54:ゴールテープの先に



随分と、空が高くなってしまった。

見上げた上空は淡い水色をしていて、夏の吸い込まれそうな程の青とは全く違う色をしている。
風はやや肌寒いが、降り注ぐ太陽のやんわりとした熱がそれを柔和してくれているようだった。

久しぶりのレースの空気に。見渡す限りの選手たちの波に。そして、このコースに挑むことに。

人知れぬ緊張を感じて、誤魔化すようにヘルメットの顎ヒモを締めた。



本当は怖いのだ。
自分が堕ちた原因ともなったコースを走るだなんて。あの日と違い体調は悪くないが、自分の中のトラウマが胸の中で暴れ回って、なかなか収まってくれなかった。

指先が冷えてよく動かないのだって、寒さのせいだけではない。震える体も、武者震いなどではない。

どうにも心細くて、指に息を吐きかけて温めながら観客席を見渡してみるが、しおりのお目当ての人影はどこにも見当たらなかった。


探しているのは、もちろん箱根学園自転車競技部の彼らの姿だ。
練習時間が減ってしまうから来なくていいと言ったのに、今日、しおりがこのレースに参加すると知った彼らは、頑として応援に来ると言って聞かなかったのだ。

なので、会場のどこかにはいると思うのだが、やはり大きなレースなだけあって人も多く、なかなか見つけ出せない。

彼らの姿を一目でも見れたなら。観客席で手を振り、頑張れと声をかけてくれたなら。こんな弱気は一瞬で吹き飛ばせるのに。
来なくていいだなんて、ただの強がりだったことに気が付いて、情けない自分に苦笑した。

昔の自分はもっと強かったのに。なんだって自分で乗り越え、実力でのし上がって、その名声を欲しいままにしてきた。

けれど今は、この酷く弱い自分を支えてくれる彼らの存在の大きさを、優しさを知ってしまったから。

(もう戻れない)

今の自分は、あの頃とは違う。だから、今日は『今の自分』で勝負しに来たのだ。
人に頼らなければ、背中を押してもらわなければ立ち上がれもしない弱い自分のまま。過去の自分が達成できなかったゴールテープを、この足で超えるために。

≪3・2・1……スタートです!≫

アナウンスの合図とともに、ゆっくりと動き出した集団に、しおりは覚悟を決めて左足のクリートをペダルへはめた。





**********






見覚えのある景色が流れていく。
過去に一度しか走ったことのないコースなのに、あの林の木の形も、あのカーブの深さも、ちゃんと覚えている。

それだけ、あの日の出来事は自分の中で根づいてしまっているのだ。ペダルを回すたびに近づいてくる『あの場所』に、足がすくみそうになるのを必死で叱咤して、ただひたすらゴールのことだけを考えていた。

順位は、先ほどの中間リザルトによれば中の下というあたりだ。今までのしおりの戦績からすれば不本意な数字だが、仕方がない。
そろそろ例の山道に入るというところで、坂道用にギアを落とせば、ちょうど自分の隣を走っていた女性に「ねえ」と声をかけられた。

「あなた、大丈夫?」
「え?なにが……ですか」
「顔が真っ青だし、体も強張ってる。気分が悪いならリタイアした方がいいわよ。この先の道、数年前に滑落事故もあったらしいし危険よ」
「事故……――」

それは多分、きっと。あの日の自分のことなのだろう。ガードレールのないカーブでバランスを崩して滑落し、自転車に乗ることを諦めざるを得なくなってしまった、自分のこと。

まさか、こんなところで二年前の自分の幻影に会うとは思ってもいなかったので驚いたが、けれど自分は今日、それを超えに来たのだ。

怖いから。緊張しているから。そんな理由で、立ち止まってなどいられない。

「大丈夫です」

放った言葉は震えたが、それが新たな決意となって、心の中に染み込んでいく。その強さが伝わったのか、女性は少しだけ笑って、励ますようにしおりの背中を撫でてくれた。

――さあ、ここを曲がった先が、一番の正念場になる。
なるべく集団の後方へ下がり、周りを見ないように下を向いた。ここさえ抜ければ。ここを乗り切れば、自分は、過去の自分を超えられる。

酷く体が震えているのが分かった。呼吸が荒くなって、涙があふれてくるのも感じていた。
ここは、ただのコンクリートで舗装された道路だ。しおりの恐れる閉所でも、暗所でもない。
けれど、その原因を作った場所であることに間違いはなかった。

助けてと、心が叫び出してしまいそうになるのを喉の奥でかみ殺す。回せ、回せ。乗り切ったゴールの先に、きっと優しい彼らの姿があるはずだ。
きちんとゴールできたなら、頑張ったと褒めてくれるだろうか。抱きしめて、頭を撫でてくれるだろうか。

今度は、胸を張って彼らの隣を走っても良いだろうか。














「しおり!!」

不意に大声で呼ばれた名前に、しおりはハッと顔をあげた。
絶対見ないと決めていた、カーブの先の道。その先にいた人影を見て、冷え込んでいた心が一気に熱くなるのを感じた。


趣味の悪いカチューシャを付けた男が手を振っている。
口をモゴモゴと動かしている男の口内にあるのは、きっといつものパワーバーだ。
細目の男は、そんな緊張感のかけらもない彼らに叱咤して。
そして彼らの中でもひときわ目立つ、鉄仮面の金髪男は、酷く真剣な面持ちで、二年ぶりにペダルを回す自分を見つめていた。

脚に力が戻ってくる。速く、一秒でも速く彼らに近づきたいと、自分のトラウマである場所に向かってペダルを漕いだ。
ぶつかる寸でのところでブレーキをかけ、愛車のラピエールに跨ったまま彼らに手を伸ばす。

傾いた車体。バランスが崩れる。
2年前と同じ状況で、けれど違ったことがひとつ。

それは、倒れかけた彼女をしっかりと支えてくれる、いくつもの優しい手があることだった。






**********







結局、しおりの最終順位は174人中34位だった。入賞にすら手が届かない。無論、表彰台を下から眺める立場である。

それでも、途中140位程まで落ちた順位を、驚異の巻き返しで30位台まで持って行ったのだ。
精神的に完全復活した彼女が見せる、誰もが目を見張るごぼう抜き。中間リザルトの結果が画面に映し出されるたびに、怪物のような速さで順位を上げていく彼女の走りに、彼女を全く知らないはずの会場の観客がどよめいていた程であった。

最終コーナーを抜け、ゴール前でまた5人抜いてゴールテープを切った彼女に向けられた拍手は、きっとこのレースで誰がもらった歓声より大きい。
それに気が付いた彼女が、照れたように頬を赤くして、声援に手を振った姿に、東堂は口元が緩むのをこらえきれなかった。

――ほうら、やっぱりしおりの走りは人を魅了する。

優勝なんかじゃなくても。たとえ最下位だって、人は彼女の走りに知らず知らずに恋をするのだ。自分が夏合宿の最終日に彼女に伝えた言葉は、間違いなどではなかった。

たまらず走りだし、彼女の元へ駆けていく。それに続いた仲間たちも、タオルやら、アイシングやらを抱えて、彼女に駆け寄っていった。

こちらの姿に気が付いたらしい彼女の顔に手を伸ばす。包み込んだ頬は、レースの熱の冷めやらない、やけに柔らかな感触だった。
東堂がコツリと、彼女の額に自分の額をぶつければ、幸せそうな笑い顔の彼女が、笑い顔のままポロポロと涙を流す。

「負けちゃった!」
「うむ。見ていたから知っている。実に良い負けっぷりだったぞ」
「うん。変速も、ペース配分も全然ダメ!練習不足で欠点ばっかり見えちゃって悔しくて……でもね、」

――走れたことが、うれしいの。幸せなの。

そう言った彼女の表情は、なるほど、悔し泣きの割には酷く幸せそうだ。彼女のハートの強さに思わず吹き出せば、自分でもずれているのがわかっているのか、彼女もおかしそうに笑い声をあげた。

「おかえり、しおり」

誰かが声をかければ、返ってくる柔らかな笑み。
彼女はロードバイクを降り、ヘルメットを外す。今までのどこか不安定な彼女とは違う、凛とした雰囲気に、ドキリとしたのは何も自分一人ではないはずだ。

「ただいま、みんな!」

応えた彼女は美しい。迷いも惑いもない声に、4人は祝福の気持ちを込めて、彼女の頭を乱暴に撫でた。


 
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