52:夕闇ハミング



隣から、鼻歌が聞こえていた。
時々音の外れるメロディーは、けれど酷く楽しそうで、幸せそうだ。

部活終わりのこの時間帯。女性が一人で帰るのは危険だからと、部員が交代でしおりを寮まで送り届けるのが日課となっていて、今日は当番である福富がその大役を担っていた。

秋も深まる今時期は、夏の日長が嘘のように暗く、おまけにかなり冷え込んでいる。昼間の気温に合わせて羽織ってきた薄手のコートでは、あまり体の保温に役に立ってくれはしないようだ。

……体の芯から熱くなる、今年の夏は終わってしまった。
ポツポツとある街灯の明かりの下を、多少の肌寒さを感じながら無言で歩いていると、様々なことを思い出し、考えてしまい、妙に感傷的になってしまうものだ。
だのに、自分の隣で小さな歩幅を懸命に動かし歩く彼女は、そんな感傷深さとは無縁であるかのように、酷く楽観的な雰囲気を携えていた。

「ご機嫌だな、しおり」
「ふふ。そう見える?」

言うと、彼女は嬉しそうに、下げた目尻を細めて見せる。
知人からよく『表情筋が死んでいる』と揶揄される自分が言っても説得力はないかもしれないが、彼女の喜怒哀楽の変化は、一般的に見ても多い方だ。それが、今日はいつになくわかりやすいのだから、見ていればすぐにわかる。
彼女のご機嫌の理由は何故かと頭の中で思案するまでもなく。行きつく答えに、福富の口元から笑みがこぼれた。

……やっと。彼女がレースに復帰するのだ。

彼女がいきなりレースの世界から姿を消してから二年間。福富が待ち続け、望み続けていたこと。そして、紆余曲折はあったが、当の本人であるしおりも今、それを望んでいる。
夢見てきた理想が、現実になって、まさに手が届かんとしているのだ。嬉しくない筈がない。

そんな、飛び上がりそうな程に喜んでいる彼女の姿を見ていると、こちらまで嬉しくなる。部活終わりでクタクタであろうのに、今にも走り出してしまいそうな彼女が夜道に飛び出して行ってしまわないように、きっちりと隣に寄り添って歩いた。

「やっと、走るしおりが見られるんだな」
「え?やだ、福ちゃんたら。夏合宿の特別レース、一緒に走ったじゃない」
「あの時は……実は、勝負に夢中になりすぎてあまり覚えていないんだ」
「あはは、私もおんなじ!熱くなりすぎてね、大事なところ、全っ然、覚えてないの!でも……――」

――楽しかったね。
思い出した事柄を、大事に、優しく包み込むようにしおりがごちる。その優しい声色に、福富も、あの日の熱気を思い出して、少し心が熱くなった。

きっと自分はこれから先に経験するレースの中で、必ずあの日の熱気を思い出すのだ。絶対的不利なあの状況を。隣で感じる、ライバルの脅威を。
あの日のマネージャーチームのエースが彼女でなければ、あそこまで心を燃やすこともなく、負けていただろう。
けれど、隣を走っていたのが彼女だったから。彼女より先にゴールテープを切ったことのない自分を超えていかなくてはならないと思ったから、最後まで心が折れなかったのだ。

(彼女も思い出してくれるだろうか)

レース中、一瞬でもあの日の自分を思い出してくれるだろうか。
当たり前だが、男と女では、同じ自転車競技の選手であっても、そもそも体のつくりや筋肉の付き方の関係で立ち位置が全く違うのだ。だから、金輪際自分と彼女がライバルとして一騎打ちをすることはない。
しかし、あの経験が、新しい道を目指して進み始めた彼女のほんの少しの力にでもなればと、切に願った。

「そういえば、復帰最初のレースはどうするか決めているのか」

福富が問えば、彼女は迷った風もなく力強く頷き、まっすぐと前を見た。その凛とした佇まいは、決意を誓った彼女の意思の強さを示している。

……そうか、決めているのか。
そうやって、着実に進み出しているのだ。彼女は。ホッとして、二人の足音だけが響くこの空間で、少しだけ黙りこくった。

では彼女は一体どのレースに出るのだろう。肩慣らしに近所の草レースか。それとも、長距離だが完走を目的とするロングライドか。
晴れ舞台を応援したくて参加するレースを聞いてみれば、しおりから返ってきた答えは福富の予想を大きく超えるものだった。

「来月末の、ロードレース・カップに出るよ」
「……冗談だろう」
「ホンキ」

そう言って、不敵な笑みを浮かべた彼女の表情は、なるほど、冗談を言っているような顔ではない。
しかし、来月のロードレース・カップといえば、全国から実力者の集まってくる日本屈指の大きな大会なのだ。もちろん、上位者には景品も出る。もっと言えば、福富や、部の他の部員たちも何人かそのレースに申し込んでいる。

しおりが参加するのは女性の部だろうが、それでもレベルが高いのには変わりはないだろう。いくら現役時代に不敗の実力者だったとしても、二年間のブランクと、足の古傷が彼女が上位に食い込むことを許してはくれないのは容易に予想が付いた。

「どうしてだ。レースは他にも色々あるだろう。どうしてそのレースでなければいけない」

大きなレースはその分参加人数も多く、それに比例して、混戦した際の落車率も高くなる。それを、落車での怪我によって選手生命を絶たれた彼女が自ら選択するだなんて、正気の沙汰ではない。

はっきり言えば、反対だ。
もっと練習を重ね、小さなレースを何度も経験してから、徐々にランクをあげていくのが筋だ。そのくらい、彼女自身も分かっているはずなのに。
思わず険しくなった福富の難しい表情に、しおりは困ったように眉尻を下げ、苦笑で返した。

「無茶は承知よ。でもね、私も過去を超えたいの」

見つめ返した彼女の瞳は、もう揺るがない強い決意の色を携えて燃えている。
……彼女の考えが、全くわからない。
けれどひとつわかるのは、こうなったしおりは、もうテコでも動かないということだ。どんな説得も、叱咤も、自転車において酷く頑固な彼女には届かない。

言いたいことだけを宣言して、また聞こえてくる調子はずれの鼻歌に、福富の小さなため息が混ざって、消えた。



 
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