59:怖い人



その日は、一日中晴れの予定だった天気予報が大いに外れ、土砂降りの悪天候であった。激しい雨が窓ガラスを打ちつけ、ザアザアとひど音を立てている。
いくら王者箱根学園自転車競技部とて、こんな日は外練習もままならないということで、部員たちは一様に室内での筋肉トレーニングに励んでいた。

さすがにインターハイ常連の部活を持つ高校ということだけあって、学園にはトレーニング設備が充実している。だから、今日のようにいきなりの悪天候にあっても、存分に練習が出来るというわけなのだ。

ある者は部室の片隅でひたすらダンベル上げに勤しみ、ある者はローラーの上でペダルを回している。トレーニングルームは離れにあるため、そちらに出向いている者も多いようだった。

そんな貪欲に自身の肉体調整に取り組む熱心な部員らの傍ら。たった一人だけ、羅列された数字に目を光らせている場違いな人物がいた。



――パチパチと、電卓をたたく音と紙にペンを走らせる摩擦音がしていた。
一心不乱に何かを書き留めていたと思うと、時折何かを悩むように小さくうなる声もしてくる。
唇に指を当てて眼下に広げた資料に目を落とすその表情は、今必死に周りでトレーニングをしている部員に負けず劣らず真剣なものだった。

きっと、自転車が関わることだから。部員が絡むことだから。
自転車馬鹿なその人が真剣になる理由など、それしかあり得ないのだ。

(授業中でもそんな顔していないのにな)

トレーニングの合間にドリンクで喉を潤しているふりをして、東堂はそんな『彼女』の様子を何気なく眺めていた。

彼女の視線の先には、たくさんの資料やら、メモ書きやらが広げられている。大事なところには蛍光マーカーで線を引き、資料の束はふせんだらけだ。

授業中の彼女も不真面目な方ではないが、一端の女子校生らしく、つまらない授業ではあくびをかみ殺し、子守唄のような教師の声に頭が舟を漕いでいることもある。
まあ、要するに。一般的な生徒たちと同様に、そこまで勉強は得意ではないのだ。

けれど今黙々と机に向かっている彼女は『知る』という行為をむさぼるかのように、ただひたすらに目の前の資料にかじりついていた。

一体、何をそんなに必死になっているのか。
彼女のあまりの気迫と集中力に、気になって動向をじっと見つめていると、向けられる視線に気が付いたのか、彼女が突然パチリとこちらに視線を投げたのが分かった。
東堂と目が合った瞬間、彼女の口が「あ、」と動く。

「ちょっと、東堂くん」

抑揚のない声で呼ばれ、思わず東堂の肩がギクリと揺れる。
な、なんだ。トレーニングをしないで彼女を見ていたから、怒られるのだろうか。彼女は普段はノリも良いし、面白いヤツなのだが、いかんせん、自転車に関わるとどんな些細な不誠実だって見逃してはくれないのだ。

実は先日も、練習中に新開とサイクルジャージを引っ張り合って少しばかりふざけていたら、それを目撃されてしまい、みっちりと叱られたばかりだったのだ。

「ねえ、落車でもしたらどうするの?それで取り返しがつかなくなったヤツ、よく知ってるでしょ?」

胸倉を掴まんばかりに詰め寄られ、酷く冷たい口調で言い放たれる。彼女の言った取り返しのつかなくなった人物とは、もちろん彼女自身のことだろう。

落車して、怪我をして、諦めて、苦しんで。

壮絶な経験をしてきたからこそ、他の選手たちに同じ目にあって貰いたくないのであろう。
そうやって、いつだって自分たち選手のために尽くしてくれる彼女の想いを無碍にしてしまった自分の行動に、その時ばかりは酷く後悔したのだった。

……しかし、それにしたって彼女の怒りのオーラは半端じゃなく怖い。
美人が怒ると怖いとはよく言うが、彼女の怒り方というのはそんな言葉で表せないくらい怖いのだ。

いつもキラキラと輝いている瞳からは感情が消え、睨みつけられれば体が凍りついたように動けなくなってしまう。
そして常に自分たちを励まし、応援して褒めてくれる口からは、あの躍るような可愛らしい口調が一切消え、地の底から冷え込むような言葉の羅列しか吐き出されなくなるのだ。

おおらかで、天真爛漫な彼女の見せる、裏の顔。

一度でも、彼女のそんなギャップを見せられてしまったら、誰もが思考が完全に停止して動けなくなるくらいビビッてしまう。
だから、東堂もまたトレーニングをサボッていると認識されて怒りを買ってしまったのではないかと、身を縮めたのだった。

しかし、怯える東堂とは裏腹に、彼女はいたって自然である。むしろ何故彼が自分を見て身を縮めたかの理由すらわからないというように、小首をかしげてすらいる。

……どうやら怒っているわけではないらしい。
そう。彼女はただ単純に、いましがた目が合った東堂に用があるだけなのだ。


部室にひとつしかない机は、通常部長が副部長たちが日誌を付けたりメニューを考えたりするのに使われる、いわば幹部席である。なので、そのどれにも属さない下級生たちがそこに座ることなどまずあり得ない。

けれども部員のデータ作成やら、他校への対策メモ等、事務的な仕事も多いマネージャー陣はこの例外で。
今、マネージャーであるしおりがそこに腰かけている理由も、何かしらの作業をしているために違いはなかった。


控えめに手招きをする姿につられ、すっかりマネージャー姿が板についた彼女の横に立つ。すると、待ってました、とばかりにメモ用紙を差し出され、東堂はそこに目を落とした。



 
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