29:六度五分の温かさ



ふわりと浮上した意識に、しおりは目を覚ました。
見慣れない部屋の、見慣れない天井。障子戸の奥にある空が少しだけ白んでいるのが目に入り、まだ夜が明けてからさほど時間が経っていないことを知った。

早起きに慣れてしまうと、どんなに遅く寝ようと、体が勝手にその時間に起きてくれるようになる。これのお陰で、目覚ましアラームをかけ忘れても、毎日同じ時間に起きられるのだ。全く、体内時計様様である。

……さあ、今日も一日頑張らなくては。
意気込んで起き上がろうとすると、体の上に何かが乗っていて、身動きが取れないことに気がついた。顔を上げると、自分のすぐ目の前に見覚えのある人物の寝顔があって、しおりは思わず息を詰まらせた。

――荒北靖友。
口が悪くて、どうにも喧嘩っ早い。けれども困っている人がいれば放っておけないお人よしだ。

かく言う自分も、昨晩、そのお人よしの前でみっともなくもすがった一人だった。
一人が怖いと。闇が怖いと、彼に話して泣いたから。だからこうして、一緒にいてくれたのだろうか。

実は、合宿前に部屋割りを決める時点で、自分が一人部屋だと知っていた為、この三日間は寝られないと覚悟していたのだ。
寝不足だろうが、体調不良だろうが、絶対乗りきって部員達を支えて見せる。

そんな決意すら持って臨んでいたのに、彼のお陰でこうしてぐっすり眠って今日も元気だ。
いつも眉間に寄せているしわが消え、穏やかな表情をしている荒北の寝顔に、しおりはふっと笑みをこぼした。

……そういえば、重いと思ったのは、その彼の腕が体の上に乗っていたからだった。
寝相のせいでそうなったのか、最初からこういう状況だったのかはわからない。

どうにか逃れようともぞもぞ動けば、抱き枕が動いたのが気に食わなかったのか、彼が不服そうな声を漏らして顔をゆがめたのが目に入った。

(ああ、起きる)

自分に付き合って遅くまで起きていた彼の睡眠時間は、きっと他の部員よりもずっと短い。起こしてしまうのが忍びなくてなるべくそっと腕をどかそうとすると、彼の長い腕はどうしてかしおりの腰に回され、そのままぎゅう、と彼の胸の中に抱きこまれてしまった。

昨晩自分を慰めるために抱きしめてくれた時と同じ、三十六度五分の温かさ。一定のリズムで刻まれる心臓の音に、酷く安心感を覚えて、また目をつむってしまいそうになる欲に駆られたが、今は二度寝などしてる場合ではないのだ。
そう思い立って、気持ちを覚醒させるために軽く首を振った。

朝の時間は、短い。
マネージャーとして、涼しいうちからガンガン洗濯機を回して、ドリンク用の氷も準備しておく必要がある。それに、特別メニューのレース用に自転車に乗って体を慣らしておかないと。

気持ち良さそうに寝ている荒北には申し訳ないが、抱きこまれたこの状態で、彼を起こさず抜け出るなんて到底無理だ。
離してもらおうと腕を軽く叩いて呼びかけると、やっと目を覚ました荒北は、まだ眠そうな声を上げながらこちらを睨むように見てきた。

「あ……?んだよ……まだ暗ぇじゃねえか」
「おはよう、起こしてごめんね。私もう起きなきゃだから、腕どかしてもらえる?」
「……」
「聞いてる?」

言った瞬間、彼は状況を把握したのか、眠そうに細めていた目を見開いて、すごい勢いでバッと手を退けてくれた。
もしかして、本気で寝ぼけていたのだろうか。とにかく、これ幸いといそいそと布団から這い出て、乱れているだろう髪の寝ぐせを手櫛で整えた。


部屋の中をぐるりと見回せば、覚醒した荒北と自分の他に、まだぐっすりと寝入っている福富たちの姿を見とめ、そこで初めてこの場所が男子部屋だということに気がつく。

昨夜、泣いた後の記憶がないことからすると、きっと寝落ちしてしまった自分を彼らがここにかくまってくれたのだろう。
優しい人たちだ。けれど、仕方がない状況だったとはいえ、やはり後ろめたさは拭いきれない。
マネージャーが男子部屋に無断外泊だなんて、他の部員にバレたらどうなるかわかったものではないからだ。

自分たちの間に何もなかったとしても関係ない。これは倫理的な問題だから。
たとえどんな理由であろうと、そんなの言い訳にしかならないと、わかっていた。
……だから、甘えるのはこれっきりだ。今夜からは、迷惑をかけたりしない。
改めて決意を固め、一回だけ、深く深呼吸をした。

「荒北くん、本当にありがとう。じゃあ、また練習で」

まだ茫然としている荒北に声をかけ、しおりは部屋の襖を開けようと手を伸ばした。すると、後ろから慌てたように立ち上がる音が聞こえ、襖にかけた指に大きな手のひらが重ねられる。

驚いて振り返れば、目に入ってきたのは寝相で乱れた浴衣に寝ぐせの付き放題の短髪の彼の姿だ。
寝起き直後に動いたからか、足元すらおぼつかない荒北は、それでもしおりの隣に立って、「部屋まで送る」なんてぶっきらぼうに言ってみせた。

これにはさすがに驚いてしまう。
だって、しおりの部屋から、この男子部屋までは、確かに距離はあるが送ってもらうほどではないからだ。
それより何より、何度も言うが自分は昨夜も彼の貴重な睡眠時間を削ってしまっているのである。朝の時間まで犠牲にさせるわけにはいかないと、彼の申し出に首を横に振りかければ、荒北はチッと面倒くさそうに舌を打って、一人で行こうとするしおりと並んで、廊下に一歩踏み出した。


――途端に、目の前に現れたのは、予想外の暗闇だ。

一瞬で頭が真っ白になり、思わず後ずされば、荒北はそんなしおりの背中に軽く手を添えて、やっぱりな、いう風な確信的な息をついて見せた。

「まだ暗いだろォが、バァカチャン」

そのセリフに、しおりは現在の時間を思い出して、理解する。
夜明け直後といえば、時刻はまだ真夜中に近い。もちろん旅館の廊下はまだ消えたままで、薄暗く伸びた空間に点々と光る非常灯の明かりが見えるだけだった。

暗闇が怖い自分では、こんな所、とてもじゃないが一人で帰れない。

彼は、これを予想して付いてきてくれたのだろうか。広がる暗闇の恐怖に思わず手を伸ばせば、咄嗟にそれを掴んで握り返してくれる温かさにホッとしてしまう。と同時に、案の定、助けを借りることになってしまった自分が情けなかった。

「ごめんね荒北くん、迷惑ばっかりかけて」
「べっつにィ。オレも早く起きて朝練しようと思ってたとこだし」
「こんなに早くから?そっか。でも、頑張りすぎないでね」
「……そりゃこっちのセリフだ、泣き虫チャン」
「いじわる!」

仕返しとばかりに、荒北の手を握り返せば、荒北はグッと息を詰めて、そのまま黙り込んでしまった。

今まで普通に話していたのに、どうしたのだろう。具合でも悪いのだろうかと不安になったまま、二人でしおりの部屋がある階に繋がるエレベーターの所まで歩けば、エレベーター前の照明の人感センサーが働いたらしく、二人のいるその部分だけ、パッと明るくなった。

人工的な光の粒子が暗闇に慣れ始めていた目を刺激して、一瞬目の前が眩む。
目を細め、そのわずかな痛みを乗り切った後「びっくりしたね!」と隣の荒北を見上げた瞬間、しおりはハタと固まって彼から目が離せなくなってしまった。

「あら、きた……くん?」
「っ……うっせ!見んな、バカ」

目の前にいたのは、耳から、首から、真っ赤になった荒北の顔で。
その赤面の原因が、先ほど自分が彼の手を握り返したあの行為だと気が付くのに、さほど時間はかからなかった。
つられたように、熱くなる頬の温度を感じ、しおりは思わず、彼からパッと顔をそらしてしまった。

……だって、咄嗟だったとはいえ、先に手を握ってきたのは彼の方だ。

自分はそれに便乗しただけ。
まさか、彼は自分が手を握り返すまで、繋いだ手のことに気が付いていなかったとでも言うのだろうか。だったら、彼だって人のことを言えない。相当のおバカちゃんだ。

旅館の廊下は、空調が行き届いていて涼しいはずなのに、じっとりと手汗をかいてきて仕方がない。手を離そうとすると、それを拒む様に強く握り返されて、今度はこちらが首まで赤くなる番だった。

「どうせ、エレベーター降りたらまた繋ぐだろうが」

だったら繋いだままで良い、と目を合わせないまま言った彼がどんな表情をしていたかなどわからない。だって、自分も目など合わせられない位照れていたから。

チン、と軽快なベルの音を立てて開いたエレベーターの個室。
自分と同じく汗ばんだ大きな彼の手に、引かれるままに乗りこんだ。


 
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