50:向かう勇気を踏む足を



自室の壁掛けカレンダーは、部活の予定で一杯になっている。
毎週末のレースの予定。それに出場する選手は誰なのか。申込日はいつからなのか。書ききれない分はすべて手帳に詳細を書き込むので、手帳も同じような状態であった。

その壁掛けカレンダーのある一日に、しおりは赤ペンで大きく丸を書く。
少し震えて、線がよれてしまったのを見て、思わず苦笑してしまった。

……昔から、心は強い方だと思っていたが、どうやらこの壁を乗り越えるには相当の勇気を要するらしい。

ただ丸を描くだけの行動だけでこれなのだ。これ以上のメモ書きを残せる自信はない。
鼓動の音が聞こえてしまいそうなほどドキドキと高鳴ってしまう胸を押さえて、ペンを机の上に静かに置いた。








**********








秋が深まり、山々の木々が鮮やかに色づき始めていた。
朝の空気はひんやりと澄んでいて、肺いっぱいに吸い込めば、考えすぎてキャパオーバーを起こしている頭が幾分かスッキリしてくる。

いつもは朝練の為に登校してすぐに部室へ直行し、仕事を始めるのだが、しおりは今、校舎の中にある女子更衣室にいた。
そんなところで何をしていたかと言えば、もちろん『着替えていた』のだ。

不意に覗き込んだ更衣室の姿見に映った自分の姿は、酷く不安げで、情けない表情をしている。そんな気持ちに喝を入れようと頬を手でペチリと叩いて、グダグダと迷わないように、急いで更衣室を出た。

荷物を持って、速足のまま部活棟を目指す。
部室に入ったら。この姿を見られたら。自分はどうしたって、彼に状況説明をせざるを得なくなる。
そうやって自分で自分を窮地に追い込んだのは、一度心に留めた決意に、逃げ場を作りたくなかったからだ。もうこれ以上立ち止まってはいられない。

行きついた部室棟。その前で、しおりはひとつ、大きく深呼吸をした。

……目的の人物は、きっといつもの所定位置にいるだろう。
部員たちの着替えが終わる頃合いを見計らって、しおりは部室のドアをノックした。

「一年、佐藤です。もう入っても大丈夫でしょうか」
「おう、今日は遅かったな。入れ入れ!今後のメニューについての相談があるんだ」

中から聞こえてきたのは、間違いなく自分が目的としている彼の声だ。部員たちの話し声が聞こえるところからすると、まだ部室に幾人か残っているのだろう。
震える手を何とかドアノブにかけ、慣れ親しんだ部室の扉をゆっくりと開けた。

――部室の最奥にある小さな机が、現主将である彼のいつもの定位置だ。

主将であり、エースである彼の選手としての実力は、もちろん部内イチであり、彼のおかげで今年も箱根学園自転車競技部は王者の栄光を手に出来た。
絶対的な実力と、竹を割ったようなはっきりとした性格。そのおかげで部員からの人望も厚いが、彼は反面、非常に厳しい面も持っていて、そのせいで恐れられるべき存在でもあった。

練習に対しての入れ込みが、並ではないのだ。
例えば部員がいい加減な練習をしたりすれば、容赦なく殴ってわからせるし、練習を妨害するような行為があれば、相手が誰であろうと容赦はしない。

一度、インテリ教師が「部活などする暇があったら勉強して良い大学に入る努力をしろ」と部員の何人かを補習とかこつけて練習に参加させないということがあったが、その時の彼といったら、まさに鬼のような気迫だった。

相手が油断するよう、しおりにアポ取りをさせ、オーケーが出ると山のようなデータとともに教師のもとに乗り込んで、歴代の自転車競技部がいかに成績優秀で、部活での業績を残し、ついでにどれだけの名門大学へ進学したかを3時間ほど解説し続け、部活参加を認めさせたのだ。

「俺が手を出しそうになったら止めてくれ」

そう協力を請われ、しおりもその場にいたのだが、データに基づく完璧な理論付けでの追い込みに、インテリ教師は一言の反論すら出来なかったのを見ると、どちらがインテリかわからなかった。

とにかく彼は、練習に支障をきたす出来事が嫌いなのだ。

けれど、しおりがやろうとしている『それ』は、まさしく主将の大嫌いな、部員の練習に直接関わってくる我儘であった。
殴られたって、おかしくない。だからこそ、こんなに戦々恐々とした気持ちでこの場に臨んでいるのだ。




……皆の視線が、自分に集まっているのを感じていた。
それだけで足がすくんで動けなくなってしまいそうで、しおりはぐっと唇を噛んで、視線を一点だけに集中させて一歩を踏み出した。

(動け、ちゃんと歩け。前に進め!)

言い聞かせて、一歩、一歩と前に出す。気を抜くと、心も、足も、ポッキリと折れてしまいそうで酷く恐ろしかったが、それでも、どんなに怖くても、自分で決めた道だから自分で進みたかった。

まっすぐに自分の方へ近づいてくる近づく足音に、練習メニューに目を落としていた主将の視線が上がる。見止めたしおりの姿に、彼は何も言うことなく、ただただ、しおりが練習用のサイクルジャージに身を包んで登場した姿を見つめているだけだった。

「お話が、あります」

なるべく声が震えないように腹に力を入れて絞り出す。最初が上擦ってしまったが、それはもう仕方がない。
無言ままの主将が何を考えているのかは全くわからないが、乗りかかった船をここで降りることが出来るわけもなく、しおりは言葉を続けた。

「今日から、私も練習に参加させて頂けないでしょうか」
「……練習に?マネージャーのお前が、か?」

間髪入れずの返事だ。カラカラになった口が開かず、しおりは仕方なしに大きく頷いてみせた。

そう。その為のユニフォームだ。その為に、ここに伝えに来たのだ。




 
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