48:スタート地点で待っている



箱根学園の敷地内に到着するや否や、隣を歩くしおりの雰囲気が、休日の少女から自転車競技部マネージャーのそれに切り替わるのが分かった。
たとえそれまで気さくにお喋りしていたとしても、一度スイッチが入ってしまえば一気に凛とした空気に変わるのだ。

極端に言葉少なになった彼女の頭には、きっと今日の自主練に来ている部員たちにどのような練習を課すべきかの構想しかないのだろう。まだ部室にたどり着いてもいない状態でこうなのだから、一度部室に入ってしまえば完全に部活モードまっしぐらなのは間違いがなかった。

確かなマネージメント力を以て、部員からの信頼が厚い彼女は、いつだって引っ張りダコな存在である。

だから、おそらくあの部室の扉を開けてしまえば、今日はもう自分に彼女の独占権は回ってはこないだろう。

自転車に乗りたい。でも、もう少し、彼女の隣にも居たい。
この二つの感情を、同時に満たすにはどうすれば良いのか。悶々とした気持ちで彼女を見やれば、同じタイミングで自分を見上げてきた彼女の瞳とパチリと目が合った。

「今日の練習、新開くん優先で付き合うから」
「え?」

まさか、彼女からそんなことを言い出すとは思わなかったので思わず面喰ってしまう。
確かに今日は本来部活は休みであるため、マネージャーのしおりが誰とどんな練習をしようと勝手だ。というか、本来であれば練習に来る必要すらない。

けれど、真面目で自転車馬鹿な彼女は休日でも当然のごとく部室に現れ、部員たちの練習をサポートするのが通例となっているため、結局は普段の練習日と同じく、彼女は皆のマネージャーであり、平等な立場でいることが多いのだ。
だから彼女が特定の者だけに付いて練習をするなんてことは、よっぽどの理由がない限りはないに等しい。……なのに。

ポカンとして凝視する新開に、しおりは少しだけ眉尻を下げて視線だけで見上げてきた。
身長差ゆえにどうしても上目遣いになってしまっていることを彼女は知らないのだろう。そんな姿にドキリとしながら言葉を待てば、彼女は形の良い唇を割って、二の句を継いだ。

「だって、今日付き合ってもらったし。私に出来るお礼なんて、これくらいしかないから」

彼女はそうやって自分を卑下するが……とんでもない。彼女の時間を独占できることが、どれだけ贅沢なことか、彼女自身は分かっていないのだ。

彼女にアドバイスをもらった日は必ずと言っていいほどタイムが伸びるし、例えすぐには結果が出なくとも、指摘事項を改善していけば結果は良い方向に動いて行った。
その確証があるからこそ、部員らがアドバイスを求めてしおりのもとに殺到するのは当然のことなのだ。

……そして今、彼女はその貴重な時間を新開にくれると言っている。
こんなチャンス、喜ばないはずがない。

飛び跳ねそうになる気持ちをどうにか押さえつけ、いつも通りの笑顔を彼女に向ける。
部室まで、あと数十メートルだ。この距離があれば、他の誰かに彼女の時間を奪われるまでもなく、この申し出にありがたく二つ返事を返すのはたやすいことだった。

もちろん、新開もそのつもりだった。
ふと、自分の手に握られた紙袋を見るまでは。





彼女の手が、部室の扉にかかる。

規則通りのノック音と、「佐藤はいります」と名乗る声。ドアノブがひねられ、扉が開こうとした瞬間。

「……待って」

その手を止めたのは、新開の手のひらだった。

驚いたしおりが再度、新開を見上げる。すると、新開は持っていた紙袋をしおりの目の前にズイ、と差し出し、半ば無理やり手渡した。

……これは、彼がサイクルショップで待っている間に買った物ではないのだろうか。何故いま自分に渡すのだろう。

訳も分からず受け取ったしおりは、受け取った紙袋に視線を落とし、困ったように口をつぐむ。
一体、彼は自分にこの袋をどうしろというのだろうか。彼のいつになく真剣な瞳も、なんだか落ち着かない。どうしよう、と思考を張り巡らせているところで、新開が静かに口を割った。

「お願いがあるんだ。聞いてくれるか」

聞くも何も、内容を聞かないと返事が出来ない。おそるおそる視線をあげて、彼の目にたどり着けば、その瞳は声色に連動するように、やはり真剣で、まっすぐ自分を見つめていた。

「しおりの時間をくれるんだったら、別の形で練習に付き合って欲しい」
「別の?」
「ああ。ウォームアップコースを、一周だけでいい。オレと一緒に走ってくれないか?」

ウォームアップコースとは、箱根学園自転車競技部が部活前の足慣らしとして使っている1週10キロほどのコースのことだ。学校の正門を出て、平坦な道路を経て山の方へのぼり、キツく長い下りを乗り切った先にある長い激坂から戻ってくるというコース。

距離は長くないが、起伏が激しいため1週回るだけでも十分な準備運動になる。マネージャーのしおりも、空き時間にはちょくちょくこのウォームアップコースを活用してペダルを回していたため、コースは頭に入っていた。

しかし、どうしていきなり一緒に走りたいだなんて言い出したのだろう。練習なら、自分と走るよりも彼一人で走った方がずっと速いし、効率もいいはずだ。
もしかして、新開も自分と勝負がしたいのだろうか。

確かに、2年前の事故の日以来、彼とは勝負していないので、実質しおりが勝ち逃げした形になっている。
そう問えば、彼は真剣だった表情を破顔させ、「それも魅力的だけどな」と含みを入れてからしおりに渡した紙袋を指さした。

「一番最初に見たいんだ」

ちょっとくらい独り占めさせてくれよ、なんてウインクした新開は、展開についていけないしおりを残し、サッサと自分だけ部室の中に入ってしまった。



……全く意味が分からない。

思わせぶりな事だけ吐いて、核心を突くことは何も言わずに後で相手が驚くのを楽しむ人なのだ。新開隼人という男は。

けれど今わかるのは、この紙袋の中に答えがあるということ。恐る恐る、口に留めてあるテープをはがして中を覗き込んでみる。
するとそこには、今日買うはずで買えなかった、「それ」が入っていた。





――丁寧に折りたたまれた、サイクルジャージだった。

白が基調となった、長そで丈のサイクルジャージ。言葉も出ずに、袋から出して広げてみると、袖から胸にかけて水色のグラデーションが乗っていて、そこに体のラインをなぞるようにプリントされた黒の模様が入っているのが目に入った。

爽やかでいて、凜とした印象のそれ。
きっと、愛車のラピエールにも良く似合う。

「……馬鹿ね、」

どんな顔をしてこれを買ったのだろうか。どう見たって女物だ。きっと恥ずかしかったに違いない。
ずっと、どうやって渡そうかと考えていたのだろうか。だから帰り道で、何度もチラチラ何か言いたげに視線を送ってきたのだ。今だったら、わかるのに。

サイクルジャージを丁寧に紙袋に戻し、それを大事に抱えて校舎へ向かう。目指すは女子更衣室だ。
自分の為に体を張ってくれた彼のたっての頼みを聞かないわけにはいかないだろう。

きっと彼は、コースのスタート地点で待っている。振り向いた彼に、なんて声をかけようか。
想いながら、空色の袖に、するりと腕を通した。


 
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