67:珍獣動物園



……人ごみは苦手だ。
どこを見渡しても人、人、人の状況では、寿司詰め状態の人の波をどう避ければ良いのかも、どこに進めば目的地にたどり着けるかもわからなくなる。

(これがレース中なら、集団から抜けられる道なんて簡単に見えてくるのに)

何をおいても自転車ばかりの自分は、笑えるくらい、その他のことに不器用だ。さっきだって、荒北が気を利かせて手を掲げ、手を伸ばしてくれなかったら彼のもとにたどり着くまでにどれだけの時間がかかっていたことか。

繋いだ手から、引き寄せられた力強さ。どんなヘマをしても、どんな無茶をしても、彼らはいつだって手を差し伸べて、進む道を示してくれるのだ。頭を撫でて、褒めてくれる。励ましてくれる。

先ほど荒北に向けられた、笑顔を思い出し、どうしてか少しだけ胸が締め付けられたような感覚がしてブンと頭を振った。

……だって、いつもしかめっ面を張り付けて、後輩たちから『野獣』なんて呼ばれて恐れられている彼が、あんなに無邪気に笑うから。珍しい物を見たから、つい驚いただけだ。

未だ先が見えないゴールへの不快感を誤魔化すように、いま一瞬だけ感じてしまった感情をかき消すように、続けて考える。

それにしたって、箱根の部員たちは妙な二つ名が多くはないだろうか。知名度のある先輩方はもちろん、親しくしている4人だって、もれなく二つ名がついている。
――鉄仮面に、直線鬼に、山神に野獣。

(まるで珍獣動物園だ)

そんな言葉が不意に脳裏によぎって、思わず一人吹き出してしまった。





そうしてどうにか気を紛らわし、やっとのことで人ごみを抜けようかというその時。後ろ髪をグイ、と引かれる感覚で、しおりは思わず息を詰めた。

髪のことなどまるで気にも留めていなかった。いきなりの痛みと驚きでそのまま倒れそうになると、その肩をとっさに誰かが支えてくれる。
肩に添えられた手の大きさに顔をあげれば、とっさに自分を助けてくれたその人はさほど焦った様子もなく、倒れこんできたしおりを見下ろしてきた。

「大丈夫か」

落ち着きはらった低い声。凛々しい表情に、短く刈り上げられた短髪。黒縁の眼鏡がその利発さを強調しているようにすら見える。一体、何歳くらいなのかもわからない。
ただわかるのは……そう。


……視線を下げた先にあった自分の髪が、彼のボタンに絡まってしまっているという事実。
ただ、それだけであった。

「わっ!?ごめんなさい!」

慌てて彼のボタンから髪を外そうとするが、丈夫な黒髪は見事にガッチリと絡んでしまって、どこをどう解けばいいのかすら不明だ。元よりそんなに器用な方ではないが、早く取らねばという焦りでぐしゃぐしゃといじくり回すたびに絡みは酷くなっていくばかりであった。

……まさか、こんなところでも髪を結ばなかった弊害が出るなんて。

情けないやら、恥ずかしいやらで、もう涙が出そうになる。半泣き状態で、それでもうごうごとやっていると、それまで黙って髪をほどこうとしているしおりを見ているだけだった男が、不意にくすりと笑ったような気配がした。

「そんなに慌てることはないだろう。ゆっくり解けばいい」
「でも……」
「大丈夫だ。だから、そんなに泣きそうな顔をしないでくれ」

慰めるように、絡まったしおりの髪を指ですく彼の行動が酷く紳士的で、しおりは思わず顔を赤らめる。
……『オトナ』だ。きっとこれがオトナの余裕というやつだ。

比べて、髪が解けないくらいで泣き声をあげている自分がとても幼く思えて、恥ずかしくて目を伏せる。髪を解こうとする指にも力が入らずに、ただ酷くなったつなぎ目を、なぞる程度にしか動けなくなってしまった。

「……代わろうか」

見かねた彼が、動かなくなったしおりの代わりに絡んだ髪に手を伸ばす。ゴツゴツした男らしい手は、しおりのものとりずっと太くて大きかったが、その見た目とは裏腹にとても繊細な動きを見せながら少しずつ、絡まった髪を解いていった。

それを見ながら、しおりはふと、今目の前にいる彼をどこかで見た覚えがあるような気がして首をかしげた。

どこだっただろう。思い出せない。

身長も結構ある。たぶん180センチ近いのではないだろうか。服の下から覗く体は、かなり鍛えていそうな筋肉の付き具合だ。ロードレースを見に来ているということは、自転車関係の有名人なのかもしれない。雑誌やテレビに出ているような選手だったら、少なからず覚えていると思うのだが……――

「あ、」

髪を解いていく彼の姿を見つめながら記憶の波を探っていると、やがてその中に確信めいた記憶を見つけて思わず声をあげる。

「金城選手!」

浮足立った声で呼べば、目の前の彼は今度こそ驚いたように目を見開き「知っているのか」と口に出した。

知っているも何も、いましおりがリサーチしている他校の選手たちの中で特にメキメキと力を付けてきている選手である。数多の大会で優勝をさらっていて、箱根学園の先輩たちが彼に負ける姿だって何度も見た。
いわば、要注意人物。王者箱根学園の地位を揺るがしかねない男。

とは言っても、だからといってしおりが彼を敵対視しているわけではないのだ。むしろ、どんな不利な状態でも決して諦めず、勝ちを取りに行くその心意気には好感を持っていたし、ゴール前の彼の気迫は見ているだけで惹きつけられるものがあった。

それに、先ほどは大人の男性などと思ったが、歳は自分たちと同じ高校二年生のはずだ。
実力から言えば、うちのレギュラーメンバーにも劣らない。福富たちが今年のインターハイのレギュラーメンバーとして選ばれれば、確実に彼と競り合うことになるだろう。

……どんな走りを、どんな勝負を見せてくれるのか。

考えただけで楽しみで、爛々とした視線を彼に向ける。すると彼はしおりの首から下げられたレース関係者用プレートを見やり、一瞬手を止めると、困ったように頬を掻いた。

「参ったな。君は箱根学園関係者か」
「はい、マネージャーの佐藤しおりです」
「佐藤?……ああ!巻島が言っていたのは君のことだったのか」

巻島、という言葉を聞いて、そういえば件の彼も総北高校だったと今更ながらに気が付いた。

クモのように長い手足を用いて、驚異的な速さでのぼっていく――

巻島裕介は、彼のチームメイトだ。二人とも相当な実力者であることはしおり自身、その目で見ている為間違いない。

これは尚更に今後のレースが楽しみになってきた、と目を光らせれば、金城は何やらおかしそうに短く笑いをもらした。

「なるほど、噂通りだ。自転車のことを考えていると目を爛々とさせるというのは本当なんだな」
「ええ?巻島くん、一体どんな噂流してるんですか」
「いや、君のことは褒めていたぞ。ただ、そっちのクライマーからの連絡が頻繁すぎてウンザリはしているが」
「……叱っておきます」

考えずともわかる。巻島に迷惑をかけているそのクライマーの正体とは、十中八九、我が箱根学園自転車競技部のクライマー、東堂尽八だ。最近何やらやたらメールや電話をしていると思ったら、どうやら巻島への連絡だったようだ。

巻ちゃん、巻ちゃんとうるさいから、てっきり彼女でも出来たのかと思っていたら、そういうことか。盛大に息をつけば、金城も苦笑を返してくれた。

そうしてまた再開された彼の髪を解く作業。それを見つめながら、役にも立たず、手持ち無沙汰のしおりは彼にあれこれと話しかけてみた。

部員のこと、部活のこと。それに、インターハイのことも。情報収集も兼ねた質問だったが、やはり女だから警戒されにくいのか、彼は驚くほどサラサラと情報を漏らしてくれた。

見た目にそぐわずフランクな会話を好む彼のペースにつられ、最初は敬語だったしおりの口調も徐々に同年代に対するそれになってくる。
話によると、どうやら予想通り彼は今年のインターハイのレギュラーメンバーらしい。箱学と違って人数が少ないから、などと謙遜していたが、彼の実力を知っているしおりにはそれが嘘だということはすぐに理解できた。

彼の走りは完全にエースのそれだ。頭数合わせのレギュラーなどでは、決してない。

「ねえ、総北高校のレギュラーが、どうしてこんな大事な時期にレース見に来てるの?」

意地悪く、そんな質問をしたしおりに、彼はニヤリと笑って、彼女を見据えた。


 
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