60:恋する乙女の横顔に
様々な数字と、数式の羅列。
数字に弱い者だと、通常ならそこで顔をしかめてしまうのであろうが、幸い東堂の得意教科は数学である。なので、必然的に自転車関係の数字にも比較的強かった。
メモに書かれた無数の数式。そのいくつかに見覚えのあるものがあり、東堂は思わず「ほう」と声を漏らす。すると、彼女はそんな彼の反応を見て、得意げに笑ってみせた。
「来週の大会の目標タイムを計算してみたの。あと消費カロリー計算と、持っていく補給食の数と種類の計算も。ちょっと確認してもらえるかな」
東堂の手の中のメモ用紙を一緒に覗き込もうと、ずいと顔を近づけてしおりが話を進める。
どうやら、メモ用紙に書かれていたのは来週東堂が出場予定のヒルクライム用の数式らしい。
最近の東堂のタイムから割り出した予測タイムが、コースの前半・山岳スプリント地点・後半と三か所に分けて計算されていて、全てを合算したゴール予測タイムが赤ペンで大きく丸付けされていた。
なるほど、これはありがたい。
去年も同大会に出場していたので、その年の優勝者のタイムくらいは把握していたが、自分の予測タイムを計算することまではしていなかったのだ。
目標タイムと言えば、せいぜい『去年より何分速くゴールする』程度で、理論付けた数字を出してみようとすら考えていなかった。
それを踏まえて、もう一度、彼女が作ってくれたメモをよくよく眺めてみる。
コースの状況から割り出した補給食のタイミング。摂取する食べ物の種類。回数。そのようなことが事細かに設定されていて、それは、感動すら覚える程のデータだった。
彼女の作るデータは、いつだって丁寧で、綿密だ。それが、新しい年度が始まり、学年が上がったことでさらに気合の入ったデータを作るようになった気がする。
彼女がこうやって、部活に、レースに全てを捧げて尽くしてくれる姿を見るたびに思うのだ。
――彼女は自転車に恋している。
目をキラキラさせて、自分が出るわけでもないレースのことを熱く語る恋する乙女の横顔に、東堂はくすりと笑った。
「しかし、凄い情報量だな。まるで本当にコースを見に行ってきたような出来だ」
「そりゃあ、だって行ってきたもの」
「そうか!通りで……ん?行ってきた?」
「うん。この間の休みに、下見がてらにひとりで走ってきたの」
けろりと言い放ったしおりに、東堂は目を点にして、彼女の顔を凝視する。
……走ってきただと?このコースを?
別に、おかしなコースではないのだ。一言でいえば、一般道をつかった、一般的なヒルクライムコースである。
むしろ、のぼり甲斐のある急こう配の激坂が数か所に、一番の勾配地点1qは中間の山岳スプリント地点として最速通過者には賞も用意されているという点では、クライマー魂に火をつけてくれる実にいいコースだともいえた。
では何故東堂が驚いたのか。
それは、このレースが県外で行われるレースだからだった。しかも、県をひとつ跨ぐくらいの距離ではない。開催地である県と、箱根のある神奈川県と言えば、同じ関東地方にあるというくらい共通点くらいしか思いつかない。
それを、この少女はわざわざ、一人で、下見に行ったのだ。
部員が出るからと、たった、そんな理由だけで。
通常の彼女なら、いくら部員が出るからといっても近場でない限りは流石に県外コースの下見にまでは行ったりはしなかった。なのに、今回彼女はそこまでした理由は……――
(オレが走るから?)
そんな妄想に取りつかれ、東堂はコクリと、期待に喉を鳴らした。
彼女と同じ学年、同じクラスで、最も仲の良い部員の一人だと自負している。
彼女は特定の部員を特別扱いしたりなどはしないが、それでもいつも一緒にいる自分たちを、他の部員以上に気にかけて、応援してくれているのはわかっていた。
だから、彼女が無意識に尽くしてしまうほど、彼女の中での自分の存在が大きくなっていると考えるだけで胸が高鳴ってしまうのだった。
初めは、多分嫌われていた。
それはそうだろう。自転車が嫌いだと言っている彼女を、毎日毎日追いかけまわしていたのだから。自分でも、酷いことをしていたなと、今更ながらに思う。
けれど今、自分の隣でこんなに楽しそうに自転車の話をしている彼女が、自分の為に、努力してくれたという事実がここにある。
これが嬉しくないわけがない。
思わずにやけそうになれば、彼女が急に視線をあげてきたので、表情が引きつってしまった。……いや、引きつったのは、いきなり見つめられたからではない。
見上げてきた彼女の顔が、あまりにも近い位置にあったからだ。
ドクリと、心臓が一際大きく高鳴ったのがわかった。痛いほどのその衝動。だのに、当の本人はそんなことちっとも考えていないような酷く無邪気な笑顔をこちらに向けて、言った。
「応援行きたいから、会場まで一緒に行こうね」
このタイムをクリアすればきっと優勝できるから、などと嬉しそうに言っていた彼女の言葉は、もはや東堂の耳には届いていない。
ああ、彼女が来てくれるのだ。自分の為に。自分だけの応援の為に、はるばる県外にまで。自分の勇姿を直接見てくれるのも、ゴールで待っていてくれるのも。きっと、彼女だけ。
……独り占めだ。
「わーっはっは!見ていろしおり!必ずオレの美しい走りで表彰台を飾るところを見せてやるからな!!」
「うるせーぞ東堂!しっかり鍛えろ!」
高笑いに対する先輩たちからの怒号だって、ちっとも怖くなんかない。
心が躍る。力が沸いてくる。彼女が見ていてくれるというだけで、自信が心の底から溢れてきた。
今なら、どんな相手にだって負けはしない。
そんな気がして、ならなかった。