49:走りたいから、走るだけ



「お、お待たせ!」

少し上ずった声に振り向くと、そこには先ほど自分が買ったサイクルジャージに身を包んだしおりの姿があった。
彼女の愛車であるラピエールの白と水色、それに彼女自身の黒髪をイメージさせるサイクルジャージ。一目見た瞬間、彼女に似合うと思って衝動買いしたが、やはり自分の見立てに間違いはなかったようだ。

恥ずかしそうに隣に寄って来てラピエールに跨った彼女に、店では言えなかった「似合うよ」の声をかければ、彼女は顔を朱色に染めて、「ありがとう」とやっぱり恥ずかしそうに笑う。その姿に、妙に胸が苦しくなって慌ててペダルを回し始めれば、それに続くように彼女も後ろに付いた。

肌にまとう風が少しだけ冷たい。つい先日まで真夏の陽気だったというのに、少し気を抜けばすぐにこれだ。
長そでを買っておいて良かったと、真新しいジャージに身を包んだ彼女をもう一度見やれば、自転車に乗ったことで落ち着いたのか、気持ちよさそうに風を感じているようだった。

車体を彼女の隣に近づければ、それに気づいたしおりがこちらに視線を向けてくる。落ち着いたはずの彼女の顔が、また気恥ずかしそうに淡く染まるのを見て、意識してくれているのかなんて、甘い期待を抱いてしまった。

「サイズはどう?苦しくない?」
「大丈夫。でも、すごいよね。私サイズなんて言ってないのに、ピッタリなんだもん」
「ああ、そりゃあ……――」

ずっと見てるから。

……なんて言ったら、気持ち悪がられてしまうかもしれないから言わないけれど。誤魔化すように笑えば、彼女は不思議そうに首をかしげていたが、ついにはそういうものなのか、と自分の中で何かを納得させたようだ。特に追及してくることもなく、また眼前に続いていくコースに目を向けていた。

「そうだ、あとでお金払うからレシート頂戴ね」
「あー……いや、良いよ。しおりにプレゼントしたくて買ったんだし」
「な、何言ってるの!だってこれ、安いものじゃないでしょ?それに私、新開くんにそんなことして貰う理由がないよ!」

困惑した声色を出す彼女を一瞬だけ見てみれば、整った眉をキュッと寄せ、怒ったような表情を浮かべていた。
まあ、予想通りの反応だ。サイクル用品というのは、総じて高いのだ。

良い物を揃えようとすれば、それこそ車一台が余裕で買えてしまうほどの金額になる。
もちろんサイクルジャージだってその例に漏れず、有名メーカー品はもちろん、無名メーカーの物でも、そこそこ値が張る。

今しおりが着ているジャージも、新作だった故に安いとは言えなかったが、それを承知で買ったのだ。こちらとしては、何の問題もない。

隣で騒ぐしおりの声が届いていない振りをして、新開はジャージの後ろポケットに詰め込んでいたパワーバーを取り出し、封を切る。

さあ、ここからは山へ続く緩やかなのぼりだ。しおりの足に負担をかけないために風よけとなるべく新開が前に出ると、彼女もそれをわかっているのか、しぶしぶといった風体で彼の後ろに付いた。

坂道は得意ではないが、それでも引退した選手を引くくらいの実力はあるつもりだ。自分の背中を追っている彼女に格好良いところを見せたくて、この数年で習得したギアチェンジの適切なタイミングを見計らいながらケイデンスをあげる。なのに、当の本人と来たら、そんな男心など全くわかっていないようで、現役選手の自分より滑らかなギアチェンジでそれについて来た。

全くもって敵わない。けれど、それでこそ彼女なのだ。
思わず笑えて来て、にやける口端を少しだけ噛みしめて誤魔化しながらぐんぐん近くなっていく空を見上げてみれば、木々の隙間から覗く空は酷く透明で、高く見えた。

……すぐに秋が深くなって、ペダルを漕げない冬が来る。
春にはまたインターハイに向けての部内選考が行われ、次の夏の訪れだ。

高校の三年間なんて、あっという間だ。中学の三年間も短かったが、きっとこの箱根学園での高校生活はもっと短く感じるのだろう。

だって、自転車競技部の皆がいるから。王者、箱根学園の部員の面々は、実力派揃いではあるが、それ故なのか何なのか、ブッ飛んだキャラクターの持ち主が多いのだ。
息つく暇もないほど、自転車漬けの毎日に、個性的な仲間たち。
……それに何より、あこがれていた彼女がここにはいる。
それらに囲まれた三年間を長く感じるなんてことはあり得ない。

だったら、この毎日を。この時間を。この一瞬を、精一杯に楽しまなければ勿体ないではないか。

もうすぐ山の頂上が見えてくる。あがった呼吸で必死に酸素を吸いこんで、冷たい風を体に受けながら、ラストスパートをかけた。寒いとは思わない。むしろ、暑くてたまらないのだ。
背中に感じるその人の視線を思うだけで、じわりと熱が上がってくる。力が湧いてくる。
どこまでも、誰よりも強くなれる。そんな気がしてならなかった。







坂をのぼり切ると、そこからは緩やかな下りになっている。休憩がてらにケイデンスをグンと下げれば、後ろを走っていた彼女が隣に追いついて来る。
なんとなく、腕を伸ばして開いた手のひらを差し出すと、彼女は不思議そうにしながらも「なに?」と困ったように笑って、それからおずおずと新開の手に自分の小さな手のひらを重ねてきた。

「……理由なら、ある」
「え?」
「オレがしおりにそのジャージをプレゼントする理由なら、あるんだ。しおりはさ、」

――レース、復帰したいんだろ?

言った瞬間、彼女の大きな瞳が驚いたように見開いてさらに大きくなる。どうして、と口を動かした彼女を見れば、自分の予想は正しかったのだと確信付いて、笑みが漏れた。


実は、部員の面々から最近のしおりの変化についてを聞いていたのだ。

夏合宿が終わったあたりから、彼女はサイクル雑誌を見てはため息をついている姿を多く目撃されていた。気になった部員が彼女の後ろを通る際、チラリと見開きページを見てみれば、それは全国で開催されるレース情報のページであったのだそうだ。

他の部員より多くレースに出場する福富に、レース情報を事細かに聞いている姿も見た。東堂に復帰しろと迫られて、彼の前では顔をしかめつつも、後にまんざらでもなさそうに口端を緩めているのも目撃した。
荒北に至っては、表面上は何も変わらないように見えるが、どうやらしょっちゅう二人でレースのあれこれを真剣に話し込んでいるようだ。

今日、彼女がサイクルジャージを買いたがったのだって、いつかレースに復帰するときのことを考えたうえでの行動だろう。

あれだけ頑なに、復帰を拒んできた彼女が、一体どこで心を動かされたのかはわからない。けれど、必死に感情を隠しているらしい彼女のあまりにわかりやすい行動を見ていたら、後押ししてやりたくなったのだ。

「だからこのジャージは、佐藤しおり選手の復帰祝いのプレゼントだ。走ろう、しおり。皆おめさんの復帰を待ってる。見たいんだ、わかるだろ?」

夏合宿の最終日に行われた特別レース。
ゴール直後に彼女が倒れてから、レースに感化された皆がどれだけ無茶をしたかを、彼女は知っている。過度の疲労と、合宿終わりの安心で、宿に着くなりロビーや廊下で寝落ちしてしまう部員が続出し、部長と彼女は力尽きた彼らを回収しながら、宿の従業員や他の宿泊客に頭を下げて回っていた。

彼女はいつだって自分には何もできないと卑下するが、あの日の部員たちを見て、それでも自分になんの影響力もないとは思っていないはずだ。

走りたければ、走ればいい。
自分たちだってそうやって選手になって、今もこうしてペダルを回している。怪我の過去があったって、トラウマがあったって、一度リタイアしていたって関係ない。他に理由なんて必要ないのだ。





そうして力を込めて引き寄せた手を、彼女はふり払わない。
押し殺していた感情が溢れてしまった子供のように、ただひたすらに嗚咽をもらして泣いていた。

「ゆっくり、走ろうか」

ゴールに着くまでに、彼女の涙が乾くように。彼女の意思が固まるように。
もう感情が迷わないよう、つないだ手だけは離さないまま。


 
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