55:新しい春



長い長い、箱根の冬が終わりを告げ、芽吹きの季節がまた巡ってきた。
道端のふきのとう。まだ小さいがツクシも顔を出している。日差しはポカポカと温かく、その快適な温度が常に気だるげな眠気に誘い込んできて、この時期の授業中はそれに打ち勝つのに酷く苦労するのだ。

佐藤しおりは、二年生になった。
新しい学年に上がるとともに、それまで三階だった教室も階がひとつ下がって二階になる。前は窓の下には一面に森広がる景色だったが、今年はちょうど、校門前の激坂とそこに沿うように植えられた桜並木が見える絶景のクラスであった。

箱根学園で迎える、二度目の春。
去年の春とは全く違う気持ちで迎えたこの季節の美しさに、しおりは不意に襲ってくるあくびを噛みしめながら、微笑んだ。

もともと、春は好きな季節なのだ。
何故ならもちろん、自転車が漕げるから。

これまで積雪や天候の悪さで思うように乗れなかった分、春は溜め込んでいた『乗りたい思い』が爆発して、ついつい時間を忘れていつも以上に回してしまうのだ。

しかし、それは何もしおりだけに限ったことではない。室内での地味なトレーニングに飽き飽きしていた箱根学園自転車競技部の選手たちも、この季節の到来を喜び、まるで水を得た魚のように自転車を乗り回している。

自転車に乗ることのできる喜びを噛みしめながら。冬に整えた筋肉の力強さに感動しながら。日々の練習の中で、また強くなっていく。

「良い季節だなあ」

全ての生命が。全ての意思が活動し始める季節だから。
教室の席に座りながらひとりごちて、春一番の強風にあおられて舞う桜の花びらの美しさにボーッと目を奪われていると、不意にとなりの席から腕をつつかれて、しおりはくるりと視線をそちらへ向けた。

そうそう。話は変わるが、いくら季節が変わったとしても、変わらないものも確かに存在はする。
例えばそれは、女の子たちの噂好きとか、男の子たちの馬鹿騒ぎとか。
生物担任のバレバレのカツラ具合、寮の同居人が作ってくれるお弁当の美味しさ……――

――それと、学年が変わっても隣の席が東堂尽八ということも。

初めの出会いから一年経って、少しだけたくましく、男らしくなった隣の席の彼は、やはり今年もトレードマークのカチューシャを頭の上に携えるスタイルで行くようだ。
相も変わらず嫌味なくらい整った顔立ちに、しおりが「なに?」と声をかければ、彼は珍しく真剣な表情でこちらを見つめて、言った。

「すまんが、しおりの意見を聞きたいのだ」
「うん?私ので良いなら協力するけど」

黒目がちな眼光が、まっすぐこちらを射抜く。そんな姿に少し戸惑ってしまう。
大事な話なのだろうか。彼が真剣になるような話といえば、きっと自転車関係の話だ。今日のメニューのことか、それとも昨日のタイムについてのことか。
ああ、もうすぐクライマーの大会もあるので、そのことかもしれない。

お茶らけているようで実は誰よりも努力家で、芯が強い。大抵の悩み事なら自分で解決できてしまうほどの強さを持った彼が相談を持ちかけてくるのは、例え自転車関係の話だったとしても、珍しい部類に入るのだ。
思わずしおりが身構えれば、彼は声に愁いすら潜ませて切れ長の目を少しだけ、細めてみせた。

「……春の桜と、オレ。果たしてどちらの方が美しいのだろうか」
「あー、本当良い季節だなあ」

どうやら今年も東堂のナルシストは健在らしい。いつも通り、軽くスルーして、また外の景色に目を向ければ、後ろで東堂が何か喚き散らしていたが、聞こえない振りをした。

まったく、この男と来たら、相手が誰であっても目が合って一言目には挨拶代りの美貌アピールを始めるのだから手に負えない。
けれどもそんな性格が皆から受け入れられる理由は、やはり彼の人柄なのだろう。
お調子者で大口も叩くが、やるときはやるし、女の子大好きではあるが、それより何より彼の優先順位の一番は自転車なのだ。それをわかっているから、しおりも東堂のこの性格を憎めないのであった。

けれど、これからは彼にも多少なりともしっかりとして貰わなければいけない。
新しい春が来て、学年が上がったということは、必然的に先輩になるということだからだ。

王者箱根学園自転車競技部には、全国から自らの腕に自信を持った後輩たちが入学、入部してくる。その手前、彼には我が部のエースクライマーとしての威厳を持ってもらわないと困るのだ。
その実力を見せつけ、下級生たちの闘争心を掻き立ててもらわなくては、未来の王者への道が閉ざされてしまうやもしれないから。
この春、卒業してしまった先輩たちのように、彼らは大きく、遠い存在にならなければならないのだ。

「しおり〜!」

構ってもらえず、情けない声を出した東堂に、しおりは呆れ顔で息をつく。
今日から入部の願書の受付が始まるはずだ。春休み頃から部への見学者は沢山いて、もう他の部員たちと同じく練習している子だっている。その子たちが、いや、それ以上の一年生が今日、正式に箱根学園自転車競技部の新たな仲間になる。

もう、自分たちは後輩気分ではいられないのだ。

「しっかりしてよね、東堂先輩!」

パシン、と背中を叩くと、東堂は面喰ったような間抜けな表情をして、それから慌てて緊張したようにキュッと口元を引き締めた。

(そうそう、その顔。出来るじゃない)

見栄張り男は、良い恰好しいだ。可愛い後輩たちの前で、格好悪い姿を見せることは本意ではないだろう。
風格のある彼の表情にやっと満足して、しおりは自分もこの放課後からの部活を想い、気を引き締めた。


 
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