43:幸せのジレンマ



自転車雑誌は面白い。
全国のレース情報や、世界のツールド情報、自転車に関する豆知識。
毎月様々な特集が組まれて雑誌の中を彩っている。

特にサイクリングコース特集なんかで良い記事を見つけると、その道を走った時の気分を想像して心を躍らせてしまう。
「短い一生の間に、必ずここに行って、走ろう」そんな、実現出来るかも怪しい決意を心に留めて、記事をスクラップファイルに仕舞い込むのだった。

ふわふわ、きらきら。可愛いファッション雑誌も、もちろん好きだ。
けれど、心を惹かれるのはやっぱり自転車雑誌の方で。

どこまでも行けるあの乗り物で、まだ見ぬ世界の景色を走りたいと思わせてくれる、そんな自転車雑誌が大好きだった。








……パラリ、パラリ。
同じページを行ったり来たりしながら、しおりは視線を自転車雑誌へと落としていた。

その表情は妙に固く、およそ自転車好きがワクワクしながら記事を読んでいるようには思えないだ。
何かに迷うようにあるページを見つめ、けれどすぐに断ち切るように他のページに進んでは、また同じページに戻ってしまう。
全くもって埒のあかない行動である。

本人もそう感じたのか、気だるげなため息をひとつ吐き出すと、進まない雑誌をぱたりと閉じて眩しい日差しの降り注ぐ天を仰いだ。


新学期が始まったばかりの空は、まだ夏の色が衰えずに青く、深い装いだった。気温だって、まだまだ真夏のそれである。
秋の気配などちっとも感じられない残暑に、流れ落ちてくる汗を手の甲で拭えば、この夏の思い出ばかりが蘇ってきた。

……強化合宿に始まり、夏のインターハイ。そして実家への帰省中に出会った不思議なのぼり方をする男の子。

笑ってしまうくらい、自転車漬けの毎日だ。けれどそれがひどく幸せで、夢のような時間だった。

数か月前までは、二度と自転車には関わらないとひねくれていたというのに、それが今では自転車のことしか考えていない。そんな生活が、少なくとも三年間続くのだから、幸せでないわけがないではないか。

けれど、人の欲というものは際限ないもののようで、現状維持から手を伸ばし、さらなる幸福を欲しがってしまうのであった。


様々な考えが浮かんでは消える頭は、暑さのせいかモヤがかかったようにぼんやりとしている。顔にあたる直射日光の眩しさに耐えられずにもそもそと膝を抱いて小さく縮こまれば、この夏休み中、動きやすいTシャツやら、ワンピースやらと、ラフな格好ばかりしていたせいで、久々に袖を通した制服の半そでがやけに窮屈に感じた。

しおりにとっての、幸せとは。
もちろん自転車に関わり、自転車とともに生活していくことだ。それは今の状態からでも十分に感じ取れる幸せではあるのだが、欲張りな彼女が欲しがっている幸せへのカギは、今しがたしおりの手の中で閉じられた自転車雑誌の中に収められているのだった。

――その雑誌には、サイクリング特集とともに、全国各地で行われるレース情報が乗っている。

サイクリング気分で参加できるものから、賞金の出る本格的なレースまで、規模は様々であるが、そんなことはどうだっていい。

……要するに、レースに出たいのだ。
もうレースには出ないと決めたのに、出ない分、全力で箱根学園自転車競技部をサポートしようと決めたのに。自分はまた、あのゴールでの真っ白な景色を見たくて、うずうずしているのだ。

それもこれも、原因はインターハイ前のあの強化合宿で東堂が煽ってきたことにある。

彼は自分の走る姿をまた見たいと言ったのだ。
この足が、全力で回し続けることができないことは、彼も知っているはずなのに。心の奥底で押し殺してきた欲への扉を、彼はなんの躊躇もなくノックして、自覚させてしまった。

けれど、もしもレースに出るなら、やっぱり優勝したい。
怪我で引退していても、それが負けず嫌いの元自転車乗りのプライドだ。回せないけど、回したい。そのジレンマで、心を揺らしているのだった。

「人の気も、知らないで」

無責任なあの男は、どうせ今頃、自分の悩みなど知りもせずに、また学校中の女子相手に軽口を叩いているに違いない。

そう。彼の言葉に勝手に反応して、勝手に悩んでいるのはこの世でたった一人、自分だけ。
それだけレースへの復帰に固着しているのだと認めているようで、なんだか酷く悔しかった。

「よう。なーに辛気臭ェ顔してんの?」

いきなり声をかけられて、しおりは反射的に伏せていた顔をあげた。
途端、瞳に突き刺さる鋭い太陽光の眩しさに目を細めれば、声の主がサッとその日の光から自分を隠すように目の前に立ってくれる。

……口調は乱暴で粗悪だ。
よく目つきがキツい言われるので、彼自身もガラが悪そうにふるまっているのはしっている。
なのに、行動の優しさがそれに伴っていないから、悪人にすらなり切れないのだと、しおりはちゃんと知っていた。

「ありがと、荒北くん」
「何がァ?」

しらばっくれるようにだらしなく伸ばされた語尾。それに思わず笑みをこぼすと、逆光で見えにくかったが、彼も静かに笑った気配がした。

「にしても、珍しいな。お前が此処でメシなんてよ」

二か月ぶりくらいか、と問うてきた荒北に、しおりは少し考えてから肯定するように頷いた。
最後にここで食べたのは、自転車競技部へ入部する前だから、きっとその位だ。それ以降は、クラスの女子に誘われでもしない限りは、いつだって、自転車競技部の彼らと食堂へ出向いていた。

けれど、今日は件のことを、一人でちょっとだけ考えたかったのだ。
だから、同じクラスの東堂にすら何も言わないでこの校庭の隅に来てしまった。

前はよく、マネージャーになれと追いかけてくる東堂たちを撒くために使った秘密の場所。思えば自分がここに来るであろうことを知っていそうなのは、彼だけだ。

何せ、昼休みの度に匿って、隠してもらっていたのだから、無理もない。

追いかけてくるものと、追われている者と、それを匿うもの。今ではその全員が一緒に昼食を摂る仲だなんて、過去の自分は予想すらしていなかっただろう。

そこに突っ立ったままの彼の為に定位置を空けてやれば、荒北は何も言わずに隣に腰を下ろす。
一番雑そうに見えて、実は一番人を良く観察しているのは彼なのだ。

自転車競技部の面々と昼食を共にできないことなど、今まで何度もあった。だから他のメンバーは今日しおりが居ないことにも「またか」なんて、きっと気にも留めていないだろうが、なのにこの人は感づいて、探してくれたのだ。

察することに長けている彼は、何かに感づいたとき、よく『臭う』という語彙を使う。

……今日の自分も、何か『臭った』のだろうか。

だから探しに来たくせに、何ひとつ聞いてこないで黙っている彼の意地の悪さに、しおりは誤魔化せないか、と少しだけ苦笑した。



 
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