61:努力の虫



朝食は長い移動の中でしっかりと食べさせた。レース前にもエネルギー消化の比較的ゆっくりなバー状の補給食を摂らせている。

彼の食べたもの、持っている補給食のカロリーをもう一度メモに書き記し、しおりはパタンとバインダーを閉じた。

ヒルクライム当日の今日は、五月晴れの空がどこまでも広がる陽気であった。
良い天気だ。山の天気は変わりやすいとは言うが、どうやら終日雨の降る予定はなさそうだ。

ただ運がいいだけなのかもしれないが、彼が参加するヒルクライムでは天候が崩れるということが少なかった。
自分を山神だ、などと揶揄しているから、もしかすると本当に山に愛されているのかもしれない。そんな非現実的でくだらないことを考えてから、流れる景色に視線を這わせた。


しおりを乗せた応援者用バスが、山道をひたすらにのぼっていた。
満員同然の車内に同乗しているのは、いましがたスタートを切ったレース参加者の家族や友人たちだ。楽しそうに顔をほころばせながら、自分たちの応援する選手についてをあれこれと語っていた。

和気あいあいとした、実に良い雰囲気だ。この空間の中で彼らの話し声以外に耳に届くのは、バスのエンジンが発する鈍い音だけである。

アクセルを踏み込む度に低く唸り、のろのろと急斜面をのぼっていく。
爆発的なエネルギーを出力するガソリン燃料の自動車ですらこんなに苦しげに走るのに、レースに臨む選手たちはこの道を、ただひたすらに自分の身ひとつでのぼってくるのだ。

それだけで、ロードレースというものがどんなに過酷なのかは想像に容易い。けれど彼らはどんなに急な坂道であろうとも、悪路であろうとも、目の前に立ちふさがる山の頂上を目指してペダルを回すのであった。

平坦のように漕いだ力と慣性の法則が相乗効果でスピードが出るわけではない。重力で後ろに引っ張られる分、ペダルを回した分だけしか進まないのである。

けれどそれは、裏を返せば『ペダルを回せば進む』ということでもある。誰よりも多く回せば、誰よりも早くゴールに近づく。そして誰よりも早く、たどり着くのだ。

――この山の、頂上に。

のぼりが終わった途端に広がる、頂上の景色。
一番乗りで見下ろしたそれは、まるで自分がこの景色を独り占めしているような気持ちになって、ひどく感動を覚えるのだ。

(ああ、のぼりたい)

つい数週間前に、実家に帰るついでにここをのぼったばかりだというのに、いまロードバイクでこの坂を駆けあがってくる選手たちが羨ましくて仕方がない。
ずっと遠くに見える、色とりどりのユニフォームたちに羨望の眼差しを送ってから、欲に呑まれる自分を叱咤するように、頬をペチリと叩いた。

……駄目だ。駄目だ。今日は選手を羨ましがるために来たのではなく、選手の応援に来たのだ。

気合を入れ直して、きっと今頃本格的にスピードを上げ始めただろう彼を思って、もう一度、まだ団子状態の集団を見つめてみた。

箱根学園の白のユニフォームはまだ見て取れない。当たり前だ。まだ始まったばかりなのだから。
けれど、今年の彼は確実に優勝候補だ。それくらい実力をつけていることは、彼を近くで見てきたしおりが最もよく知っていた。しおりが彼に提示した目標ゴールタイムだって、去年の優勝者より数十秒速いタイム設定にしてある。

そして、彼はきっとこのタイムを超えてくるのだ。
それが彼のプライドだ。自転車が好きで、山が好きで、常に高みを目指して走っている、山神・東堂尽八の譲れないものであった。

幸い、東堂の体調も万全な様で、レース前で心が躍っているのか、ここに来るまでの移動中にはいつも多い口数がさらに増えていた。
けれど、不意に黙った時の彼は、隣にいるだけでその闘志がビリビリと伝わってくる程に集中していて。お茶らけた彼の、本気の闘争心の欠片を感じて、安心感を覚えたのだった。

もうすぐ、インターハイの選抜も始まる。
今回のレースの優勝が、少しでも彼の選抜での力に。自信になればいい。

次に自分が彼に会うのは、スタートから10キロ地点の第一給水所だ。
彼専用の補給袋を詰めたクーラーボックスを、大事に抱え直した。







**********








ここで選手を待つときは、いつだって心臓がドキドキする。
バスに揺られること十数分。あっという間にたどり着いた第一給水所で、しおりはそわそわしながら選手たちが来るであろうコースを見ていた。

いくら付き添いで来ているとはいえ、マネージャーが始終選手について回れるわけではない。サポートカーが並走するような大会は、よっぽどの大きなレースでない限りはあり得ないからだ。

といっても、レースの様子は定期的に運営側から連絡が来る。レースの動きや、順位まで、彼らから提示されたデータを見聞きすることは出来るのだ。

けれどそれ以外の情報源は全くの皆無である。

だから怖いのだ。
たとえ選手が落車してしまっても。たとえ体調不良で順位を落としてしまっていても。待っている側は、すぐに気が付いてやることも出来ない。

なので選手と直接触れ合うことのできるこの給水ポイントは、彼らに補給袋を手渡すという役割の他に、彼らの無事を確認できるという点で、重要な位置だともいえるのだった。

「おい、先頭が来たぞ!準備しろ準備!」

誰かの声が聞こえ、しおりはハッと顔をあげた。慌ててクーラーボックスから補給袋を取り出して身構えれば、大歓声の中、微かな車輪の音と共に先頭を争う人影が勢いよく飛び出してきた。

ふたつの影が、競り合いながら給水ポイントに近づいてくる。ひとりは、我ら箱根学園のクライマー、東堂尽八だ。
無駄のないライン取りと、全くブレないフォームの美しさ。はた目からでも圧倒的な速さだということが見て取れた。

けれど、その表情にいつもの余裕は見られない。むしろ、焦りと戸惑いで歪められ、始終何かを気にしたような、らしくない走りをしているのだ。

その理由が、彼と競い合っているもう一人の存在であるということは一目瞭然だった。
……速い。ものすごく。あんな選手、去年は出場していただろうか。

一体どこの誰だろう。そう思うよりも早く、その彼と目が合い、しおりは驚きで目を丸くした。

――大きく体を左右に揺らす独特なフォーム。見覚えのある、タマ虫色の髪。

目が合った瞬間、彼の切れ長の目も見開かれたが、すぐに何かを理解したように、吹き出すように笑んでいた。

「……クハッ、マジかよ」
「何がだタマ虫!!笑っていられるのも今のうちだ!しおり、くれ!!」

全力で回しても振り切れないことにイラついているのか、東堂は減速する余裕すらなく、半ば奪い取るような形でしおりから補給袋を手にして走り去って行く。

中間リザルトの結果は、僅差で東堂の方が上だ。けれどあの動揺っぷりでは、今後どうなるかわからない。

そう。わからないのだ、ロードレースというやつは。
たとえ前の年でお話にならないくらい遅かった選手だって、努力次第では次のレースで優勝候補を食うのだ。より努力し、より回した者が勝者となる。単純明快で、残酷な世界。

しおりが昔あこがれていた千葉総北高校の黄色いユニフォームに身を包むその人は、確かに今、東堂を食らわんばかりに猛追している。

……前に彼に会ってから、たったの半年だ。半年で、怪物のように速くなってしまった。

映し出されたリザルト結果のボード。コンマ数秒の差で2位の位置につけた、タマ虫色の彼の名前が瞳にこびりついて、離れてくれなかった。


 
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