32:決戦前夜



このトラウマは、自分の生き方を変えてしまうくらいの大事故によるものなのだ。一日二日でどうにもならないことは自分が一番よくわかっている。

自分にできることと言えば、出来るのは、我慢して我慢して、あの孤独の闇を耐えることだけ。その経過で多少なりとも泣いてしまうのは、仕方のないことなのだ。それを馬鹿正直に伝えれば、手首を握る福富の指に、少しだけ力が入ったのを感じた。

「だから引きとめているんだ。オレたちはお前が泣くところを見るのも、想像するのも耐えられない。とにかく、合宿中の宿泊については主将にも確認を取っているから、折れてはくれないか?」

……そんなの、嘘だ。
瞬間的にそう思って、しおりは福富に鋭く視線を飛ばした。

普段、嘘や冗談を言わない福富だが、これはあまりにも分かりやす過ぎる。だって、仮にも強豪校の主将が、誰にでもわかるような非常識な行為に自らゴーサインを出す訳がないのだ。

見え透いた嘘に乗って、部を危険にさらすくらいなら、独りで泣いたほうがずっとマシだ。福富を振りほどこうともがいていると、どうしても折れないしおりに呆れたのか、そばで黙って立っていた東堂がひょこりと顔を出し、しおりの正面へと回った。

じっと、顔を覗きこまれる。彼の大きな黒い瞳に映っているのは、きっと両眼に涙をいっぱいに溜めた自分の情けない姿だ。
これだけ虚勢を張っているのに、内心は不安でいっぱいで、そんな気持ちを気取られないように、ぎゅっと眉をひそめ目をそらすと、東堂はそれ以上視線の行方を追いかけて来ようとはしなかった。

『頑固な奴だ』と、彼の目がそう語っているような気がする。きっと、面倒くさいとも思われている。

けれど、彼らはいつだって、こんな面倒な自分を突き離したりしないのだ。すくい上げて、手を引いて、元の位置まで戻してくれるのだ。

東堂も、どうしたものかと頬を掻いてはいたものの、ひとつ軽いため息をつくと、まるでひとり言のようにポツリと語り始めた。

「まあ、確かに直接了承を得たわけではないがね。だが、主将が許しを出したと断定できる発言をしていたのをしおりも聞いているはずだ」
「……どういうこと?」

含んだ言い方の東堂に、思わず視線を戻して尋ね返せば、彼は食いついてきた魚にニヤリと笑うと、得意げな顔でズイと顔を近付けて来た。

「しおりが言っていたのではないか。主将に、恋人の有無を聞かれたのだろう?あれは何故だと思う」
「ええと……罰ゲーム?」
「そんなわけがあるか。よく考えろ」
「ど、度胸試し!」
「よーし、もういい!」

駄目だコイツ、という視線が痛くてしおりは肩をすくめる。だって、本当にわからないのだ。
答えを求めて目の前の東堂を見れば、彼は軽く息をついて、少しだけ乱れた前髪をいつものカチューシャで止め直し、またしおりに視線を戻した。

「もし、しおりに意中の相手がいれば、流石にオレたちだって部屋に呼んだりしないさ」
「どうして?」
「そんなことをすれば、彼氏に申し訳が立たないからだ」

言われてみれば、それもそうだ。自分の彼女が、他の男と一緒に寝泊まりするのを良く思う彼氏などいない。それどころか、いくらマネージャーとはいえ、男ばかりの空間に彼女がいることさえ嫌う者も多いだろう。

……しかし、幸いしおりには特定の相手はいなかったわけで。

それを知った主将が、だったらここは一年たちに任せて、もし何かあればしおりから直接異議申し立てをしてもらおうとしたのだ。

どうだオレの素晴らしい推理力は!と自慢げに語る、これが東堂の意見だった。

確かに、筋道は通っている。けれど、少し解釈が無理やりすぎやしないだろうか。
しおりが主将と話した内容だけなら、まだ本当に罰ゲームや度胸試しだった可能性だって拭い切れない。そう指摘すれば、今度は背後から福富が、加勢するように畳みかけてきた。

「しおり、お前、今夜から先輩方がインターハイの会議をするから見回りがなくなるというのは知っているか」
「え!?そんなの初耳だよ、じゃあ私も行かないと!」
「いや、行く必要はない。これがお前の宿泊に関する問いへの、主将の答えなんだ」

彼は、しおりが男子部屋に泊まることを直接了承はしてくれなかったが、予定にない会議をわざわざ作って『見回りはしないから、お前らだけでうまくやれ』と逃げ道を作ってくれたのだという。

確かに、もし本当に会議を計画していたのであれば、練習内容の作成や、レースの作戦立てに欠かせない存在になってきているしおりを呼ばないはずがないのだ。


言われれば、言われる程、素直に納得してしまう自分がいる。
幾重にも張られた伏線と、それを解き明かした先にある解答。それこそが、福富達がしおりを拉致監禁するに至らせた原動力であるらしい。

……嗚呼。なんて回りくどくて、わかりにくいのだろう。

これから独りで夜を越えなければならないと強張っていた心が、ジンと温かくなる感覚に見舞われて、酷く胸が苦しかった。

「皆しおりちゃんが大切なんだ。なあ、これだけ想われてるのに、それでも帰って泣く方が良い?」

優しく諭すような新開の声。
そんなわけない。誰だって、恐怖を抱いたままジッと朝を待つより、安心して眠る方が良いに決まっている。声を出したら目から雫が零れてしまいそうで、無言で首を横に振ると、しおりを引きとめようと必死だった四人の空気が、途端にふわりと柔らかいものに変わったような気がして、その安堵感に余計に泣いてしまいそうになった。

福富が、握っていた手首から力を抜いて彼女を開放する。もう逃げないと判断したのだろう。案の定、大人しくなった彼女は、自由になった手で誤魔化すように涙をぬぐうと、いつもの調子で、笑顔を作って見せた。

「じゃあ、この合宿だけ。今回だけ、ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします!」

深々とお辞儀した彼女に、男たちは顔を見合わせ、「任しとけ!」と笑った。










**********







豆電球のオレンジ色に照らされた、天井の染みを数えていた。
いつもなら、この程度の暗ささえ恐怖の対象だ。けれど、聞こえてくる静かな数個の寝息の存在が、しおりの恐怖概念を払拭してくれていた。

部屋の中心に敷かれているのが、自分の敷き布団だ。それをぐるりと囲むように床に着いた男たちの寝顔は、全てこちらを向いていて、まるで寝ていても自分を守ってくれているような気がして、酷く心強かった。

本当に優しい人たちなのだ。いつも助けられてばかりなのだ。

自分は彼らに、一体どんな恩返しができるのだろうか。
そんなことを考えていたら、疲れているのに、目が冴えて来てしまって、それで仕方なく天井にある染みの数を指折っていたのだった。

「……しおり、寝れないのか」

突然、頭上から声をかけられてドキリとすれば、見上げたそこにはしおりの頭側に布団を敷いて陣取っていた福富がいて、彼女は「えへへ」と誤魔化すように笑って見せた。

「そういう福ちゃんこそ、眠れないの?」
「明日のことを考えたら、少し高ぶってしまってな」
「明日?」
「ああ、明日が最後だからな」

その答えを聞いて、しおりも静かに頷いた。
三泊四日の夏合宿は、三日目までが練習期間で、四日目は少しのミーティングと、帰宅だけというスケジュールになっているのだ。だから、実際に部員がメニューをこなすのは明日で最後。

……そして、特別メニューでマネージャー陣と走るチャンスも、これで最後である。

彼は何も言わないが、きっと明日、特別メニューに挑戦しにくるのだろう。この二年間、彼がずっと自分と勝負をしたがっていたことは、新開から聞いていたから。

怪我で引退した自分と、今も現役の福富では、一対一での勝敗など目に見えている。
けれど、五対一ならどうだろう。

来年も同じ合宿メニューを組めるとは限らない。むしろ、来年はきっと来年用のメニューを組み直すだろう。彼と真剣勝負出来る機会など、もうこれが最後だ。

不意に訪れた、無言の空間。
けれど自分の頭上では、静かに燃える闘争心の音がする。
走りたい。競い合いたい。そんな気持ちがガンガン伝わってくる、酷く心地のいい音だった。

「次は負けない」
「……私だって、譲らないよ」

遠い昔に交わした会話の続きをなぞるように、二人は宣戦布告しあう。
明日、決着が着くのだ。二年前から途切れていた、彼との勝負の決着が。

そう思ったら自分も何だかドキドキしてしまって、久々に感じる緊張感に、黙って目をつむることしかできなかった。


 
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