22:ゴールの景色



やっと丘の上にたどり着いた時、しおりの体はもうヘロヘロで、柔らかに茂る青々とした草むらに、倒れるようにして転がった。

酷使した太ももが熱をもって熱い。太ももだけではなく、体中が熱くて、熱くてたまらない。
止まらない汗に、未だに激しく脈打つ鼓動。初夏の日差しがジリジリと肌を焼いていて、今日は紫外線対策などしていないのに、これではシミになってしまうと思いつつも、木陰に移動する体力すら残っていなかった。

……ああ、でもすごく楽しかった。
久しぶりのロードバイク。思わず血が騒いで、ペース配分を誤ってしまった結果がこの様だ。格好悪いけど、もうどうだっていい。何だか、ふっきれてしまった。

くすりと笑って目を閉じれば、不意に、照りつけていた日差しが弱まった気がして、おや、と目を開ける。そこには、しおりをここに誘った張本人、福富が影をつくるように佇んでいる姿があった。

「立てるか?」

投げかけられた問いを、両手を彼の方へ伸ばして応える。答えはノーだ。起きる体力すらない。そんなしおりに、福富は何も言わずにその手を取り、ゆっくりと引きあげて起こした。

「ありがと」
「うむ。どうだった、久しぶりの自転車は」
「……悔しいけど、やっぱり楽しかった」

その答えに、珍しくいつもの鉄仮面が外れて福富が微笑む。この笑顔はレアだ。嬉しくなって笑い返せば、何だか昔に戻ったようで、酷く懐かしくなった。

あの頃はまだ一緒にレースに出ていて、彼よりも自分の方が早かった。背だってそんなに変わらなくて、力だって多分同等くらいだったと思う。よく表彰式の後に二人でこうやってその日のレースの感想とか、作戦を語り合って、笑ったっけ。

けれど二年。たった二年後の世界では、自分は自転車の世界を去り、彼は名門箱根学園の期待の星になっていた。
今じゃきっと、彼には追いつけない。足元にだって及ばない。背だって、力だって、こんなに違う。

もう対等にはなれないんだと思うと、仕方がないことなのに、酷く寂しく思えて、俯いた。そんなしおりの手を、福富がぎゅっと握って前を向かせる。

見上げた彼の顔は、夕焼け色に染まっていた。凛々しい表情。少し、腫れた頬。
ああ、そうだ。自分は感情的になって、つい頬を打ったんだっけと思い出して、罪悪感でその傷にそっと触れた。

謝りはしない。だって、まだ理由を教えてもらっていないから。
部活をサボってまで、自分をここに連れて来た理由を、彼の口から聞いて納得するまで謝らない。

そんな天の邪鬼なことを考えていると知ってか知らずか、福富は、しばしの間、頬に触れるしおりの指先を目をつむって受け入れ、そうしてゆっくりと開くと、宿った強い決意を露わにした。

「見せたいものがあるんだ」

待っていた言葉に、しおりも静かに頷く。
ここはただの数ある箱根の小高い丘のひとつにすぎない。周りを見渡したって、原っぱと、多少の木々が生い茂っているだけだ。




では、彼はここで何を見せてくれると言うのか。

その答えを言う前に、福富はスッと、しおりに向き合っていた体をよけると、開けた視線の先をさし示して彼女に見せた。






「これが、オレが見せたかったものだ」

指差したのは、今しがた一緒にサイクリングにいそしんだ三人の自転車競技部の男達の姿だった。
制服姿でロードバイクに跨り、皆汗びっしょりでそこに立っている。
どうやら、完全に力尽きた人ひとりをカバーしながら走るのはよほど辛かったらしい。言葉にはしないが、誰もがその顔に疲れの表情を浮かべていて、けれど、その誰もが、しおりと目が合うと照れたように笑いかけてくれた。

「背中を押して助けてくれた仲間が見せてくれる、ゴールの景色をしおりに見て欲しかった」

どうだ、と続けた福富の声がやけに満足そうで、しおりは改めて彼らのいる景色を見た。
目の前には、色とりどりのロードバイクの上で佇む彼らの姿。
大きくて、男らしくて、それに誰もが認める自転車狂い。

その姿を見ていたら、「仲間が見せてくれるゴール」の意味がわかったような気がして、何だか涙が出た。







――ロードレースでは、チームの一人がマシン不良などの窮地に立たされた場合、その選手を見限って置いて行くのではなく、チームの数人がその人の復帰を手伝うことが度々ある。

何故なら、遅れた選手一人では先に行ってしまったチームメイトたちに追いつけないが、複数人なら追いつける可能性があるからだ。

その人が復活すれば勝てる見込みがあるなら、仲間は手を差し伸べ、時に自分が犠牲になってその選手をゴールに連れて行く。それがチームの為になるのであれば。勝利のために必要ならば。

そうして掴んだ勝利のゴールの景色は、間違いなく仲間が見せてくれたもの。

それが今の自分の状況と酷く似通っていて、しおりは思わず息をつめた。



この人たちは、自分をチームの勝利に必要な人材だと考えて、貴重な練習時間を犠牲にしてまですくい上げてくれようとしているのだ。
何年も前に落ちた自分に。勝利を諦めた自分に、またあの真っ白なゴールの景色を見せてくれようとしている。

「……私、何もできないよ」

涙声で呟けば、福富は優しく目を細め、しおりを見る。今にも涙が零れ落ちてきそうな大きな瞳をぬぐってやれば、温かな雫で指が濡れた。

「出来るさ。俺たちはお前がどれだけ自転車を好きなのか知っている。どれほどレースに真剣かだって、知っている。その気持ちがオレ達の支えになるんだ」
「でもっ、」
「今日オレ達がしおりを助けたように、今度はしおりに背を押してもらいたい。助けて欲しい。ゴールを一緒に見たいんだ。インターハイのゴールの景色を」

手を貸してはもらえないだろうか、と差し出された手に、しおりはせっかく拭ってもらった瞳からまたボロリと涙をこぼして唇を噛んだ。


――ずるい。こんなの。


せっかく忘れようとしていたのに。あの悪夢を断ち切る為に、あんなに大好きだった自転車を拒んで、拒んで、離れようとしていたのに。この箱根の自転車男たちからの誘惑に、もう勝てそうもなかった。

東堂とは、自転車の話をした。いかにてっぺんの景色が素晴らしいかを語る彼が楽しそうで、自分まで嬉しくなってしまいそうだった。

新開は、自転車に触れさせてくれた。遠く離れた実家の物置にしまい込んだ愛車をピカピカに整備して、磨き上げ、怖くて近づくことすらできなかった思い出に、やっと少しだけ触れることができて嬉しかった。

速く走れないと落ち込む荒北に、前を向けとアドバイスした後、下ばかり向いてまっすぐ前を見て生きていなかったのは自分だったと気がつかされた。

そして福富は……――






「ごめんなさい」

泣きながら謝ったしおりに、その場にいる誰もが落胆の色を隠せず眉をひそめた。やはり駄目か。彼女の苦しみを埋めるには、自分たちでは力量不足なのだ。

そう思った瞬間、しおりの手のひらが福富の頬に触れ、腫れたそこを撫でたのを見て、彼らはまさかの奇跡に、目を見開いた。

「福ちゃん、ぶったりしてごめんなさい。痛かったでしょう?」
「い、いや……何とも、ない」
「戻ったら、湿布貼ってあげるね。部室に……ある、かな」

はばかりながらも「部室」という単語を口にしたしおりに、彼らは顔を見合わせた。ここで言う部室とは、もちろん我らが箱根学園自転車競技部の部室だろう。

つまり、彼女は来てくれるのだ。マネージャーとして、自転車競技部に。

「よっしゃああ!!!」

男たちのガッツポーズと雄たけびは、開けた箱根の小さな丘に良く響き、その喜びようにしおりは思わず噴き出して笑った。



 
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