31:有為なる誘拐



主将に呼び止められて振り返ったのは、その日のマネージャー業務が終わった、午後十一時の事だった。
今頃、他の皆は寝ているか、風呂に入っているであろう頃合いである。そしてそれは、もちろん早々に練習を終わらせて旅館へと戻った三年の先輩たちも同じこと。

こんな時間に、まだ休んでいないだなんて、何か問題でもあったのかと慌てて彼にかけよれば、主将は「違う、違う」と苦笑いで首を横に振った。

大きな体を少しだけかがませて、秘密話をする時のように口元を隠してちょいちょいと手招きをする。
耳を貸せ、ということだろうか。大人しく近寄れば、見た目に相応する低く男らしい声が囁いてきた。

「……お前、恋人はいるのか」

その質問に、しおりは思わず固まってしまう。
箱学自転車競技部の現主将と言えば、自転車命で、日々鍛錬が合言葉。練習の雑念になるからと、高校での三年間、一切の浮いた話を作らなかったという噂さえ聞いていた、筋金入りの硬派である。
なのに、まさかその主将が合宿中にそんな話を振ってくるなんて。そんな予想は、これっぽっちだっていなかったのだ。

……罰ゲームか何かの一環だろうか。
それにしたって、趣味が悪い。いぶかしんで主将の顔を見上げれば、てっきり悪戯に表情を緩ませていると思っていた彼の表情は思いのほか真剣で。つい、こちらの方が戸惑ってしまった。

インターハイ直前の合宿中。
色恋沙汰の話などをするより、レースに向けてのコミュニケートを行う方がずっと有益だし、主将だって分かっているはずだ。
けれど、いつも堂々たる彼の、妙に強張った表情を見てしまったら、ここで適当にあしらうのは何だか悪い気がして、「いないです」と素直に答えた。

途端、主将はホッとしたような表情を見せ、やっと不器用に笑みを作って見せる。しおりが口にしたそのたった一言で心のわだかまりはなくなったのか、彼はいつもの朗々たる声で「そうか、そうか!」なんてしおりの頭をぐりぐりと撫で、顔をほころばせていた。

彼氏どころか気になる異性の一人もいないなんて、青春真っ盛りの女子高生として悲しむべきなのだろう。実際、しおりも恋人がいないことを他人に手放しに喜ばれているこの状況は、微妙な心境だった。

けれど、まあ。相手が喜んでいるなら、それでいいか。髪をわしゃわしゃと大きな手で撫でくり回されながら、しおりも笑みをこぼして見せた。

……無遠慮な、ゴツゴツした手だ。
しおりは、されるがままになりながら思う。この人は、自分を女の子扱いではなく、他の一年と同じく部活の後輩として可愛がってくれるから好きだ。一年の親しい同期からもされたことのないような乱暴なもてなしで、けれどちゃんと、その裏にある愛情が伝わってくるのもわかる。

そうしてしばらくすると、主将は不意にしおりの髪から手を離し、今度は優しく、ポンと叩く。もう良いのだろうか。顔を上げれば、強面な主将は、優しげな声色で、最後にもう一言だけ付けくわえて、言った。

「いいか、合宿中、あいつらにいじめられたらすぐに俺に言うんだぞ」
「え?」
「話はそれだけだ。それじゃあ、おやすみ」
「お、おやすみなさい」

明瞭な答えもださず、颯爽と去っていってしまう主将の姿を、しおりはただ、ぽかんと見送る。

あいつらとは誰なのか。
自分はいじめにあう予定があるのか。今の会話だけでは、事情も何も分からない。

ただ、腹の中で、嫌な予感だけがぐるぐると回っているのだけはしっかりと感じ取れる。今日から、一人で夜を越えなければならないというのに、これ以上の不安要素は勘弁願いたい。
主将の意思に触れたくて、彼の乱した髪をそっと指先で直した。






**********






「……ってことが、ついさっきあったんだけど、私、さっそく主将に電話してもいいかな?いいよね?」
「しおり、待て。落ち着け」
「落ち着いていられるわけないでしょ!」

目の前にいる男たちを睨みつければ、彼らは罰の悪そうな顔をして、自分から目をそらした。

……ここは、男子部屋の一角にある、福富と荒北の部屋だ。
しおりが今朝を迎え、そしてもう来ないと誓った一室である。だのに、どうして今彼女がここにいるかと言えば、目の前にいる彼らに拉致されたからに他ならなかった。

「信じられない、あんな目立つところで!」
「でも、部員には多分見られていないぞ。担いだ時、パンツくらいは見られたかもしれないけど」

悪だくみが成功して上機嫌らしい新開の軽口に、近くにあった枕を投げつけてやれば、彼はそれをいとも簡単にキャッチして、クッション代わりに自分の腕の中へと抱きこんでしまった。

……腹が立つ。
唇を噛んだのは、枕投げで彼にダメージを与えられなかったからでなはい。いや、厳密にいえば。それもあるが。

けれど一番の理由は、自分を拉致してここに連れて来た張本人が新開だったからだ。



女湯のえんじ色の暖簾を出た瞬間。
目が合った彼は、大きな手をこちらへにゅっと伸ばして、しおりの体を引き寄せると、まるで荷物でも持ち上げるかのようにいとも簡単に担ぎあげた。
そうして一目散に駆けだすと、まっすぐとこの部屋へ向かい、今しおりが座っているこの部屋の中央に、やっぱり荷物を下ろすように、彼女を解放したのだった。

普通ならば、ここで息のひとつやふたつ、切らせているだろう。だって、いくら女子だと言っても、細かい数字には出せないが、確実に数十キロの重みがあるのだ。
なのに、彼はといえば、その息ひとつ切らさず、年頃の娘を抱き上げたことへの感想もなく、こうやって飄々と軽口など叩いて来るのであった。それが、気に食わない。

まるで空気を持ちあげたとでもいうかのようなその態度。下着がどうこう言うくらいなら、重かったなり、何なりの感想が合った方が、まだマシだった。

(人前での恥さらしなんて、絶対に、主将に言い付けてやる……!)

固い決心を胸に、片手に握りしめた携帯から主将の番号を探しだす。受話器ボタンで呼び出そうとすると、寸でのところでそれを東堂にするりと取られ、二つ折りのそれをパクンと閉じられてしまった。

何をするのか。文句を言おうと振り返れば、彼は意地悪するでもなく、畳んだそれをしおりに差し出し、返してくる。思わず受け取れば、携帯の背に付いたデジタル時計が、すでに真夜中を回っていることを知らせていた。

「こんな時間に掛けては、主将とて迷惑だろう」

いつになくまともなことを言っている東堂に、怒りで我を忘れていたしおりも、流石に言い返す言葉に詰まる。

確かに、いくら何かあればすぐ連絡しろと言われているとはいえ、同期間での些細なもめ事の為に、主将を巻き込むのは得策ではない。
電話するのは控えるが、それでもやっぱり、現在進行形で被害を受けているのはこちらである故、どうにもこうにも、腑に落ちはしなかった。

「はあ……」

口から出るのは、ため息ばかりだ。
ここまでくれば、彼らがどんな目的で自分をこの部屋に連れて来たか。そんなのは、彼らにこの部屋に連れて来られた時点で、容易に想像がついていた。

つまり、彼らは自分に暗所と閉所で一人になることについてのトラウマがあることを心配して、今夜も一緒に寝てくれようというのだろう。
その為に、一人の所を狙って、拉致・軟禁のこの仕打ちだ。全く、容赦ないにもほどがある。

別に、気持ちは嬉しくないわけではないのだ。事故から何年経ったって、自分はまだ闇が怖い。狭い空間に独りになると、息苦しくなって冷や汗が出る。合宿での一人部屋が精神的にキツいのだって、本音である。

けれど、前日にも決意した様に、自分が男子部屋に泊まるということ自体が問題であるし、何より、合宿の夜を独りで乗り切ると決めたのだ。

箱根学園自転車競技部の合宿は年に一度だけではない。長期休み、大型連休に行われる泊まり込み出の練習の度に誰かと一緒に寝てもらう、なんてそんな迷惑なこと、出来るはずがないのだから。

(これからは、合宿の時の対処法もちゃんと考えなきゃ)

彼らに甘えないように。心配をかけないように。

とにかく帰ろうとしおりが立ち上がれば、出入り口付近に座って様子をうかがっていた荒北も一緒に立ちあがったのが見えて、しおりは今この場の最大の敵が彼だということを瞬時に理解した。

けだるそうな、でもまっすぐに自分だけを見つめてくる瞳に、しおりも逸らさず真っ向から向き合った。

「……どいてくれる?」
「ダァメ。オレたちがどんだけ苦労して計画たてたと思ってんの」
「そんなの、私頼んでない」

部屋を出ようと、彼の横を通り過ぎようとした瞬間、自分を捉えようと触れて来た手首の感触に、しおりは思わずそれを振り払った。
昨夜は支えて、抱きしめてくれた優しい腕だ。今夜も差し伸べてくれるその手を、自分は自ら拒絶しようとしている。

……なんて恩知らずな女だろう。それに、ちっとも可愛くない。

そのまま部屋を飛び出そうとすれば、今度は開きかけた襖のヘリを抑えられ、出られないようにされてしまった。そうなってしまえば、もう意地だ。開かない襖をそれでも無理矢理こじ開けようとガタガタさせれば、今度は福富に後ろからその手首を掴まれ、暴れないように拘束されてしまった。

「やだ、離して!帰るってば!」
「しおり」
「独りでも大丈夫だから、皆が心配することなんて何もないから、だからっ……!」
「……帰ったら、今よりずっと泣くんだろう?」
「っ……泣いてなんかない!」

今はまだ、泣きそうなだけだ。けれど、一人の部屋に帰っても泣かないかと言えば、キッパリ肯定し切ることは出来そうにはなかった。




 
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