1:栄光の色



私の栄光の色は、いつだって白だった。
ゴール前300メートルの最終スプリント。体の限界を超えた最高速のせめぎ合い。考えているのは目の前のゴールラインを切ることだけで、極度の集中で景色に色が付いていることすら忘れていた。

脚を回す為だけに、体内に血液に乗せた酸素を送る為だけに呼吸をする。苦しいなんてもんじゃない。今にも気を失ってしまいそうだ。
けれども尽きることのない野心が頭にもっと速く、と叫んで私はさらにケイデンスを上げる。横一列に並んでいたタイヤが、少しだけ前に出た。
もっとだ。もっと、もっともっと、速く。加速する車体に引っ張られるように体が集団から抜けた。

「アイツを止めろォォおおおおお」

怒号とともに背中に突き刺さる、選手たちからの羨望、妬み、その他諸々の籠った視線。私はそれらに目もくれず、ただ前だけを見ていた。
誰よりも早く走りたかった。誰にも負けたくなかった。負けん気の強さだけなら誰にも負けない自信があった。

「うああああ!!!!」

ゴール前でハンドルから手を離し、横に目いっぱい広げる。車体が真っ白なゴールラインを踏めば、私の目の前も一瞬何もない世界に変わった。音も、視界も、匂いもない。全てから解放されたような感覚にゾワリとした快感を覚えると、そこで一気に感覚という感覚が戻ってくるのだ。

初めにやってくるのは観客達の歓声だ。いつからこんな騒々しい音の中にいたのだと言うほどの大歓声。自分に向けられるそれらが夢のようで、なりふり構わず走ってきた背筋をしゃんと伸ばした。
次に、世界に色が戻ってくる。色とりどりの紙吹雪が私を包んで、その何枚かが体に張り付いてきた感触で、自分が汗まみれになっていることも思い出した。

息が苦しい。どれだけ吸っても足りない位。心臓が大きく波打ち、体に新鮮な血を送る。生きろと言われているようなその感覚に、私はユニフォームの胸辺りをクシャリと掴んで、応えた。

後続選手たちも次々ゴールしてきている様だ。後方でより一層歓声が大きくなる瞬間が、まさにそれだ。自分を追いかけて来た選手たちの、タイヤの回る小気味い音が耳に届き始める。
その中で、ひとつだけ自分に近づいてくる車輪音が聞こえ、私は後ろを振り返った。

そこには見知った顔があった。強面の仏頂面。けれどその目はいつだって爛々と輝いて、勝利を狙っているのだ。

「福ちゃん!」
「……また完敗だ。しおり、優勝おめでとう」
「ありがと!」
「だが、次は負けない」
「私だって、譲らないよ」

そう言って笑えば、ヘルメットをワシリと掴まれ、体重をかけてくる。重い!と叫べば、彼は口端を少しだけ上げて、私の背を押した。

「行け。凱旋パレードだ」
「うん、また表彰式で」

離れていく彼を横目で見送り、私は一心に自分を見つめる観客たちに、大きく手を振った。










*********












……懐かしい夢を見たものだ。

ベッドの上。目を開けたしおりは、寝起きの頭で自室の天井を見つめていた。小さなシミが転々と続く白塗りの天井。見慣れないのは、この部屋で生活するようになってまだ2日目だからだ。
ベッドのマットレスだって、今まで使っていたウレタンの物ではなく、年季の入ったボンネルスプリング製だ。やけに沈み込むその感触と、寝がえりを打つたびに軋むスプリングの微かな音に、昨夜はなかなか寝付けなかった。

だから、あんな夢を見たのかもしれない。初めての新生活の不安と期待の入り混じった緊張感が、レース前のそれと似ていたから。

ひとつ、大きなあくびをしてベッドから這い出ると、同居人の女の子が笑顔をこちらに向けて「おはよう」と声をかけて来たので、自分も倣って返事を返した。
まだぎこちないのは仕方がない。だって、彼女と自分は昨日初顔合わせをし、一夜を同じ部屋で過ごしただけの関係なのだから。これから仲良くなれば良い、と気長に構え、寝ぼけた頭をすっきりさせるために洗面台へ向かった。

4月の上旬。水道水はまだ冷たい。それを手ですくって勢いよく顔にかけると、ボーッとしていた頭が一気にクリアになっていくのを感じた。顔を上げれば、目の前の鏡には見慣れた顔が映っている。長く伸ばした髪。整えた眉。手入れした肌。あの頃の容姿に無頓着だった自分とは似ても似つかない、女の子の姿だ。

そう、ただの女の子。ロードバイクの「ロ」の字も知らない、ただの女の子。
自分にそう言い聞かせ、寝ぐせではねた髪を櫛でとかした。

今日は高校入学の日。入学式の前にクラス発表の紙も貼り出されるので、早めに行かなくては。サッと寝巻きから制服へ着替え、簡単な朝食を済ませると、先に準備を終わらせていた同居人と一緒に寮の部屋から飛び出した。

寮から学校までは少し距離があるが、二人とも徒歩だ。学校が長い坂道の丘の上にあるからという理由もあるが、しおりが自転車に乗らない理由はもうひとつあった。

――『あの日』以来、もう乗らないと決めたのだ。

ロードバイクだろうと、ママチャリだろうと、関係なく。もう自転車には乗らない。
キリリと胸が締め付けられるような感覚に少しだけ泣きそうになったが、目を固くつぶって、何とかごまかした。

温かな春の風が、しおりの長い髪を巻きあげてふわりと揺らす。ああ、春の匂いだと感じてゆったりと足を止め、見上げると、そこには満開の桜並木が見えた。
ずっと続く、学校への一本道。坂道を登れば、丘の上にしおりがこれから通うことになる箱根学園高校はあった。

ひらひらと舞い散る桜が道路の上に落ちて、まるでピンクの絨毯だ。そこまで乙女趣味はないが、これは綺麗だと心から思えた。したたかに心を躍らせながら周りを見れば、周りには彼らも新入生なのだろうか、ちらほらと同じ制服を着た生徒たちが見える。

しおりたちのように完全に歩きに徹している者は少なく、ほとんどの者が自転車を片脇に牽きながらこの坂道を上っていた。

それもそのはず、学校へ続く坂道はかなりの急こう配で、しかもかなり長い。慣れれば足をつかずに登り切ることも可能だろうが、どれだけ慣れていたって学校に着くころには乳酸で足がパンパンになっていることだろう。
普通の自転車では、まず無理だ。そう。普通の自転車なら。

その時、背後からシャア、と軽快に風を切る音が聞こえて、しおりはその方向へ反射的に振り返った。色とりどりの車体。ピッチリと体にフィットしたジャージとレーパン。サドル位置が高く、ハンドル位置が低い、特殊な作りのその乗り物は、しおりが見知った、そして一番見たくないものだった。

「わ、なになに?自転車?」

同居人が驚嘆の声を上げるのをそぞらに聞きながら、しおりは迫りくる集団を睨みつけた。
縦一列にピッタリと並び、まるで集団がひとつの生き物のように動く。後続車の空気抵抗を抑える為のフォーメーションではあるが、それでもこの坂をこの速さで上ってくる実力は並大抵ではない。

その時思い出したのだ。自分の入学したこの箱根学園が、自転車競技の最高峰だということに。地元を遠く離れ、県外にでも来れば過去のことなど思い出さずに済むと思って安易に受験したが、失敗だったらしい。
箱根と言えば、温泉!などと浮かれていた過去の自分を呪い殺してやりたかった。

迫る集団、近づく距離。横を通過した瞬間に襲ってくる風圧で、髪がバサリと煽られたが、彼らにはしおりたちの姿さえ風景の一部なのだろう。あっという間に通り過ぎ、遠くへと行ってしまった背中に、言い様のない苦しさを感じて、しおりはうつむき、ハア、と息を吐いた。

「すっごく速かったねー、ちょっとカッコイイかも!なんてね〜!」

のんきな彼女に「そうだね」なんて返すが、本当は入学早々、最悪の気分だ。

いや、でもいくら自転車競技部の強豪といっても、こちらから関わらなければ何の問題もない。
そうだ、そうしよう。三年間、自転車競技部には一切関わらない。せっかくの新生活だ。前向きに生きなければもったいない。

落ちた気分をどうにか持ち上げ、しおりは残りの坂道を上りきるべく、止まっていた足を前に踏み出した。



 
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