21:本能



福富がゴールだと言った丘までの距離は、10キロそこそこだ。時には一日に100キロ以上の距離を走ることもあるロードレースに比べれば、なんら大したことなはい距離のはずだった。

けれども問題なのは、箱根特有の起伏の激しい道路と、自分の体力だ。
愛車に跨る懐かしい感触と、現役時代の経験で、最初の数個の峠は周りと話をする余裕さえ持ちながら乗り切ったが、道中で一番キツイであろう上りに来た時には、正直「ああ、ちょっと無理かもしれない」と思ってしまった。

いくら運動神経が良い方だとは言っても、何年も自転車から離れているわけであるので、当然自転車で使うための筋肉も、持久力だって落ちている。この時点でしおりの体力はすでに半分以上が削られていて、立ちはだかる巨大な壁を、自分の力で上り切れるかどうかも怪しかった。

息が上がっている。心拍数、どれくらいだろう。
胸に手をやれば、ドクドクと脈打つそこが苦しさを代弁するように高鳴って、もっと酸素をくれと強請っていた。でもこれは、きっと苦しさだけの胸の高鳴りではない。
もっと、他の。何かを期待するような高鳴りだ。自分の中からじわじわと湧きあがってくる感情に、心が高揚するのを抑えられなかった。

「しおり、大丈夫か?辛いならオレが引っ張ってやろうか」

直前に迫る坂を目の前にして言葉少なになったしおりに、山道を得意とする東堂が声をかける。

彼女を連れ出す時、これはサイクリングだと念を押してはいたが、常にオートバイ程の速さで自転車を漕いでいる自分達のペースは、並みのサイクリングと呼ばれるものよりずっと早い。

これが本当にロードバイクの初心者と走るのであれば、もっと気を付けてスピード調節も出来ただろうが、幾分彼女は経験者だ。
それなりのスピードを保ちながら、なおかつ楽しそうに自転車に乗る彼女との会話に夢中になっていたら、遠慮などすっかりと忘れてしまっていたのだった。

そうして、気がついたときには、すでに道のりの半分以上を走り切っていて、目の前には最大の難所が立ち塞がっている。
現役を退いて久しい、しかも女性のしおりでは、体力的にこれはまずいだろうと思って、声をかけてみた……のに。



覗きこんだ彼女の顔は、ペダルを回すことを諦めた表情ではなかった。
むしろ、今から攻略してやると、挑みかけるようにまっすぐに前を見ていた。

苦しそうではある。息が上がっているし、汗だってすごい。長い髪が頬や、首元にぺったりとくっついて、邪魔そうだ。何度も太ももの辺りやふくらはぎを気にしているのは、いきなりの過激な運動に体が悲鳴を上げているのだろう。

なのに、諦めていないのだ。
大きな瞳は、爛々と輝いて自分の向かう、道の先だけを見ていた。

息を、大きく吸った。深呼吸かと思ったその行動は、息が吐かれる前に彼女がグンと前に出たことで、アタックの合図だったと知った。

前を行くしおりの髪が揺れる。無駄のない美しいフォームのダンシングに、しばし思わず見とれて、それからハッとして彼女を追った。

彼女は確か、膝の怪我で引退を余儀なくされたはずだ。足への負荷が大きい坂道で無茶などすれば、古傷に障るかもしれない。
久しぶりのクライムで興奮して我を忘れているのであろう彼女を止めるために、東堂もサドルから尻を浮かせ、前傾姿勢のダンシングフォームをとった。

体重移動と、加速度に合わせてギアを変える。
音もなく加速する美しい走り。一切の無駄がないので、誰よりも早く山道を駆けあがれる、これが東堂自慢のスリーピングビューティだ。

けれど、クライマーの彼が全力で回しているのに、しおりとの差はほんの少しずつしか埋まらない。

「すごい選手だったとは聞いていたが、これは、なかなかっ…!」

彼女の走りは、何年も自転車に乗っていない人物の走りだとは到底思えない。
それでもクライマーの維持で必死で食らいつき、先を行くしおりに並ぶ。これでアタック阻止だ。

レースでもないのに、坂道でアタックなんて、正気の沙汰ではない。
追いつかれたことに気がついた彼女は、東堂の姿を確認すると、スッと目を細め、口元を緩めた。

「さっすが、クライマー」

向けられた優しげな視線に、東堂は目を丸くして驚いた。
いつも、自分を見ては迷惑そうに顔をゆがめ、逃げだしていたあのしおりが、笑っているのだ。しかも、酷く幸せそうに。

不意に伸ばされた細く白い腕を、反射的に掴んだ。引き寄せてみれば彼女はもう逃げることもせず、自分の腕の中にすっぽりと収まって、頭をコテンと預けて来た。

なんだ、何なんだ。
上目づかいに見上げてくる顔がやけに色っぽい。邪魔そうだと思っていた、肌に張り付いた髪も、暑いからといって普段よりもうひとつ外したシャツのボタンも、直視してしまえば変な気を起しそうで、わざと視線を外した。

「東堂くん、あのね」
「……なんだね」
「わたしね、もう……」

――体力、限界。


途端にガクンと漕ぐ力が弱くなるしおりに、東堂が悲鳴のような声を上げる。不安定な自転車の上で、どうにか倒れてしまわないように二人分のバランスを保ち、後方へと助けを求める。

「フク、隼人、荒北!早く来てくれ!!お、重っ」
「レディー相手に重いとか無神経よ」
「だったら、せめてこっちに体重かけてくるのはやめてくれないか!危ない!」

言っている間に、追いついてきた三人がしおりを囲み、力尽きた彼女を見て呆れた声を出しつつも、しっかりと支え始めた。左には東堂。右には新開が付き、前方には風よけとして福富と荒北だ。

「もうひと踏ん張りだ、しおり」

福富の凛とした声に、しおりは前を走る彼の背を眩しそうに見つめ、小さく頷くと、緩んでいたハンドルを握る拳に力を入れた。
大きな手がふたつ、背中を押してくれている。前には大きな背中がふたつ。箱根の風から守ってくれている。
格段に軽くなったペダルを、またぐるぐると回し始めた。





 
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