35:咆哮が聞こえるか



進む、進む。
景色が、体が前に持って行かれる。
この熱気あふれるレースの中、自分は集団の先頭にいて、そして隣にはライバルの福富が並走している。

海沿いに続く、なだらかな一本道。朝日が広大な水面に反射して、波打つ度にキラキラと揺れるその様が酷く美しかった。

今の感情を一言で表せと言われれば、自分は迷うことなく『最高』と答えるだろう。そのくらい、走ることが楽しく、彼との勝負が、愛おしいと感じていた。

「福ちゃん、まさかこんなもんじゃないでしょ?もっとスピード上げるよ!」
「望むところだ」

挑むように投げかけた視線に、同じように返してくれるギラギラした瞳。それが酷く心地よくて、体の奥の方から湧きあがってくる興奮が抑えきれなかった。
ギアに指をかけ、いつでも変速できる様に準備をする。アタックの狙い目は、すぐそこの緩い上りのカーブだ。

直線と違い、先の見えないカーブの道は、どうしてもスピードが落ちがちになる。だから、そこを逆手に取るのだ。
曲がりに差し掛かった瞬間に勝負を仕掛けようと腰を浮かすと、突然、背後にいた集団の中ほどから自分を呼ぶ大声が上がり、しおりはハッと顔を後方へ向けた。

「佐藤!お前、エースが真っ先に飛び出してどうする!それじゃあゴール前でスタミナ切れだぞ。戻れ戻れ!」

そうして先頭まで上がってきたのは、一列に対陣を組んだ、先輩マネージャーたちだった。
彼らが指差している陣の一番後方。そこが、今日のエースであるしおりの本来の位置であった。
自分の役割は、ギリギリまで空気抵抗の少ないそこで守ってもらい、最後の直線で思い切り踏みこめるようにスタミナを温存することだ。忘れていたわけではない。
……ただ、福富との勝負に熱くなりすぎてうっかりしていただけ。

「ご、ごめんなさーい……」

申し訳なさげに謝り、大人しく後方に下がる。その様子を、勝負を前に寸止めを食らった福富が酷く恨めしそうな眼をして見ていたが、そんな彼に、しおりには肩をすくめて返すことしかできなかった。
いくら互いに楽しみにしていたレースだったとはいえ、勝つのは先にゴールラインを通過した方なのだ。実力差がありすぎる自分たちがまっとうな勝負をする為には、今ここで張りあうべきではない。

不完全燃焼の心がやけにむず痒い。風よけ代わりのチームメイトの後ろに納まると、小さく息をついて、彼らの背中だけを見つめた。

さあ、これで福富の横を走るのはマネージャーチームの先頭を走る先輩になる。ピタリと横に張り付き、並走する彼らに、表情にこそ出さないものの、福富もまた多少の落胆を感じていた。
どうやら、彼女との勝負の機会は、当分先の事になってしまったらしい。名残惜しそうに、変速ギアから指を離した福富に、先輩が不服そうにフン、と鼻を鳴らした。

「福富、忘れているようだが、俺たちは5人チームだ。比べてお前は、単独走行。これがどういうことだか、わかるか?」
「圧倒的に不利ですね」
「そうだ!単純計算で、俺たちは2.5キロを全力疾走すればいい所を、お前はたった独りで10キロ走らなければならない!だからな!」

ガチン、とギアが切り替わる音がする。途端、ぐんと上がったスピードに、福富の反応が、一瞬だけ遅れた。

「気抜いてると、食われるぜ!」

その言葉とともに、マネージャーチームがひとつ抜きに出る。序盤だというのにかなりのスピードを出してくるのは、やはりチーム戦だという心理が強いからだろう。
確かに、現役選手と引退選手では実力があるとはいえど、相手は全員経験者だ。これで1対5は、少々過酷すぎる。
通常の精神であれば、この不利的状況と、責め立てられる圧力で諦めてチギられるのが普通だ。

ただし、そこは未来のエース、福富寿一である。一度は引き剥がされそうになった先頭との距離をあっという間に縮め、ゲームを振り出しへと戻してきた。

「やるじゃん」

アタックを潰されたというのに口端を上げた先輩は、酷く愉快そうだ。
次こそは、と手を変え品を変え、引き剥がしにかかる先輩たちのアタックに、福富も負けずと食らいついて応戦する。

そうやって楽しげに戦う男たちの戦いを傍観しながら、そこに参加することのできないしおりは、羨ましげな視線を彼らの背中に投げてから、ぐるりと自分の後方に目を向けてみた。

どうやらレースに参加していた他の部員たちの姿は、早々に遥か遠くへ置き去りにしてきてしまったらしい。先頭争いは、マネージャーチームと、福富の一騎打ちで決まりのようだった。


勝負が白熱して行くにつれ、スピードもどんどん上がっていく。
その速さに振り落とされないように、慎重に彼らの作り上げるレールの上を走っていると、列の最後尾にいるからか、周りの様子がだんだんとはっきりと見えてきた。

わかるのだ。
淡々とペダルを回しているように見える福富が、本当はどれほど苦戦を強いられているのか。そして、自分のチームメイトが今、どんな状況にあるのかも。

……例えば、マネージャーチームの2年の先輩たちの足はもう限界だ。
口には出さないが、少しだけフォームが乱れている。1人は右ひざを、1人は左の太ももの辺りを庇いながら回しているように見えた。そういえば、彼らは二人とも怪我で引退を余儀なくされた選手だった。
苦しい状況の時、不安要素が頭を一度でも駆け抜けて行くと、なかなかそれが消えてくれないものだ。その苦しみと、彼らは今戦っている。

ここで彼らの心が折れてしまえば、マネージャーチームは勝てないのだ。頑張れと、声を張り上げて応援することしかできなかった。


……例えば、3年の先輩たちはこれ以上スピードを上げることができない。
彼らは怪我原因での引退ではなかったものの、マネージャーに転向したのは1年の時らしい。つまり、2年間のブランクがあるのだ。

肺活量、筋肉量、どれをとっても現役時代より衰えていることは明らかだ。彼らの息使いの中に、気管がヒュウヒュウと苦しげに鳴っている音が聞こえ、これ以上の無理は危険だと、すぐに分かった。


コースは丁度、急カーブを超えた先でゴールまでが直線になる位置である。昨日、一昨日と同じコースを走っているため、目立つ景色は覚えているのだ。
ゴールまでの距離にして、ザッと500メートルほど。1人当たりのノルマが2.5キロの所を、彼らはペースオーバーしてまでも、自分を引いてきてくれた。

「先輩!」

――この先の直線で、勝負だ。
前に叫んで自分が出ることを提示すれば、彼らは汗だくの顔をこちらへ向け、もう少し引きたかった、と言いたげな悔しげな表情を見せると、それでも力強く、頷いて見せた。

急カーブに、グッと体を内側に倒してインコースを取る。
車体が当たるギリギリの位置で曲がり切れば、福富が一瞬ぎょっとしたような表情をしたが、ついに本命であるしおりが上がってきたことと、彼女の昔と変わらない強気な走りに火が付いたらしい。
5人相手の激走で酷く疲弊しているだろうに、さらにギアを重くして、スピードを上げるつもりのようだった。

……だったら、そのスピード勝負、受けて立つしかない。

「いっけー!!!」

チームメイトの声援を背に、白と黒の車体がふたつ、前に出た。
残り400メートル。勝つのは、怪我と2年のブランクを併せ持つ自分か、全力走行の複数人相手に疲労している福富か。勝負の行方は、漕いでいる本人たちすら分からない。


――ただがむしゃらにペダルを踏んだ。

距離は開かない。一進一退の激走だった。
呼吸が苦しい。ゴール前の最終スプリントは、やっぱりいつだって気を失ってしまいそうなくらい辛くて、けれど、全身に鳥肌が立つほど、酷く興奮した。

もっと速く。福富を、抜き切ってしまえるくらいに。
もっと速く。このラピエールが、また一番乗りでゴールラインを切れるように。

残り100メートルで、景色から色が消え失せた。
モノクロのレトロな視界の中、見えているのは単一色になってしまった海と空。それから、まっすぐに伸びる、ゴールの直線だけだ。

次いで、音もしなくなる。自分が息をしているのかすら分からない。苦しいという感覚さえ忘れ果て、真っ白なゴールテープのことだけを考えていた。

「       !!!!」

叫んだはずの声も、もう聞こえない。

くらりと揺れる視界の中、最後に見たのは、滅多に感情を表さない彼が、両手をいっぱいに広げて吠える、勝利の叫びだけだった。


 
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