44:ステルプライド
「私の中にはびこるプライドがね、私にとってのラスボスらしいの」
「へェ、ずいぶん弱っちぃラスボスだな」
「失礼ね。そのせいで私、お弁当も食べられないくらい悩んでるんだから」
ルームメイトの彼女が作ってくれる絶品弁当が入った包みにそっと手を触れ、優しく撫でる。
おなかは減っているのだ。けれど、食欲がないだけ。
いつもは手作り弁当を旨そうに頬張る彼女が、今日はそれに手すら付けていないのを見て、荒北はようやく表情を引き締め、視線をしおりに向けた。
沈黙の間を、生ぬるい風が一瞬だけ吹き抜けて荒北の短い黒髪を揺らす。
クセのない、ストレートの髪。髪質は意外と細く柔らかく、以前何かの拍子で触れたそれは、女子も羨むほどのサラサラ加減だった。
どんなに風に吹かれたって、撫でつければすぐに元通りになる。
そんな彼の髪を見ていたら、ふと、彼がリーゼント頭だった頃のことを思い出して、反射的に質問が口を割った。
「ねえ、荒北君のあのリーゼント、どうして切ったの?私、あの髪型にプライドがあるのかと思ってた」
「あ?そりゃあ、あったぜ、プライド。まあ、もう要らねぇと思ったからチャリ部入ってすぐ捨てちまったけどな」
大事に持っていたプライドを、そんなに簡単に手放せるものなのか。
彼に問いただしたかったが、その横顔がどこか物悲しい表情をしていて、その理由を知らないしおりは、すぐに二の句を継ぐことができなかった。
そういえば、彼とは入学以来かなりの時間を共にしてきたが、彼の過去についてはほとんど知らないような気がする。
今まで新生活と、部活のことでいっぱいいっぱいだったからだろうか。聞こうと思ったことすらなかった。
中学時代はどんな男の子だったのだろうか。やっぱり今のように、口が悪く、怒るとすぐ手が出るタイプだったのだろうか。
細そうに見えて、自転車競技部に入る前からしっかりと筋肉のついていた体は、中学時代に部活で鍛えたものなのだろうか。だったら、何部だったのだろう。
疑問が出てきたら、キリがなくて。
けれどそんな込み入った話、いきなり聞いてもいいのかすらわからなくて。
彼といるとおしゃべりになってしまうこの口が余計な言葉を紡がないように、ぐっと唇を噛んで抑制すると、それに気が付いた荒北が、呆れたように、鼻で笑った。
「いまさら気ィ遣ってんじゃねえよ、バァカ」
「なっ……だってこういうのは、プライバシーってもんがあったりとか、」
「言ったろ、そういうプライドはもう捨てたって。過去の何を聞かれたところで、オレはもう傷ついたりしない」
そう言って、荒北は撫でていた肘をトントンと指でたたいて、しおりの視線を注目させた。
……何の変哲もないように見える右腕だ。
しいて言うならば、左腕よりいささか筋肉が発達しているように見えるというくらい。
彼は右利きであるから、よく使う右手の筋肉が発達しているのは理論的におかしくないともいえるだろうが、日常生活程度で傍から見てわかるほど左右で違いは出ないはずである。
ならば、導き出される答えはひとつだろう。
確信を持ったしおりの瞳に気が付いたのか、荒北はにやりと笑って、左手で患部を強く握った。
「オレさ、中学時代に野球で肘壊して部活辞めてんだわ。それなりに努力して、ケッコーいいとこまで行ってたんだぜ。カミサマなんて信じちゃいねえが、あん時はさすがにこんな運命背負わせたカミサマを呪ったね」
だから、彼は世に歯向かったのだ。
努力が報われない、この理不尽に嫌気がさして。今まで全力を傾けてきた情熱が、一気に消え去る消失感を知って。夢半ばで散ったプライドに誰も触れないように、あのいかついリーゼント頭に押し込めたのだ。
――まるで、あの事故の後に、自分が自転車を捨てたように。
「……ンな顔すんなよ」
「だって……、」
震えて、嗚咽交じりの声が情けなくて、しおりは息をのみこんだ。
だって、彼の境遇があまりに自分と似ていたから。
怪我をして、それまで打ち込んでいたスポーツが出来なくなって、自暴自棄になって、自分の殻に引きこもった。
まるで鏡でも見ているかのように、何もかもが重なって、だから尚更、彼の感じてきた痛みがわかって、辛かった。
けれど彼と自分でひとつだけ違うのは、彼がもう進み出しているということだ。
自転車競技と出会い、そこで一度は潰えた夢を、また手にしようと追いかけている。
……なのに、一方の自分はどうだろう。
やっと自転車に接することができるようにはなったけど、過去の栄光や、プライドにこだわって、ちっとも前に進んでいない。
トラウマだって、あの日のまんま、トラウマのままだ。
自分の栄光は過去の話。
負けず嫌いは性格だけれど、一位が取れないのなら挑戦したくないなんて、ただの臆病者だ。
そう思ったら、急に自分の固執してきたプライドが小さいもののように思えて、心がストンと楽になった。
傍らに置いていた、弁当包みに手を伸ばす。
綺麗に包まれた弁当箱のふたを開け、箸を取り出せば、隣から荒北が「食欲不振はどうした」と含み笑いを投げかけてきた。
「いま治った」
「そりゃあ、良かったネ」
「うん。ありがとう」
「オレは何もしてねえよ」
「そうだね、だからありがとう」
彼が何もしてくれなかったおかげで、進むべき道が見えてきたのだ。ここで下手に慰められでもしようものなら、自分はまだプライドにこだわって、ずっと弱虫なままだった。
……そんなこと、いちいち伝えていたら彼はきっと煩がるから言わないけれど。
もう既に、ありがとうの連発で照れてしまってそっぽを向いている彼をみて、そう思った。
昼休みはあと少し。それまで何を話そうか。
そうだ、彼が話してくれたように、自分も自分の過去を話してみよう。
同じ痛みを乗り越えてきたこの人なら、きっと明るく、笑い飛ばしてくれるだろうから。