42:未知との遭遇



たどり着いた坂の頂上。

巻島は上がり切った息で、必死に体に酸素を取り入れる作業だけに集中していた。照りつける太陽の光が肌を焼いている感覚がしたが、それに抗い日陰に移動する体力すらない。

それでも何とか顔をあげれば、眼前には自分と同じように苦しそうに息をつく少女の姿があった。地に顔を伏せて息を整える自分とは違い、彼女は大きく天を仰いで、嬉しそうに呼吸を繰り返す。
この辺で、一番高くて美しい景色の中、生暖かい風に吹かれて彼女の長髪が揺れるのが、なんとも印象的で見つめていると、視線に気づいた彼女が、こちらに振り向き、苦しげに笑いかけてきた。

「アクエリ、お願い!」

主語のないその言葉の意味は、「奢れ」というのと同義語だ。悪びれもなく催促する彼女に、多少落ち着いた呼吸でもって近くの自販機でスポーツドリンクを二本購入し、そのうちの一本を投げてやる。
それを危なげもなく受け取り、ボトルのふたを開けて一気に飲み干した彼女の飲みっぷりに呆れながら、自分もパキリとキャップを回した。

口に含んだ液体は、甘みを帯びて喉の奥へと流れ落ちていく。いつもは粉状のタイプを水で適度に薄めて飲んでいる為、既製品のそれは若干甘すぎる気もしたが、激しい渇きを訴える本能には勝てず、自分も一気に飲み干した。

流れた汗の水分が、また体の中からしみ込んで満ちていく。ああ、これで、また走れる。
疲れ切っているというのに、まだそういう思考回路が働いてしまうのは、自転車乗りの悲しき性なのだ。

ペットボトルから口を離し、口端を手の甲で拭う。すると彼女が空になったペットボトルを手の中で弄びながらこちらを見ているのに気が付き、同じく、視線を返した。

「何見てるッショ」
「んーん、のぼってる時と今で印象違うなって思って」

そう言って、彼女は大きな丸い目でキラキラとこちらを見つめてくる。ひょろひょろと細長い手足は、女性に嫌悪の対象で見られたことはあっても、興味の対象として見られたことがない。
気まずくて思わず目をそらせば、いつもは冷たいだなんだと批判されるその行為すら「あ、照れてる」と図星を突かれて笑われてしまい、なんだか変な気分だった。

それよりも、のぼっている時と今で印象が違うのは、彼女の方だ。

レースが始まった途端、獣のような目をしてペダルを回すあの姿は、いま目の前で、爽やかに笑う姿からは想像すらできないほどの威圧を放っていた。

自分のダンシングが発展途上なのはわかっている。速さだって、まだまだだ。けれど、それでもこんな同年代ほどにみえる、華奢な少女に負けるとは思ってもみなかったのだ。

スタート直後の恐ろしいまでの加速。コースぎりぎりを走っているのに、安定するその走りに、ただの少女がこんな走りができるのかと目を見張った。

追いすがることすらできない、どんどん遠ざかっていく彼女の小さな背中に、もちろん悔しさは感じたが、けれどそれ以上に、ぞくぞくした。追いつきたいと思った。人よりずっと前を行く、あの立場になりたいと思った。

「なんでそんなに速いェんだ?」

不意にそう問えば、きょとんとした顔の彼女は、少し考えてから、当たり前のように「練習したから」と答えた。

「朝から晩まで練習したから。速くなりたいって、それだけ考えて。あ、この坂でタイム計ったときのベスト、知りたい?」
「……教えろッショ」
「7分12秒」
「はあァ!?うちの先輩たちだって、7分30秒はかかるんだぞ」
「だから、練習したんだってば」

そう言って苦笑する彼女が、嘘ついているようには見えない。インターハイ出場経験もある先輩たちが、7分後半で、ちなみに言えば、今の自分は9分台だ。

絶望的な差を感じて唇を噛めば、彼女は不意に、立ち尽くす巻島の隣に立って彼を見上げてきた。
改めてみても、小さく、華奢な体型だ。こんな少女に負けるのだから、自分には才能がないのかもしれない。いたたまれなくて、目を離す。すると彼女は、巻島の手を取り、ぐっと横に伸ばし始めた。

彼女が何をしているのか、図り切れずに狼狽えれば、不意に大きなめがこちらを捉え、楽しそうに三日月型に細められた。

「私より、ずっと長いね」
「当たり前ッショ。どんだけ身長差あると思って、」
「じゃあ、速くなれるよ。私より恵まれた体してるんだもん」

何を根拠に、と思うのだが、小さな彼女があれだけ走れる様を目の前で見せられたのだ。確かに、自分は彼女より手足が長く、男であるが故、筋肉も付きやすい。
練習次第でああなれるのか。彼女より、速くなれるのか。そう思ったら、ふつふつと向上心が生まれてきて、堪らなくなった。

そんな巻島の心情の変化に気が付いているのか、彼女はさらに言葉を畳み掛けてくる。

「それにね、君ののぼり、私は好きだよ。クセがあったって、自己流で一番速かったら、それって最高にカッコよくない?」

だから、胸を張っていい。好きに漕いで良い。それで速ければ、だれも文句など言わないのだから。
優しい声色でそう語られ、返す言葉に詰まったのは、そのくらい彼女の言葉が胸に響いたからだった。

速くなりたい。自分の走りを馬鹿にした誰よりも。フォームを直せと、強要してきた先輩たちよりも。
自分が平地で遅いのはわかっている。だったら、得意な山を極めればいい。山で負けなければ、認められるはずだ。

ああ、どうして彼女はこうも、人の気持ちを奮い立たせるのがうまいのだろう。
名前も知らないその人に、興味がわいて仕方がない。

「お前、何者ッショ」

言葉が足りないのは、許してほしい。けれど彼女は、言葉足らずな自分にちっとも怒る様子もなく、ただただ夏が似合う笑みを浮かべて、答えた。

「ただの自転車競技部マネージャー!」

どうやら彼女はしっかりしていそうで、どこか抜けているらしい。
普通、ここは自己紹介だろうと思ったのだが、マネージャーというその答えに妙に納得してしまい、肝心の名前を聞き返すことなど、完全に忘れてしまった。

どこのチームのマネージャーかは知らない。けれど、彼女がいるのだからきっといいチームに違いない。
名前も、歳も、何一つ知らない未知の存在だ。けれど、自分と彼女がこの世界にいる限り、どこかでまた出会える気がして、それでもいいかと、いつか来るであろう再開を願ってみたりした。



 
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