38:走り続けてくれないか



安堵の表情を浮かべた彼女に、東堂も少しだけ、笑って見せる。背中に回されていた手が、するりと降りて来てしおりの手を握れば、その手は先ほどとは違った熱を持っていて。その熱さに彼女は、思わず顔を上げた。

「しおりは、走り続けるべきなのだ」

真剣な瞳に射抜かれて、声が出せない。
彼の表情があまりにも綺麗で、肯定も、否定の言葉だって吐き出させてはくれなかったのだ。
いつだって、そう。普段大口を開けて高笑いする東堂が、本気の視線を向けてくるのは、自転車が絡んでいる時だけだ。

クラスの女子たちは、おちゃらけて自分たちを口説く彼の姿を格好良いだ何だとと騒ぐが、彼女たちが今の彼を見たら、きっと卒倒してしまうことだろう。

教室では絶対に出すことのない、自転車への情熱に燃える双眼の色。見据えた視線の先にあるのは、何処まで行ったってレースのことばかりで、色気もへったくれもあったものではない。
けれど、引きしめられた唇が真一文字に噤まれた凛々しいその様は、まさに美形と呼ぶに相応しい容姿をしていて。しおりは知らず、顔が赤くなってくるのを止められなかった。

「これだけ人の心を動かすのだ、走るべきだ!たとえ結果が一番じゃなくとも、何なら最下位だっていい。てっぺんの景色なら、オレが見せてやる!だからオレは、レースで戦っているしおりが見たい。お前の隣を走りたい!!」

自転車熱に浮かされた男の熱は止まらない。ぐいぐいと、迫るようにしおりに近づいてきては、熱弁をふるってヒートアップして行く。
逃げようにも、両手はガッチリ彼に掴まれたままだ。これは宜しくない。彼は今、何も見えていない。

押し倒されるように布団の上にもつれ込んで、馬乗りされる。爛々と輝いている、自転車に夢中なその目が、盲目の証だ。
何を抗議しようと、どんなに反抗しようと、彼には聞こえない。彼女を説得しようと必死な彼の脚が、しおりの脚の間へ差し込まれた所で、彼女は急に、抗うのを止めた。

「これ以上したら、嫌いになるから」

その言葉に反応した様に、東堂の動きがピタリと止まる。
ハッと戻ってきた意識の中、眼下に見えるのは、彼の興奮の原因である、マネージャーその人の姿だった。

彼女が自転車のことを話す時の笑顔が何より好きで、そして自転車に乗っている彼女の楽しそうな姿に心酔した。だからこその提案をしていたつもりだったのに……これは。

自分を見上げるしおりの瞳には、非難の色と、多少の涙。目尻にじんわりと浮かんでいるそれに動揺して、彼女の上から飛びのけば、それでようやく上半身を起こした彼女が、はあ、と暗い息をつくのが見えた。

……やばい、嫌われる。いや。嫌われた。いま、彼女は嫌いと言った。

彼女が不貞行為に免疫がないのは分かっていたのに、やってしまった。
以前、冗談で彼女の頬にキスをしたら、容赦ない平手打ちの末、三日間口を聞いて貰えないということがあったのだ。
だのに、今度は押し倒しただなんて。

焦って言い訳をしようとするが、普段ポンポンと出てくる言葉の羅列が、この時に限っては上手く作用してくれない。支離滅裂で陳腐な言い訳ばかりが吐き出され、なおさら窮地に追い込まれているのが自分でもわかっていた。

もう一生口をきいてもらえないかもしれない。うろたえれて、涙目で謝罪を繰り返せば、彼女は赤く染めた頬を、ぷくりと膨らまし、ハの字に下がった眉が見える東堂の額を、指で軽くはじいた。

「てっぺんの前に、周り見なさいよ、ばか」

どうやら、彼女は先の東堂の行動がわざとではないと分かってくれているらしい。それでも、やはり押し倒されたことが恥ずかしかったらしく、そのあと直ぐにガバリと布団をかぶり、顔を隠してしまったのだが。

「しおり、」
「うるさい」
「すまなかった。でも、しおりに復帰してもらいたいのは本気なのだ。しおりの走りが刺激になって、オレはもっと速くなれる。もちろん、返事はすぐでなくとも良い。ゆっくり考えてくれ」

そうして、風邪薬を取ってくる、と、東堂が立ち上がり、ふすまを引いて部屋を出て行く音がした。
シンと静まり返った部屋の中。熱せられた布団の中から、もぞりと顔を出すと、部屋のどこを見て回っても彼の姿はなく、しおりは詰めていた息を大きく吐いて、天井を見つめた。

「復帰なんて、」

無理に決まっている。自分のポンコツの脚は、長距離で、長時間のレースには耐えられない。

(……けれど、一番じゃなくて良いならば?)

レースに出るのなら、優勝を狙うのは当たり前だと思っていた。それは、自分が今まで優勝しか経験していなかったからだ。けれど、今日自分は福富に初めて負けた。悔しいけれど、勝っても負けても、やっぱり自転車を漕ぐのは、楽しかった。

可能性を紡ぐ彼の言葉が、心の隅に引っかかって離れてくれない。
いいや、駄目だ。そんなことをしている場合ではない。本気のレースはこれっきり。走る前に、そう決めたのだ。

誘惑が気持ちを蝕んでしまわないように。この熱が、早く引いてくれるように。強く念じて、しおりは固く目を閉じた。


 
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