58:物騒ナイト



――しかし、その彼が、いま。あの頃とは遠く離れた地で、自分の前に立っている。

自転車競技部の門をくぐり、また自分の後輩として、入部を決めようとしているのだ。

「しおり先輩」

あの頃と同じように、彼は親しみの愛情をこめて名を呼んでくれる。
酷いことをしたのに。礼のひとつも言わずに、県外に飛び出して来てしまったのに。それでもまだ、自分を『先輩』と呼んでくれるのか。
涙がこぼれそうなほど嬉しくて、何度も強く頷けば、葦木場は嬉しそうにヘラリと気の抜けた笑顔を向けてきた。

「おめでとう。オレ、すっごい嬉しいよ」
「……ありがと」

本来ならば入学するものが言われるべきであろう祝福の言葉を、何故上級生である彼女が言われているのか。他の者にはもちろん理解が出来ない。
ただ、誰もが感動の再会を果たして抱きしめあう二人の、じんわりとした暖かさにあてられているのはいるのは、確かなようだった。






……それにしても、彼女は一体何者なのだろう。

のほほんとした雰囲気の中。新入部員たちの頭の中で、ふとそんな疑問が沸いてくるのにさほど時間はかからなかった。

男性人口が極端に多い自転車競技部。その中で女性はただ独りだけだというのに、彼女は平然とそこに立っているのだ。
もちろん、ここにいるということは、マネージャーなり、部員なり、とにかく部の関係者なのであろうが、それにしたって彼女の存在は、それを抱きしめる長身の新入部員などよりもよっぽど異様なのだった。

皆知っているのだ。自身の経験上、自転車競技部という男社会の中にこういうタイプの女性が存在すること自体あり得ないのだと。
毎日毎日、汗まみれで、男臭さの染み込んだ部室。未経験者には理解不能であろうデータ類の数々。雑用という名の力仕事の数々……――

よっぽど自転車が好きでないと、男でもこの環境に身を置くことすらキツい。だのに、目の前にいる彼女の容姿は、どう見たって華奢な普通の女の子のそれなのだ。

女性らしく長く伸ばされ、丁寧に手入れされた黒髪は清楚系女子の特徴であるし、どうやらスタイルも悪くない。
勝気な大きな目は気の強さを表してはいたが、先ほどのやり取りを見た限りだと、どうやら後輩を可愛がるタイプらしい。
……あ、あと、滅茶苦茶いい匂いがする。

もしかすると、この部に入ると彼女と同じ空間で部活が出来るのかもしれない。彼女と親しく話せるチャンスがあるのかもしれない。
そして親しくなったら、先の葦木場のようにいたずらに抱き着いても許してくれる可能性もありえ……――

「モテてんねェ、しおりチャン」

男たちの不埒な考えを一掃するように、強く声が響いた。
少なからず、妄想に期待を膨らませていた大多数の新入部員たちの肩が、その声に反応してビクリと揺れる。
とっさに彼らが目をやった先……部室の角のあたりで不機嫌そうに壁に寄り掛かっていたのは、ジャージ姿の、二人の上級生だった。

一人は、今声をあげた方なのだろう。人相の悪い顔に、凶悪な目つき。口端こそ上がっているものの、その表情はどう見たって爽やかに微笑んでいるそれではない。逆らえば今にもガブリとやられてしまいそうな雰囲気に、何人かが「ヒッ」と小さな悲鳴を上げるのが聞こえた。

そしてもう一人は、無表情を顔に張り付けた男であった。
こちらは中学からその実力で名を轟かせていた選手で、見覚えがある者も多いらしい。今年2年生の、エースをも期待される人である。
彼の方は、表情こそ変わらないが、その威圧的な雰囲気は上機嫌のそれではない。鋭く前を見据えるその様に、にぎやかだった部室内は、完全に押し黙ってしまった。

気まずさに、慌てて四方八方に目を逸らした新入部員たちに、件の目つきの悪い上級生はフンと鼻で笑って、今まで部内の視線を一身に集めていた少女に、もう一度、視線を向けて言い放った。

「ンなとこで油うってねえでサッサとタイム計ってくんない?」
「あれ。荒北くん、フクちゃん。先に行ってるかと思った。待って、記録表持ったらすぐ行くから」
「……それならオレが持っている。行くぞ」

途端、鉄仮面の上級生が、新入部員たちに囲まれたしおりを半ば無理やり引きはがす。その間、彼女を抱きしめていた葦木場や、その周辺の新入部員たちを鋭く一瞥して、右手に持ったバインダーを彼女に渡した。

両脇から、しっかりと彼女を挟むように並んで、あれやこれやと質問しながら部室の出口の方へ向かっていく。それは、普通の部員とマネージャーのやりとりに見えないこともないのだが、どうしても純粋な気持ちで見られない理由がそこにはあった。

……彼らの距離が、やけに彼女に近いのだ。

ごく自然に彼女の肩に手を置き、バインダーに挟まっている記録表などを見るふりをして彼女の手に掌を重ねている。
新入部員たちに向けられた、実にわざとらしい牽制だ。それを気にしていないのは、きっと当事者である彼女だけなのだろう。

そうして彼らが部室を出る瞬間、二人の上級生が、睨むような、蔑むような視線を投げかけてきたのを見て新入部員たちは察することとなる。

この部に入っても、間違ったって部内恋愛など望めないということを。
そして、彼女とは先輩後輩としての関係しか許されないということを。

彼女に近づくには、少なくともあの目つきの悪い野獣と、威圧を放つ鉄仮面を倒さなければならないらしい。
どちらも、明らかに優しくご指導してくれるような先輩には見えない。そんな彼らに、いっぱしの高校一年生である彼らが、敵うわけがないのだ。

「……そうだ、部活に生きよう」

振り切ったように、誰かが絞り出した声に、皆が一斉に頷くのが見えた。


 
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