46:その感情の名は



腕時計に目をやれば、時刻は午前の8時15分を指していた。

朝、寝グセで爆発していた髪はちゃんと直っているだろうか。確かめようと、ガラスディスプレイを覗き込んでみた。

うん、髪はオッケー。

もともとクセの強い髪質の為、セットしたところでまっすぐなストレートにはならないが、それでも努力の跡は十分に垣間見える。
しかし、それより何より問題なのは、ガラスの反射の中、映し出された自分の顔の方だった。


情けないほどガチガチに緊張した表情は、まだ待ち合わせ時間の一時間近く前だというのに既に強張ってしまっている。目の下のクマだって、今日という日に怖気づき、うまく寝つけなかった苦悩の証だ。

(レース前だって、こんなに緊張したことはなかったのに)

初めて出るレースだって、全国から多くの選手が集まるような大きなレースだって、ここまでではなかった。もちろんそれなりに緊張はしていたが、自分の実力に絶対の自信を持っていたから不安からの緊張ではなかったのだ。

誰よりも練習したし、誰よりも自転車が好きだと言える自信があった。
それでも福富のような化け物的な速さの奴はいたが、オールラウンダーの彼と自分ではそもそも比べる土俵が違う。

最強のスプリンターとしての自信。そのおかげで、自分はここ一番という時の緊張の鼓動を高揚の音に変えることのできる鉄の心臓を手に入れたのだ。

――けれど、それが今はどうだろう。

数時間、女の子と二人で出かけるというだけで数日前からずっとこんな調子なのである。

こんなことを言えばさぞ嫌味たらしく聞こえるやもしれないが、自分はそれなりに女の子にモテるのだ。告白されたことだって、一度や二度ではない。女友達も多いため、女性の扱いにも慣れている……つもりだったのに。

今はこんなに自信がない。
一分、一秒ごとに、不安ばかりが募っていく気がしていた。

自分がこんな風になってしまう原因はわかっている。それは、今日一緒にでかける女の子のせいであった。

だって彼女は、普通の女の子とは違うのだ。
いや、他の奴からすれば普通の女の子なのかもしれない。けれど、少なくとも自分にとっては特別な存在に違いない。





――いつだって、彼女は前を走っていた。

絶対不敗の小さな背中が、信じられない速さでゴールラインを駆けていくのを見るのが好きだった。
自転車馬鹿の自分が感心するほど、自転車に陶酔しきっている彼女のまっすぐな表情が好きだった。
挫折したって、立ち上がって、また前を向いて走ることのできる強い心に、惹かれていた。

想うと苦しく高鳴って、いつまでたっても収まらない。不安げな心臓の鼓動を落ち着かせるように、胸のあたりに手を当てて、服をくしゃりと握りしめ、目をつむる。
そうすると真っ暗な脳裏に浮かんでくる、眩しいほどの笑顔がある。

そう、彼女の名は……――


「しおり、」
「なに?」
「っ……!?」

独りごちて読んだだけのつもりだったのに、予想に反して返ってきた返事に、新開はアスファルトに落としていた視線をバッとあげた。

いつもの制服ではない、私服の彼女だ。
動きやすそうなスポーティな格好に、髪は高い位置のポニーテール。もっと女の子らしい服装をしてくるのだろうと思っていたので意外ではあったが、もともと活発な性格の彼女には、そういうラフさも似合っていた。

「お待たせ、って言ってもまだ待ち合わせの30分前だけど。新開くん、いつからいたの?」
「……ついさっき」

まさか、一時間以上も前からここで悶々としていたなどという格好悪いことを言えるはずもなくそう答えれば、彼女はそんな自分の嘘を信じて「良かった」なんてホッとした顔をしていた。

そうして自然な動きで歩き出した彼女の後に続きながら、つかず離れず、隣を歩く。チラリと表情を盗み見れば、緊張しっぱなしの自分とは違い、リラックスした表情でご機嫌に鼻歌なんかを歌っていた。

彼女が歩く度に、羨ましいほどまっすぐで艶やかな黒髪が揺らめいている。この束を掴んで、引き寄せてみたら、彼女は怒るだろうか。それとも、じゃれていると判断して笑ってくれるだろうか。とてもじゃないが、そんな度胸などありはしないので出来はしないが。
見とれているとパチリと目があって、照れたような表情で返してきた。

「ふふ、私ちょっとビックリしちゃったんだ」
「何が?」
「新開くん、いつも私のこと『ちゃん』付けするのに、いきなり呼び捨てで呼ばれたから」
「ああ……」

だって、まさかしおりが傍にいるとは思わなかったのだ。
恥ずかしいセリフを言っていたわけでも何でもない。ただ、待ち合わせていた人物の名前を読んでみただけ。けれどそれを聞かれていたことがどうにも気恥ずかしくて、誤魔化すように「嫌だった?」と問えば、彼女はゆっくりと首を横に振ってから、悪戯に笑って見せた。

「ちょっと、ドキっとした」

その表情に、こちらはドキッとしたどころの話ではない。思わず止まりそうになる足を必死で動かし、小さな彼女の歩調に食らいついていく。今日は前を走らせない。自分がリードするのだから。

しかし、無言で彼女の半歩前に出たところで、ある疑問にぶち当たって新開は再びしおりの方へと視線を移した。

「それで、買い物ってどこに行くんだ?」
「あれ、言ってなかったっけ」

きょとんとした顔で返してくる彼女に、新開は軽く頷いた。そうだ、何も聞いていない。買い物なら、服か、靴か、それとも雑貨屋か。
親しい人へのプレゼントを買いに行くという線もある。

答え次第では、この買い物の相手にどうして自分が選ばれたのかも、わかるはずだ。

しかし、彼女の出した答えは新開の想像したどれにも属してはおらず、けれど非常に彼女らしい答えというべきものであった。

「サイクルショップに付き合って欲しいの」

……まあ、わかっていた。
彼女が自分をそういう対象で見ていない限りは、デートスポットになりそうな場所になど行くはずもない。
だとしたら、絞られる選択肢はたかがしれている。

がっかりしたような、けれどホッとしたような。
そんな感情を抱きながら、新開は視線を進行方向へと戻した。

「欲しいパーツでもあるのか」
「じゃなくて、新しいジャージに買い替えようかと思って」
「へえ。前のもまだ現役で使えそうだったけど」

合宿中、彼女が着ていたサイクルジャージ類を思い出して言う。
見覚えのあるあれは、彼女が現役時代に着ていた物だ。引退とともに仕舞い込まれてはいたが、彼女の両親がきちんと管理をしていたのだろう。月日が経ってもヨレもシミもない。
けれども彼女は何故か苦笑いして、理由を言いにくそうに口ごもっていた。

「入ることは入るんだけどね、ちょっと苦しくて……その、胸が」

恥ずかしげに、語尾を弱くして呟いた彼女。思わず一瞬だけその胸部に視線が行ってしまったのは、会話の流れからいっても致し方ないことだろう。

それに気が付かれて張り手などされてしまわないように、「そうか」なんて簡素な返答だけして、すぐに視線を外してにぎやかな週末の街中に目を逸らした。

……確かに、彼女の胸のふくらみは二年前の記憶の中の彼女と比べると確かに大きくなっている。
むしろあの頃は、身長や体型こそ今とそう変わりがないものの、髪も短かく、胸もなかった為、よく男の子に間違われていた。
それが今では艶やかなロングヘヤーに、凹凸のハッキリした肢体。整った顔立ちなのは前からではあるが、どこからどう見ても魅力的な『女の子』だった。

「他の部員にこんな理由話したら、絶対騒がれるじゃない。だから、新開くんが適任だと思ったんだよね」

それはそうだ。
東堂はまず間違いなく騒ぎ立てるだろうし、福富と荒北に至っては照れてしまってお話にすらならないだろう。
つまり、新開が今回の買い物の相手として選ばれたのは消去法で彼しか残っていなかったからなのである。

そうと気づいてしまうと、この状況をラッキーだと思えばいいのか、落胆すればいいのかわからない。とりあえず自分はあの数多の自転車馬鹿たちの中から選ばれたのだ、と前向きに考える他に自分を慰めるすべなど見つからなそうだった。

向かうサイクルショップは、箱根学園自転車競技部の部員御用達の大型サイクルショップだ。フレームはもちろん、各種パーツやメンテナンス用品、ウェア用品なども数多く扱っており、実際新開自身もこのショップで購入したサイクルジャージを何着か保有していた。

女性用ウェアのコーナーも、確か存在していたはずだ。わざわざ見に行ったことはないが、男性用とは違う、華やかで可愛らしいデザインの物もあるらしい。

(彼女に似合う色は何だろうか)

何でも似合うだろうが、だったら一番似合う物を選んでやりたい。

彼女自身に似合う物を。
彼女の愛車にも合う物を。
彼女の走りを象徴するような物を。

それが出来るのは、きっと彼女の過去の姿も今の姿も知っている自分だけだ。
自分たちの関係の間に存在する『自転車』というツール。煩わしいとさえ感じていたこの存在価値を存分に生かす、これはチャンスなのだと思えた。

「良いサイクルジャージ、見つかるといいな」
「新開くんが選んでくれたら、間違いはないでしょ」

彼女の言葉に、きっと他意などない。
純粋に自分を信頼して任せてくれるという、ただそれだけの言葉だ。

なのにこうも心が躍る。それがどうしてか、なんて。
本気で考えてしまったら止まらない気がして、切なく締め付けられる胸の痛みを隠すように、「任せとけ」と精一杯の虚勢を張った。


 
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