36:彼女を超えた日



目の前がぼやけていて見えない。
いくら自転車に乗り慣れているとはいえ、これでは危ないので、すぐさま脚とペダルを固定していたクリートを外して地に足を付けた。

止まった途端、夏の暑さと照りつける太陽が肌を焼く感覚が襲ってくる。思わずクラリと回る頭に耐えるように、しおりは地に顔を伏せた。

視界がにじんでいるのは、額から流れ落ちてくる大量の汗が目の中に入って来ているせいだ。そう言い聞かせて熱く痛む目を乱暴に擦るが、雫は次々と溢れて頬まで伝い、パタパタと乾いたアスファルトの上に落ち、色を変える。

胸が熱い。今にも焼き切れてしまいそうだ。ジッとしているとおかしくなりそうで、その苦しさを悲鳴で吐きだしてみようと試みると、過度な運動で切れた息の中、口から出たのは酷く情けない嗚咽だけだった。

心の中で色々な感情が入り混じって、自分を押し潰さんばかりに広がっていく。
感情が、このまま大きくなり続けたら破裂してしまうのではないかと怖くなって、耐えるようにラピエールのハンドルに額を押し付け、必死で息を吸い込んだ。

……負けた。自転車で。生まれて初めて、レースで負けた。
せっかく先輩たちが無理をしてまで引いてくれたのに、最高の舞台を作ってくれたのに。自分は、そのチャンスを生かすことができなかったのだ。

相手は未来のエース、福富だ。これだけの人数で向かっても勝てない相手が部内にいることは、自転車競技部にとって、何よりの財産だろう。

そんな相手と戦ったのだから、負けて当然と言えば、当然なのかもしれない。けれど、レースにおいての敗けを経験したことのないしおりにとって、生まれて初めて体験する敗北の味は、何も考えられなくなるくらいショックだった。

悔しさに、抱きこんだ自分の腕に爪を立てる。マネージャー業務の邪魔になるからと短く切りそろえてはいたが、あまりに力を込めたものだから、ギリギリと、肌に食い込んでは鋭い痕を残した。

……あと少し。あと1秒でも早くアタックを仕掛けていたら、もしかしたら勝てたのではないだろうか。
スタート直後、真っ先に先頭になど出ずに、最初からチームの後ろで力を温存していれば、もっとスタミナに余裕を持てたのでは。

考えたってもう遅い。けれど、考えずにはいられない。

ぐるぐる回る思考の中、さらに痛みがないと正常を保てないような気がして、肌に食い込ませた爪で肌をひっかこうとすれば、その手をぐいと掴まれ、強制的に止められてしまう。
見上げれば、そこには今しがた激戦を共にした福富の強張った表情があって。彼は、見降ろしたしおりの顔を見て、しばし迷ったように視線を泳がしたが、やがて決心した様に、細い彼女の体を、その腕でぎゅう、と抱いた。

「……泣くな、しおり。泣くな」

――泣くな、泣くな。
その言葉しか知らないオウムのように、何度も繰り返す無骨な声。慰めの言葉なんか知らない癖に、それでも必死になって、目の前で止めどなく涙を流す彼女の心を慰めようとしていた。

……そう、本当は知っていたのだ。
溢れてくるこの雫の正体が汗なんかじゃないってことくらい。

けれど、公式レースでも何でもない、ただの練習で負けたくらいで泣くなんて、酷く恥ずかしい気がして、だから何とか誤魔化したかったのだ。

背中に回された、福富の太い腕。その胸の中にすっぽりと抱きすくめられてしまう自分の小ささに、なおさら彼との距離を感じてポロリと涙がこぼれた。

物理的な距離ではない。これが男女の体のつくり故の埋められない差だ。
たとえどんなに鍛えようと、女の自分ではこうはなれない。追いつけない。たった2年でここまで成長できることを見せつけられては、もうどうあがいたってこの人と同じようには走れないのだと、認める他なかった。

「福ちゃん、強いね。もう、私じゃ勝てないや」

無理矢理に笑顔を作って、随分と上にある彼の顔を見上げてみせる。すると彼は、そんな強がりに気が付いているのか、やけに苦々しく表情を曇らせた後、彼を見上げていたしおりの頭ごと、自分の胸の中へと抱きこんでしまった。

彼から感じる、夏の匂いと、汗のにおい。押し当てられた耳からは、ドクドクと高鳴っている彼の鼓動の音が聞こえている。
体中に酸素を運ぶ、血液を押し出す力強い音は、まるで彼の強さを象徴しているようだ。
全てのものから守ってくれるような、その熱に、酷く安心してゆっくりと目をつむった。

箱根学園がこれからも王者たらしめるために、彼の存在は絶対不可欠である。
そんな彼にとって、この勝負は。自分の初めての敗北は。更なる成長の為の一戦になり得ただろうか。

負けは死ぬほど悔しいが、その彼の力になれたのなら、部の為に慣れたのなら、それだけで十分だと思える自分もいた。

「おめでとう福ちゃん」

胸の中、夢見心地で呟いた称賛は、彼に届いていたのだろうか。
言った瞬間、抱きしめる腕の力を込めてきた彼の熱さに、そっと体をゆだねた。


 
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -