45:憂鬱は愉悦に変わる



週末前は憂鬱だ。

別に、休みが嫌なわけではない。むしろ自転車を好きなだけ漕ぐ時間を取れるので、気だるい授業に拘束される時間がないという点では非常に魅力的である。
朝も早いうちから思いっきりペダルを踏んで、時間を気にすることなく休憩できる。生活が自転車中心に回っている自分にとって、こんなに幸せなことと言ったらないのだ。

では、一体何が憂鬱なのかと問われれば、それは週末の放課後に必ず自身の身に降りかかる、ある案件のせいであった。








「あの……新開くん、日曜日暇かな。良ければ一緒に買い物とか行かない?」

目の前で、少女が指を弄びながら恥ずかしそうに顔を伏せているのを見下ろしていた。

小さくて、華奢で、触れれば壊れてしまいそうなほど脆い、そんな印象。より大きく見えるように縁取りされたその目が、意味ありげな熱っぽさを宿っているように見えるのは、きっと自分の勘違いではないのだろう。
彼女の言葉の語尾に秘められているのは、疑問詞ではなく許容だけ。つまり、求めている返事はイエスの一択だけだ。

そんな視線に居心地の悪さを感じて、新開は『愛想がいい』と評される、いつもの締りのない微笑を口元に浮かべて肩をすくめて見せた。

「悪いな、今度の日曜は自主練って決めてたんだ。来月大会だから体作りこみたいし」
「え……そうなんだ。大会なら仕方ないね。じゃあ、また誘うね」
「うん、また今度」

本当に行くかの保障すらない、社交辞令の『また今度』。それでも少女は返答に満足したのか、幸せそうに顔を輝かせて、微かに頬を赤く染めていた。

飛び跳ねるように走り去っていく小さな背中。その様を見送りながら、新開は無事にこの場を切り抜けられた安堵感と、少女に対する罪悪感で、ほう、と息をついた。

――新開が週末前を憂鬱とする理由。
それは週末前になると、このように女子生徒から休日の誘いを受けるからであった。
男からすれば、ぜいたくな悩みだと妬まれるやもしれないが、当事者はこれを断るために笑えないほど悩むのだから決して良いものではないのだ。

下手な嘘をつき続ければ、いずれはボロが出てきてしまうし、そうとなれば相手の心だって傷つけてしまう。だったらいっそ、無駄な気を持たせないように一言でバッサリと断ってしまえばいいのだろうが、平和主義の自分にそのような高等技術が使えるわけもなく、うやむやな返事しか返せない。

だから新開はいつだって、自転車をダシに使った嘘をついて事なきを得ているのだった。

実をと言うと、今の件だって、断った理由の中の半分は嘘だ。
日曜日が自主練の日なのは確かだが、休養も大事な体作りのうちのひとつの為、半日以上はオフを作ることに決めているのだ。
だから、行こうと思えばデートのひとつやふたつくらいはできる。けれども誘いに乗らないのは、単純に乗り気にならないからだった。

異性に興味がないわけではないのだ。むしろ、儚げな装いについ加護欲が沸いてしまう先の彼女のような女子は、ハッキリ言ってタイプである。

しかしながら、自分は向こうの学年も、名前も、性格だって知らない、いわば全くの他人である。いくらタイプであろうと、そんな見ず知らずの相手と二人きりで何時間も楽しく過ごせる自信も、精神力も新開にはなかった。

いつも部活で予定がビッチリな分、週に一度の休みくらいは好きなように過ごしたい。
その休日の過ごし方の選択肢に、万が一、女の子とデートに行くという一択があるにしたって、どうせなら気心の知れた女の子と過ごしたいと思うのは当然の摂理だ。

そう、どうせなら一緒にいても気張らないくらい仲の良い子と。できれば好きな子とでも……――


「新開くん」

考え事をしている最中に、いきなりポンと肩を叩かれ、新開の肩が大きく跳ねた。
驚いて振り返ってみれば、新開が驚いた姿に相手も驚いたらしい。大きな丸い目を更に大きく見開いて、見知った顔の彼女が体を強張らせたまま自分を見ていた。

「ご、ごめんね!驚かせるつもりじゃなかったんだけど」

申し訳なさそうに謝る彼女に、新開は咄嗟の言葉に詰まってしまって首を横に振ることしかできない。ボーッとしてたのは自分の方だ。彼女が悪いわけではない。

格好の悪いところを見せてしまったのが恥ずかしくて、視線を外したまま「何か用?」なんて問いかけると、彼女は思い出したかのように手を打って、酷く無邪気な笑顔を向けて言った。

「ねえ、日曜日暇だったりする?良ければ買い物に付き合って欲しいんだけど」
「……」

……ああ、驚くほどの既視感だ。
偶然にしては出来すぎている偶然に、新開が思わず閉口すれば、鋭い彼女はそんな彼の空気を察したのだろうか。
眉をハの時に下げて、こちらがまだ何も答えてもいないのに「やっぱりダメかー」なんて諦めムードで苦笑を返してきた。

「日曜はいつも午後から自主練してるから、午前中が空いてたらって思ったんだけど」
「え……ちょっ、」

ちょっと待ってくれ。駄目だなんて言っていない。
慌てる新開を尻目に、話は終わりだと踵を返し、歩き出そうとした彼女。それを行かせまいと無意識に伸ばした手が、彼女の手首を捕まえ、強く引き寄せた。

案の定バランスを崩した彼女の体が自分の腕の中に落ちてくる。新開は、それを軽々と支えながら、彼女にしか聞こえないであろう声のトーンで囁いてみせた。

「……行く。絶対行くから、あとで時間と待ち合わせ場所メールして」

新開が声をひそめた理由はふたつだ。
ひとつめは、先ほどの女子生徒を簡単に断った手前、今目の前にいる彼女からの誘いに大声でオーケーを出すことが出来なかったから。
そして、ふたつめの理由は、こうやって意識的に声を落としてやらないと、舞い上がった感情でどうにかなってしまいそうだったからだった。

彼女は、自分の憧れの存在だ。
選手としても、人間的にも、焦がれてやまない大事な人だ。

今は自転車競技部の選手とマネージャーであるから、結構な時間を一緒に過ごすほど、気心の知れた関係ではあるのだけれど、自分たちの関係の間にはいつだって自転車というツールが存在していて、休日を二人きりで過ごすなんてことは、今まで一度だってなかったのだ。

そんな彼女が、自分を誘っている。他の誰でもなく、自分を。
どんな理由なのかは知らないが、どんな理由だって構いはしない。先ほど誘ってくれた少女には悪いが、彼女意外に優先出来る事項が見当たらないのだから許してほしい。

自分を見上げてくる目は、いつだってまっすぐで、心を見透かされそうなくらい澄んでいる。内に秘めた下心まで読み取られてしまいそうで怖くはあったが、ここで目を逸らしてはいけないと彼女の瞳を見つめ返せば、丸い目が楽しそうに細められたのが見えた。

「了解。じゃあ、またあとでね」

新開の声のトーンに合わせるように、彼女も声を少し落としながら悪戯に笑う。
まるで子供が悪だくみを考えるような無邪気な笑顔だ。こんなに密着しているのに、安心しきったその表情。向けられる好意のベクトルに、新開は嬉しいような、物足りないような気持ちを抱えながら、掴んでいた手を名残惜しげに放した。



 
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