65:進化する獣



無事に荒北への給水を終え、しおりも愛車のラピエールに跨ってゴール地点に移動する。
もちろん、選手たちが通ったコースを追いかけて走るわけではない。このコースには、ゴールに先回りするための近道があるのだ。

正味5キロほどの道のりだろうか。選手はそれより数倍長い距離を大回りするため、荒北をゴール地点で迎えることはなんら難しいことではなかった。

大きな荷物がショルダーバッグを通じてズシリと肩に重力をかけてくる。普段自転車に乗るときは最低限の荷物しか持たず、ほとんど手ぶら状態なので少し漕ぎにくかったが、まあ問題はないだろう。
自分と同じく、選手たちへの補給を終えてゴールへと先回りしようと急ぐ車を横目に、しおりもまっすぐと前を向いた。

スピードが上がるたびに髪が引っ張られるように後ろへとなびく。時々吹く風がそれを巻き上げ、視界をくらますように覆うのを必死で押さえつけながら、しおりは頭の中で舌打ちをした。

……髪ゴムが切れるとは、思っていなかったのだ。

今、向かってくる風にふわふわと宙を舞っているこの長い髪は、朝まではしっかりとポニーテールに結われていた物。それが、荒北と待ち合わせた駅に向かう途中でプツリと切れ、寮に取りに戻る時間も、再調達も間に合わずに、結局髪ゴムなしで待ち合わせ場所まで来てしまったのだった。

荒北からすれば、しおりは最初から髪を結ばずに来たと見えただろう。先ほどから何度か、彼が何か物言いたげにチラチラとこちらを見てきていたのは、きっと長い髪をまとめもせずにやってきた自分への非難の為だ。

彼は必死で速くなろうと努力しているのに、それをサポートしなければならないマネージャーがこんな頭でやってきたら、そりゃあ怒りたくもなる。

「馬鹿だなあ、わたし」

荷物になる程の物でもないのだから、替えのゴムくらい持ってくるべきだったのに。
レース経験の乏しい荒北には何が必要か、どんなサポートが適当かを考えていたら、自分のことまで考えが回らなかった。

せっかく、この忙しい最中、主将たちに交換条件を出してまで荒北のレースの方に付き添わせてもらったのに。
一刻も早く、かつ安全に彼が速くなれるように、と自分の方が必要以上に気が急くばかりで、当の本人である荒北は、自分のサポートなどなくても十分に走れているように思えた。

――中間リザルトの結果で、荒北は5位につけていた。

予想通り、彼はペース配分も何もなく、ただがむしゃらに回し続けることでレースに食らいついていた。
他の選手が給水ポイントで荷物を受け取るためにスピードを落とす中、彼はほとんどブレーキもかけず、しおりの手から補給袋を攫って行った。

目が合う余裕もなかった。
ただ、目の端で互いを認識して、伸ばされた手に自分も手を伸ばした。感じたのは、補給袋を渡すときに掠るように触れた手の感触と、彼の起こした風が髪を揺らした感覚だけ。
絶対に勝ってやるという、獣にも似たその気迫に声をかけることもできず、彼は給水ポイントを通過して行ってしまった。

彼が自転車を始めたのと、自分がマネージャーとして自転車競技部に入ったのは、ほぼ同時期だ。全くの初心者から入った彼は、その練習量の多さと成長の速さで他を驚かせていたが、行き詰った時はいつだってしおりのところに相談に来ていた。

だから、心のどこかで彼には自分が付いていなければならないと、勝手に思ってしまっていたのかもしれない。

世話を焼かなければ、面倒を見なければいけないと。――だって、彼は初心者だから。

(恥ずかしい)

そんなことしなくたって、彼は成長できる。成長し続けている。
むしろ、気を引き締めなければいけないのは自分の方だ。無駄に長い髪を、結びもせずに会場に来てしまうような、自分の方。


そうこうしているうちに、近道である5キロの道のりはあっという間に通り過ぎ、ゴール地点となる会場が見えてくる。しおりは邪魔にならないようにロードバイクを道の端の柱につないで施錠し、彼が飛び込んで来るはずのゴール地点へと足を向かわせた。

あと数分後には先頭集団がやってくるはずだ。その中に果たして、彼はいるだろうか。
毎日福富に命じられて何時間もローラーを回す彼のスタミナは、あの我武者羅な回し方であとどれくらい残っているだろうか。

祈るように、ゴールを見つめる。祈ったって、実力勝負の世界だ。結果など変わらないかもしれないが、この胸のドキドキを、何かにすがって鎮めたかったのだ。

遠くで、ワッと歓声が上がり、そちらを振り向く。――来た。先頭集団だ。
その中に見覚えのあるチェレステカラーを見つけて、しおりの心臓が、一瞬ドクリと跳ねた。

必死で手を振り、彼の名を叫ぶ。
この大群衆の中で自分の声が届いているとは思えないが、それでも叫ばずにはいられなかった。

競り合っている相手は二人。どちらもかなり速い。腰を上げ、大きく車体を左右に振って、スプリント勝負に入った。あと数十メートル。けれど、その差はほぼない。

「うおあああああ!!」

体力の全てを出し切るための鋭い咆哮。そして3台の車体がほとんど同時にゴールテープを切る。

傍目からではわからない。誰が一番なのか。それを知るのは、競い合った3人と、自転車に取り付けられた記録用の計測チップのデータのみだ。

電光掲示板に、記録結果が映し出される。
それと同時に勝利のガッツポーズを掲げたのは。




――他でもない、荒北の姿だった。




 
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