23:青色タオルで朱を隠す



あれだけ避け続けていたとはいえ、自分でやると決めたからには、精一杯やりたい。
自転車競技部のマネージャーになってからというもの、しおりはそんな思いを抱きながら、慌ただしくも楽しい生活を送っていた。

朝は誰よりも早く部室に向かい、今日のメニューを確認する。それを全て頭の中に叩きこんだら、今度はドリンクの準備だ。夏の暑さと激しい運動で乾いていく部員たちの喉を潤す為に校内にある巨大製氷機と部室の間を何度も往復し、冷たいドリンクを作っておくのだ。

重たい氷を運ぶのは重労働ではあるが、日に日に暑くなる外気に選手たちがやられてしまわない為に、ここで手を抜くわけにはいかない。

作ったドリンクボトル数十本をクーラーボックスで保冷して、ついでに氷水にタオルを浸しておく。汗だくの体を冷たいタオルで拭くのは気持ちが良いのだ。男子マネージャーから教えてもらった業務には含まれていなかったが、少しでも部員達に快適に練習してもらおうという、これはしおりの配慮だった。

それが終われば、夏の太陽をたっぷり浴びせて乾かしたふわふわのフェイスタオルを重ねて所定の場所に山積みにして置く。
沢山汗をかくこの時期、洗濯は一日に何度も必要で、マネージャーが交代で授業の中休憩の間に回しに来たり、時間を見つけては干したり、畳んだりして補充をしていた。

部員のサイクルジャージも洗濯するので、洗濯かごはいつだって満杯だ。
けれど、これもマネージャーとして、大事な仕事に違いない。汚れて、汗にまみれた衣類は、部員が努力した証だ。大切に洗濯ネットに入れて、洗濯機で回した。

そうして、あれこれと忙しく動いて部室の掃除が終わる辺りで、部員たちがぞろぞろと部室にやってくる。それを「おはようございます」と笑顔で出迎えて、しおりはタイム記録用のバインダーとタイムウォッチを持って、一旦部室の外に出るのだ。

何故なら、部員がここで着替えるからだ。
通常の着替えなら、多少見てしまっても差支えはないかもしれないが、自転車乗りの着ているサイクルジャージとレーパンの下は素肌である為、女の自分が見るわけにはいかない。

「すぐにミーティング始められますので、準備が整ったら声をかけてください」

主将にひとこと声をかけ、自分は部員たちが揃うのを待つ。
部員が揃うまでのこのひととき。彼女にとって、これが唯一の休憩時間といっても過言ではなかった。

「ふう、今日も良い天気だなあ」

朝だというのに、もう熱烈な日差しを向けてくる太陽が浮かぶ空。バインダーで太陽を直視しないように影を作って空を見上げれば、頭上は今日も綺麗な快晴で、絶好の練習日和だった。

こんな朝に走ったら、絶対に気持ちいい。
愛車のラピエールに跨って走る自分を想像し、受ける風の感触や、箱根学園を囲む木々の香りを想像してニヤけた。

そうだ、明日晴れたら、もう少し早く起きて、自分も走って来てから部室に来よう。そうすればきっと、部員たちに課す朝の練習メニューは何が最適かを図れるかもしれない。

今はインターハイを直前に控え、選手が最も練習効率を気にする時期であるから、練習量や練習の質を定めるのはかなり重要な仕事なのだ。
我ながら、良いアイディアだと、そんなことを考えていたら、ふと、誰もいないはずの自分の隣に気配を感じて、しおりはパッとそちらへと顔を向けた。

「おはよう、しおりちゃん。今日も早いな」

そこには、朝食代わりなのか、はたまた間食中なのか。パワーバーを口にくわえた新開が静かに立っていた。

彼は良く食べる人だ。いや、他の部員も運動量と、成長期の男の子ということもあって良く食べるのだが、彼に関しては本当に、驚くほど食べるのだ。
それが無駄な脂肪になっていないということは、それだけ過激な運動をしてカロリーを消費しているということ。飄々とした表情をしながらかなりの運動量をこなす彼のタイム記録は、一年生にしてすでにレギュラー陣のタイムに迫る勢いであった。

しおりが部室から退散してから、まださほど時間は経っていないはずだ。だのに、彼はいち早く着替えて出て来たらしい。
手には既に自分用のボトルを確保していて、まだ練習も始まっていないというのに早々に飲み始めていた。

いつだってマイペース。そんな所はまったく、彼らしい。

けれど、こんなにマイペースなのに、練習が始まればその表情は真剣そのものだ。
レースともなれば、もっとすごい。舌をむき出しにした闘争心の塊みたいな表情をして、ものすごい速さで駆け抜けるのだ。

一緒に走ったことのあるしおりだからわかることなのだが、ゴール前のスプリントであの形相の彼に追いかけられるのは、結構怖い。

普通の顔と、鬼の顔。そのギャップを思い出して、くすくすと笑えば、新開はどうして笑われたのかと不思議そうな顔をしていたが、それでもしおりが笑ってくれたことに、まんざらでもなさそうだった。

「おはよう、新開くん。今日の調子はどう?」
「絶好調だ。朝からおめさんの作ってくれたドリンク飲んでるからな」
「あはは、それは良かった。じゃあ今日のタイムも期待してるね」

今日は、昨日よりマイナス1分目標で!と持っていた記録票とタイムウォッチをちらつかせれば、新開は「それはキツイだろ」と苦笑して、けれど「無理だ」とは言わなかった。

しおりがマネージャーになってからというもの、今まで雑用をやっていた1年生部員の負担が減り、練習時間が増えたためか、皆順調に記録を伸ばしているのだ。
特に、新開含め、自分をマネージャーに誘った4人の伸びは、目を見張るものがある。

日に日に更新されていく彼らの記録。貼りだされた個人記録票に、他の部員たちも火がついたのか、部内はインターハイ前の緊張感と、闘争心で、なかなか良い雰囲気になっていた。

彼らは、間違いなく1年後、2年後の箱根学園自転車競技部を引っ張っていく人材だ。
……そして自分は、それを支えるためにここにいる。

元自転車乗りで、ましてや女の自分などに出来ることなど、たかがしれているかもしれないが、やれることなら何でもやる。彼らの為に、身を粉にして働くのだ。

意気込んで、持っていたバインダーを胸の中でぎゅっと抱きしめれば、そんなしおりを見て、隣にいた新開が、彼女の頭にポンと手のひらを乗せた。
見上げた彼の表情は、てっきりいつものごとく飄々としているのかと思いきや、予想外に真剣な面持ちだ。そんな新開に、しおりはきょとんとしながら、頭に乗せられた彼の手のひらの熱さをただ感じて押し黙っていた。

「無理はしてないか。フラッシュバックとか、大丈夫?」
「……平気。今は自転車のこと考えるのが何より楽しいの。もしかして心配してくれるの?」
「そりゃあ、するだろ。おめさん、オレたち選手の体調ばっかり気遣って自分の事に無頓着だしな。現に、こんな日差しの中で帽子も被らないでボーッとしてるし」

「頭、熱いぞ」と言われ、しおりはそこで初めて、彼が自分の頭に手を置いた理由を知った。一時的とはいえ、彼はその大きな手で強い日差しから自分を守ってくれたのだ。

言われてようやく自覚したが、思えば確かに、部員がいかに快適に、効率的に練習できるかを第一に考えすぎて、自分のことを蔑ろにしていたかもしれない。
だが、自転車のことで夢中になると、周りが見えなくなるのは昔からだ。

困ったように笑ってごまかすと、新開は、軽く息をついて、自分の持っていた真っ青なタオルをパサリとしおりの頭にかぶせ、ドリンクボトルを渡してきた。

たぶん、くれるということなのだろう。けれど、夏時期の練習でのドリンクボトルは、消費量が半端ではない為、すぐに数が足りなくなってしまうので貴重なのだ。それをマネージャーの自分が貰うわけにはいかない。

返そうとすると、その手を押し止められて、彼の堀の深い整った顔が、グッとしおりに迫って来る。驚いて仰け反れば、その体さえガシリと掴まれ、逃げられないように固定され、睨むような眼光で見据えられてしまった。
そんな風に見られたら、誰だって声を詰まらせてしまう。身を固くして押し黙ったしおりに、新開は少しだけ眼光を緩めて、諭すような優しい口調で続けた。

「皆心配してんだぞ。誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで仕事してるおめさんはいつ休んでるのかって」
「そんな……私、ちゃんと休んでるよ」
「本当に?」

その問いに、しおりは強気にイエスと答える自信がなかった。

朝はこの通り、部員が来るずっと前に部室に来て、昼間も、放課後も、夜寮に帰ってからも、ずっと何かしらマネージメント業務をやっている。睡眠時間はここのところ平均で4時間ほどか。それが、ここ最近のしおりの生活だった。

食事だって、しっかり食べている暇があったら部員たちのデータまとめをしたくて、昼ごはんのお弁当以外は片手で食べられるような簡易食ばかりだった。

マネージャー業務が楽しい。思いっきり乗れなくたって、自転車に関われることが嬉しいのだ。
そんな思いで夢中になって仕事をこなしてきたが、自分の行動を改めて振り返ってみると、確かに健康とはほど遠い生活を送っていたように思えた。

「でも大丈夫だよ、昔から体丈夫だし!」
「あのな、いくら丈夫でも、無理し続ければ倒れるってわかるだろ?」
「無理なんてしてないよ。ちっとも疲れないし、眠くもならなくて、」
「……自分の憧れの人が炎天下でぶっ倒れるのなんか見たくないんだよ」

静かに声のトーンを下げた新開の、そんな直球の言葉に、思わずしおりの顔が赤くなった。

……そうだった。この人はそういえば自転車に乗っていた頃の自分に憧れていたのだ。

あの頃の自分は、確かにキラキラしていた。何もかもがうまくいっていて、世界の中心は自分だとすら思ってしまうくらい順風満帆な人生だった。
そんな自分は、傍から見たらそりゃあ、少しくらい憧れを抱かれるくらいの存在だったのかもしれない。しかし、今の自分は自転車にも乗れない、ただのマネージャーだ。
そんな立場になってしまった自分相手でも、この人は変わらず憧れを抱いてくれているのだろうか。

そんなこと聞く勇気もないから、真っ赤な顔で、コクコクと必死に頷き、受け取ったボトルに口を付け、中身を煽った。
冷たいドリンクが喉元を通り抜けて行く。仕事に夢中で気がつかなかったが、どうやら、自分は相当喉が渇いていたらしい。
その飲みっぷりに、新開は安心した様にフッと笑って近すぎる距離を、やっと離してくれた。

「ちなみにそのボトル、オレと間接キスだってわかってる?」
「……っ!?ぐっ、ゲホッ、ゲホッ!」
「はは、冗談。とにかく、無理しないで頼れよ。マネの先輩でも、オレたちでも、誰でもいいからさ」

約束だ、とウインクして去るキザな彼を、しおりはむせ込んだまま見送るしかできなかった。

遠くで主将から、ミーティング開始の合図がかかる。
ああ、どうしよう。今行けば、きっと顔が赤い。

「このタオルで、隠せるかなあ」

頭に乗せられた、彼の青色タオルを深くかぶり直した。



 
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