40:激坂日和



見上げるほどの急勾配。斜度20%を超えるこの道は、いわゆる「激坂」というやつだ。
常人なら、目の前に立ちふさがる坂を見ただけで自転車でのぼるなどという考えは一瞬だって浮かばないし、車でさえ、馬力に自信がなければ通ることを躊躇してしまうような道。

そんな激坂を前に、心を燃やし、挑みたがるのは、負けず嫌いの自転車乗りだ。急すぎるのぼりに徒歩に劣るスピードしか出なかろうが、脚に乳酸が溜まって痛みを覚えようが、それでも坂の頂点を目指して漕ぎ続ける。

そこにあるのはただ、自転車乗りとしての意地とプライドばかり。彼らは己の自己ベストを超えることしか頭にないのであった。


……そして、今その坂の前に立つ彼女もまた、久々に感じる激坂への高揚を感じながらそこを見上げていた。

しおりの実家に程近い場所にある高校前の激坂は、彼女が現役時代に使用していた練習場所だった。飽きもせずに毎日毎日、坂をのぼってはタイムの更新を目指したものだ。

その高校にも自転車競技部があったため、よく部員と鉢合わせしたが、彼らは中学生の、しかも女のしおりが飄々と坂をのぼっていく様を面白がって、練習に混ぜてくれたり、無言でレースが始めたりとと、何かと可愛がってくれていた。

人数は多くないが、部員たちは誰もが非常に練習熱心で、語りだすと止まらないくらいの自転車馬鹿たちが彼らだ。もちろん実力も確かで、今まで幾度となくインターハイ出場を果たしている、県内では有名な強豪校であった。

彼らの存在は、田舎町である地元市民の自慢であり、そして、自転車競技でインターハイ出場を目指す県内の小・中学生たちのあこがれでもあった。

ーー千葉県立総北高等学校。
それが、この高校の正式名称である。

自宅から近く、練習環境も十分。
もちろんしおりも、ゆくゆくは総北高校へ入るつもりでいたのだが、そうしなかったのは、もちろんあの事故のせいだった。

これまでのようにペダルを漕げないと宣言され、打ちひしがれた二年前。もう乗れないとわかっているのに、自転車で有名な高校になど、とてもじゃないが通えない。
逃げるように総北高校の受験をあきらめ、わざわざ県外の寮制高校に入学までして忘れようとしたのに、結局はそこで出会った自転車馬鹿たちにまんまとほだされ、また自転車の世界に舞い戻ってきてしまって今に至るのであった。

断ち切る覚悟だったのに。もう、一生乗らないと決心していたのに。

けれども今、彼女の傍らには、あの日捨ててしまおうとしたラピエールがある。あれだけのことがあったのに、それでもまだ自転車に乗っているだなんて。随分と図太い精神をしているらしい自分に、少しだけ苦笑した。

(どうせ立ち直れるなら、総北に入っても良かったのかな)

一瞬そんな思考が頭をかすめたが、いや、それはないとすぐに首を横に振った。

自慢ではないが、しおりは地元のロードレースを総なめにしている為、そこそこ名が知れていて、加えて例の事故の話を知っている者も少なくないのだ。

家でも、学校でも、皆は彼女を腫れ物にでも触るかのように扱って、優しく接してくる。事情を知っていて、なおも無神経に自転車をやろうなどと誘ってくる無神経は、ここには皆無であった。

けれど、しおりが入学した箱根学園の彼らは違った。事情を知ろうがどうしようが、彼らは人の迷惑も考えず、ただ強引に、まっすぐに攻め込んできた。

あんなに嫌がったのに、拒否したのに。あそこまで無神経に立ち入ってくるのは、全国どこを探したって、きっと彼らだけだ。だからこそ、心が揺れたのだ。やっぱり、箱学じゃなきゃ駄目なのだ。

乗り切れたのは、自分の力ではない。「彼ら」のおかげだ。彼らがいなければ、自分は今でも自転車嫌いな女の子を装って生きていたに違いない。

そんな彼らに、悔しいけれど、感謝していた。



……さて、昔を懐かしんで、感傷に浸っている場合ではない。自分はここに「のぼり」に来たのだ。

意識を坂の方に移し、前を見据える。久しぶりに見る馴染みの激坂は、いつ見ても圧巻の勾配で、思わずぶるりと、心が躍った。

箱根の山々もいいが、やはり地元の走り慣れた坂は格別だ。何度ものぼって、タイムを競った場所だけに、ただ目にしただけで、試したくなるのだ。

自分の実力がどのくらいなのか。
まだこの坂をのぼれるのか。
だとしたら、何分で登り切れるのか。

坂道は、ただでさえ脚に負担がかかるため、練習といえど、もちろん無理はできない。
わかっているのだけれど、それでもこの胸の高鳴りを自制できるかどうかは不明だった。

鮮明に思い出す頂上までの道のりを頭の中で思い描き、最短ルートでのコース取りをシュミレーションする。

(……よし、いける!)

ペダルをクリートにはめ込んで、前を向いた……――その瞬間。

しおりの隣を、異様な影が通り過ぎて行ったのが見えた。


 
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