4:もうひとつの白



人生で最後のレースになったあの日。
しおりはスタート前から少しの体調不良を感じていた。頭がうまく回転せず、体もいささかだるい。前日、興奮しすぎて寝不足気味だったせいかな、なんてかこつけてスタートラインに立った、夏の猛暑日。
照りつける太陽にくらりと意識が何度も揺らぐのを、気のせいだと頭を振って自分を奮い立たせた。

しっかりしろ。レースに集中するのだ。愛車のラピエールのハンドルをギュッと握って、気を落ち着かせた。
スタート前はひっきりなしにMCからのアナウンスが入ってくる。スタートの開始時刻を伝える声が響くたびに、選手たちの緊張感が高まっていくのを肌で感じていた。

一分前、三十秒前、二十秒……。十秒前ともなると、完全な無音が会場を包む。やかましかった音楽も、観客からの歓声も止み、そして十秒後、ドン、というスターターの音で、選手は一斉に飛び出すのだ。

最初はゆっくりと。そして、徐々に速く。
混み合ったスタート地点でフル回転でペダルをこげば、落車や事故の原因となるため、そういったことが起きないよう、スタート直後は細心の注意が必要なのだ。

なのに、しおりはいまだレースに集中しきれないでいた。目の前が、やけに眩しくチカチカする。ふらりとふらつけば、他の選手に肩を叩かれ、注意を促された。わかっている。わかっているのだけれど。

先頭集団のスピードが上がり始め、しおりもそれに必死で食らいつく。いつもなら先頭集団を始終引き、レースを引っ張る程の実力はあるのだが、今日は付いて行くのがやっとだ。

今日のコースは、平坦な道が数キロ続いた後、長い山道に入り、最後はまた平坦を十キロほど走る個人レース用のコースだ。
どんな状況にも対応できるオールラウンダーだったので、苦手はなかったが、その日は、まるで全ての地点が地獄のように長く、辛く感じた。

漕いでも漕いでも、前に進まないのだ。息がすぐに上がり、呼吸をしようとするのに吐き気の方が襲ってくる。加えて真夏の暑さが休む暇なく襲いかかり、微弱な体力を根こそぎ奪い取っていく。
どんどん追いこされていく絶望と、気ばかりが焦る焦燥感。今まで何度も表彰台の上を飾ってきたというのに、今は自転車に乗るだけで精一杯だった。

やっと山道に入り、こう配の付いた道を進む。緩い坂ではあったが、今のしおりにとっては壁のようにそびえ立っているように見えた。

ぼやける視界の中、必死でペダルを漕いで、漕いで、漕いで。
そうしてやっと、もう駄目だと判断した時には、すでに自転車にまたがっていることすら辛い状態だった。
朦朧とする頭で、なんとか左足とペダルを固定していたクリ―トを外し、地に足を付けようとする。
自転車から降りて、あとは回収車が来るまでここでじっとしていればいい。リタイアは悔しいが、しょうがない。体調管理は、自己責任なのだから。

そうやって、外れた左足で地面を踏むと、途端、カクリとその足が折れたのを感じた。

「あ、」

山道で疲労したしおりの足には、もう一人と一台を支える為の力さえ残っていなかったらしい。体がスローモーションのように傾き、倒れる。
後続選手の邪魔になるといけないからとコースの外側に移動して止まったそのすぐ横は、ガードレールの付いていない絶壁で、運悪くそちら側へ倒れてしまったしおりは、右足のクリートを外すこともできず、山中へと滑落してしまった。
転んだ拍子にシューズが脱げる。愛車を残し、体だけが放り投げられたように滑り落ちていく。
痛みは感じなかった。その時には既に意識が飛びかけていて、それどころではなかったから。

先頭集団は行ってしまった。海外の大きなレースのようにずっとカメラが追っているわけではないので、もちろん運営だって気がつかない。つまり、自分の滑落が人に知れるまでどれだけ時間がかかるかもわからないということだ。

真夏の山の中は、木が生い茂って日差しを防ぐ分、酷く暗かった。寒いのは、体調のせいか、山の標高が高いせいか。湿った腐葉土の独特のにおいが、つんと鼻の奥を刺激した。
何の音もしない。何も見えない。怖い。ここは、怖い。

逃げ出したいのにピクリとも動かない体を呪い、しおりは意識を手放した。







**********







しおりが次に目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。真っ白な天井に、薬品のにおい。焦点の合わない目で見つめていると、近くでガタリと音がして、そちらに視線を向けた。

「しおり!!目が覚めたのね!」
「母さん、早くお医者様を!」
「ええ、そうね。わかっているわ」

そこには酷く安堵したような表情の両親がいて、彼らはナースコールで医者と看護師を呼んだ後、子供のように泣きながらしおりの手を握り締めていた。

どうやら、数日間も気を失っていたらしい。起きようとして上半身に力を入れると、体の節々が痛んで、断念した。どうやら、滑落の際に至る所をぶつけたらしい。受け身すらまともに取らなかったので、当然だ。
治るまで、どれほどの期間自転車に乗れないのかと思うとうんざりした。

あの時の体調不良は、今やもうすっかり無くなっていた。痛いのは打ちつけた体と、それに右足だけだ。そう、右足。みぎあ……

「え?」

しおりの目に飛び込んできたのは、ガッチリとギプスを巻かれ、包帯でぐるぐる巻きになって吊るされた自分の右足だった。動かそうとすると激痛が走り、思わず呻いた。

「私、足……どうなったの……?」
「しおり……」
「ねえ、大丈夫よね?私の足、何とも無いんだよね?また走れるよね?ねえ、」
「しおり!!」

鳴き声の混じった母の声に、ハッとして口を閉じた。気がつけば駆けつけた医者と看護師が入り口に立っていて、何とも言えないような暗い顔をして、こちらを見ていた。

どうしてみんなそんな顔をしているの。私はこんなに元気なのに。まだ走れるのに、あの真っ白な世界を。表彰台の一番上を、目指せるのに。

「残念ですが貴方の足は、もうロードレースの負荷には耐えられません。打ちどころがあまりに悪すぎた。手術をしても、今の技術では全回復するかどうか……」

力になれずすまないと、頭を下げた医師の言葉に、頭の中は真っ白になった。

それはレース直後の白い世界とそっくりな、何も感じない世界。けれど酷く不快で、悲しくて。

絶望の色の中、しおりは悲痛の叫びをあげた。





 
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