33:エースマネージャー



真っ白なサイクルジャージに袖を通す。
前開きになっているファスナーを上までキッチリとあげれば、締め付けられる体に、心も引き締まるような感覚がした。

始まる、一日が。
そして、最後のレースが。

一日目、二日目に感じたのとは違う緊張感に深呼吸をして気を落ちつけようと努めるが、昂ったこの感情にはどうにも効果がないらしく、ほんの数回で諦めた。

湧きあがる高揚は、また自転車に乗れるという幸福の表れだ。手が震えているのだって、今から始まる真剣勝負への武者震いだ。

この勝負の瞬間を待ちわびていたのは、なにも福富だけではない。一度は怪我で全てを諦めたが、自分だって、この日を何度も夢見て来たのだ。

部屋を出て、食堂に向かう。
朝食が終わったばかりの時間帯で、他の部員はもちろんいない。きっと今頃は、膨れた腹をゆっくりと休める為に部屋でのんびりしているのだろう。

しかし、彼らを支えるのが仕事であるマネージャーはそうはいかない。合宿中、朝食終わりのこの空き時間に、その日一日の予定をミーティングするのが通例になっているのだ。

しおりが食堂に着くと、やはり今日も彼女が一番乗りのようだった。出迎えてくれた誰もいないガランとした空間が、ただでさえ澄み渡っている神経をさらに研ぎ澄ましてくれるような気がした。

……このミーティングがなければ、たぶん、自分は今すぐロードバイクに飛び乗って走り出していることだろう。

真っ青な真夏の空の下を、あてもなく、ゴールも定めず、ただひたすらに漕いで、漕いで、走り出していく。
スタミナ配分だって考えない。ただ、いま自分にできる全力を以てしてペダルを踏み込み、進みたいのだ。

仮にも、練習内容のマネージメントをする自分がそんな無茶苦茶なことを考えてはいけないのはわかっている。だが、そうやって今にも溢れだしてしまいそうなこの感情をどうにかしないと、自我が保てない気がするのだ。

レースの感覚が、蘇ってくる。
ペダルの重さが。焼き切れそうな呼吸が。先頭に出た時の、開けた景色が。
全てが懐かしくて、愛おしい。あの興奮を早く感じたくて、今にも手足が勝手に動き出してしまいそうになるのを、少しばかり残っている理性でぐっと堪えた。

――落ちつけ。自分がここにいるのは、あくまで選手である部員たちのサポートであり、自分が走る為ではない。

そう言い聞かせ、鳴りやまない心臓が居る胸の左側を、手のひらで強く押す。深く、吐きだした息が、震えているのを感じていた。

丁度その時、食堂に入ってこようとする人の気配がした気がして、しおりはそちらを振り返った。
扉の方には、誰もいない。しかし、その数秒後、固く閉じていた食堂の扉が、ギィ、と開いてそこから他のマネージャーたちがひょっこりと顔をだした。

彼女の存在に気が付き、気さくに手を振ってくれる彼ら。その視線ががしおりの顔に移った瞬間、彼らの目が大きく見開かれたのが見えた。

「……ずいぶん気合入ってるな」
「え?いつもと同じだと思うんですけど」

開口一番言い放たれた言葉に、思わず着ていたサイクルジャージの裾を引っ張ってみる。シンプルな柄のそれに、別段おかしいところは見受けられない。それとも自分で気が付いていないだけで、背中にでも変な模様が入っていたりするのだろうか。首をひねれば、先輩は「違う、違う」と苦笑して、しおりの顔をまじまじと覗きこんだ。

「雰囲気がさ、闘争心むき出しで、こう……ビリビリ来る。今日の特別メニュー、そんなに楽しみ?」

図星を突かれると、しおりはパッと頬を染めて、視線を宙に向けた。
……どうしてだろう。何も言っていないのに、バレてしまった。

それくらい。傍目で見ても分かるくらい、今の自分は舞い上がっているのだ。おずおずと先輩たちに目を戻せば、彼らは何かを期待するような表情をして、しおりの言葉を待っていた。

もしここで、彼らに自分と福富の勝負の話などをしたら、浮かれるなと叱られるだろうか。
勝てるわけないと、笑われるだろうか。

けれど、いずれは言わなければならないことだ。思い切りペダルを踏めない自分は、彼らの協力なしに、福富と真剣勝負など出来はしないのだから。

「お願いが、あるんです」

ぐっと、張り詰めた声で、それだけ声に出す。すると、しおりの緊張した声につられたのか、それまで和やかだった場の雰囲気が、一気に真剣なものに変わった気がした。
しまった、この出だしは失敗だったのかもしれない。けれど、もう後にも戻れない。
大きく息を吸って、勢いのままに、しおりは叫ぶような声で言った。

「っ今日の特別メニュー、私をエースとして使って頂けないでしょうか!」

ビリビリと、食堂の空気が揺れた。鼓膜にまでダメージを与えるようなその声に、先輩たちが面食らった顔をして、茫然と彼女を見下ろしていた。

「佐藤がエース、か……」
「はい。どうしても今日、やりたいんです」

我儘を言っているのは分かっている。即興のチームとはいえ、ちゃんと個々の個人データの元に役割を決めたのだ。
しおりが序盤のレースを引っ張ることで他の部員たちに差を付け、その勢いで先輩マネージャーたちが逃げ切る。その作戦で今まで上手くいっていたのに、それが今日の今日で、いきなりエースをやらせろなんて、虫がよすぎるだろう。

けれど今日は、そのレースに福富がいる。
体力も、実力だって、福富の方がずっと上だ。しおりが序盤でどれだけ差をつけようが、勝つのは先にゴールした方だ。だから、自分はこのレースを、エースとして他の選手に引いて貰わなければならないのだ。
誰よりも早く、あの真っ白なゴールラインを踏むために。

――彼との最後の決着を、つけるために。

しおりの気迫に、その場にいる誰もが息をのむ。
ここにいるマネージャーたちは、個々の理由で引退はしたが、誰もが王者箱根学園の歴代の化け物たちを見て来たのだ。
自転車競技の名門である箱根学園で、さらに選ばれ抜かれた彼らが、揃って持っていたのは、レースへの執着。勝利への貪欲。
そして、場の空気を呑みこむほどの気迫だ。

今、自分たちが目の前にしている少女が放つそれは、確かに怪物たちの持っていたそれだった。
マネージャーだから、負けてもいい。微かに持っていた、自分たちのそんな甘えを吹き飛ばすような強い瞳は、引退を機に諦めていた勝ちへの渇望をむくむくと湧きあがらせるような色をしていた。

「じゃあ、いっちょ暴れるか!頼むぜ、エースマネージャー!」
「はい!」

響いた声が、食堂の壁に反響する。心地良いその響きと、嬉しそうな彼女の顔に、誰もが今日の勝利を願ってやまなかった。



 
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