、もう出来ない。

――彼女のシンボルは、死んでしまった。

「表彰式、始まるよ。荒北くん」

やけに優しい声にハッとしてぼんやりとしていた焦点を声の方に合わせれば、いつの間にか荒北に向き直っていたしおりは、まるで今自分が髪を切った事実さえなかったような顔をして、嫌味もなく笑って見せた。

けれどその不格好なヘアスタイルを見れば、今のが現実に他ならないということなどすぐにわかる。そのまま下へと辿らせた先にある彼女の手には、切り取った黒髪の入ったビニール袋が握られていて。あの状況下でも、会場を汚さないようにと配慮して行動に出た彼女の冷静さに対し、取り乱して感情のコントロールさえできなかった自分が酷く情けなかった。

「優勝おめでとう。帰ったらみんなでお祝いしようね」

不揃いの黒髪を揺らし、彼女が笑う。

ああ。これが、自我を忘れた代償なのだとしたら、なんて大きな損失だろう。
優しい笑顔の彼女とは裏腹に無性に泣きたくて仕方がなくて。すがるように、彼女の細い肩に顔をうずめた。



 
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