16:みなまで言うな、わかるだろ。



「え……えーー!?」

その日の昼は、しおりの驚愕の声から始まった。
いつものように東堂に追いかけられ、いつものように逃げ切って、いつもの校庭にやってきた、そこまでは日常通り。
しかし、そこで待っていてくれたその人の姿が、いつも通りではなくて思わず声をあげてしまったのだ。

その声に、ギロリと睨んでくるふたつの目。
酷く不機嫌そうに歪められたその顔は、いつも以上に凶悪だった。

「ンだようるせえな!アイツに見つかるぞ!」
「あっ…ごめん」

素直に謝り、パッと口元を押さえる。そうだった、自分は東堂から逃げていたのだ。見つかればまた追いかけっこのハメになってしまう。
そんな、少し抜けているしおりに、彼……こと、荒北はわざとらしくため息をつくと、彼女の座る場所を空けるように、のそりと横にずれてくれた。

「ありがと」

厚意に甘えて、荒北の横に腰を下ろす。
無言で自分の弁当包みを開いて昼食の準備をし、箸で掴みあげたウインナーを一口かじった。口に広がる肉汁をじっくりと味わって咀嚼し、飲み込む。そうして、ふう、と息をつくと、しおりは荒北の方へと向き直って、真剣な表情で言った。

「……それで、その髪。失恋でもしたの?私相談に乗るよ!」
「誰が失恋だボケナス!!」

パコン、と頭を手のひらで叩かれ、「あいたっ」と声をあげる。なんだ、違うのか。だって、いきなり髪を切ってくるものだから、そういうことかと思ってしまった。

叩かれた後頭部をさすりながら、もう一度彼の方を見る。すると、荒北は凶悪な目つきをさらにつり上げ、自分の昼食である総菜パンを大きな口で黙々と食べていた。
……しめしめ、見ていない。

気付かれていないのを良いことに、しおりは彼に向いていた視線を少しだけ上にあげて、こっそりと、様変わりした彼の髪型を盗み見た。もし、じろじろ見ているのがバレれば、多分きっと、彼はまた怒るから。だからこっそりと、だ。

視線の先。荒北の頭の上。
そこには彼のトレードマークとも言える時代遅れのリーゼントがあるはずだった……のに。何故か跡形もなく無くなっていた。
あるのは、短く切ってすっきりとしたストレートの黒髪だけ。意外だ。あの見るからにヤンキーという風な髪を、こうもバッサリと切ってしまうなんて、すごく、意外。

そんなしおりからの熱心な視線に、荒北はやっぱり気が付いていて。いつまでも自分の頭部ばかり見つめている彼女に、心底嫌そうに顔をしかめて、こちらをひと睨みした。

「見んな、ブス」
「いやいや。そんだけイメチェンしたら見るでしょう。あとブスは余計。……ねえ、本当に何かあった?」
「……べっつにィ」
「意地悪」

今度は、しおりが不機嫌そうに口をとがらし、あぐらをかいている彼の足をぺしりと軽く叩いた。

「!!」

その行動に、荒北はいきなりギクリと肩を緊張させ、「なにすんだヨ!」としおりからギクシャクと距離を取った。その動きがなんだか妙で、しおりはふと首をかしげた。

普段の彼は、俊敏な方だ。それが、今日に限っては何だか様子がおかしい。
怪しむように彼を見据えれば、荒北はその視線から逃げるように、サッサと昼を食べ終えて帰ろうとしているようであった。

半分むせながら、パンを口いっぱいに詰め込んで、さあ逃げようとしている彼。そんな彼を横目に、頭の中で彼の奇行の理由を思案しているうちに、しおりの頭に、あるひとつの推測が生まれてきた。

壁に手をかけ、今にも立ちあがろうと奮起している彼の手に、しおりは自分の手のひらを重ね、彼にぐっと近づいた。

「あ〜らき〜たくーん?」

にっこりと怪しく笑ったしおりのもう一方の手が、荒北の足に伸びる。細い指がどこへ向かうのかと目で追えば、それは太ももの辺りを這い、付け根の方まで上がってくる。
焦った荒北が体を逃がそうと身じろぎすれば、その動きを読み取り、しおりは素早く……――彼の内ももを指でグッと押した。

「〜〜〜〜いっ!!!!」

突然の傷みに、荒北の体が思わずのけぞる。普通なら、そこで即座に攻撃をしてきたしおりから逃げるであろうに、彼は上半身を少しだけ遠ざけただけで、ほとんど動かなかった。

……否、動けないのだ。

うっすらと涙を浮かべた荒北に、しおりは満面の笑みを浮かべると、彼の隠したがっていた核心に迫ってみた。

「筋肉痛、かな?」
「テメエ……知ってやがったな」
「知らないよ。だって私、今日初めて荒北くん見たんだもん」
「じゃあなんで」
「んー、さっきからすっごく動きが鈍いなあって思って」

だって、下半身をかばうように、のそのそと動いていた。
それを伝えれば、荒北は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに元の極悪面に戻ると、痛い個所を力いっぱい押したしおりに恨みがましい視線を投げかけていた。

今さら彼女にそんな表情が効かないということなど、分かっているのに。

予想通り、全く動じず、むしろ興味ありげに自分の方へ身を乗り出してくるしおりに、荒北はうんざりしたようなため息をついた。

「ブカツ、始めたんだヨ」

話しだした荒北に、しおりは目に見えて嬉しそうな顔をする。
ヤンキーかぶれが部活を始めたことが、そんなに嬉しいのか。てっきり馬鹿にされると思っていたのに、何故か手放しに喜ばれ、あまつ「何の?」と興味津々で問うてくる。

……コイツには言いたくない。
だけど、言わなきゃ納得しないだろう。
荒北は、そこでチラリと彼女から目をそらすと、聞こえるか、聞こえないか位の大きさで、ボソリと呟いた。

「……チャリ部」
「え…?」
「自転車競技部に、入った」

どうやら聞こえたらしい。彼女の顔から、一瞬で笑顔が消えたのを見て、荒北は「だから嫌だったんだ」と心の中で舌打ちした。

今まで、彼女が毎日自転車競技部の奴らに追い回されているのを見てきたのだ。それをかくまってやったことだって数え切れないほどある。
奴らの間で何があったのかは知らないが、ひとつだけ分かるのは、彼女の敵が自転車競技部だということだけだ。

荒北は、自分の意思で、その自転車競技部に入ったのだ。
これは彼女にとって、裏切りと言ってもいい行為だろう。
実際、くっついていると言っていいほど近づいていたしおりの体が、急に自分から離れて行ったのを見れば、彼女が自分に幻滅したのは一目瞭然だった。

彼女とすごした何気ない時間を思い出し、それを失うことへの寂しさを感じる。きっと、今日をもって、彼女がここに来ることはないのだろう。

しばしの沈黙。けれど、その静寂を破ったのは、午後の授業の予鈴でも、生徒たちの笑い声でも、はたまた東堂が探し人を訪ね歩く煩い声でもなく、隣に座る、しおりの静かな声だった。

「……本気、なんだね」

思ったより凛とした怖色に、荒北が顔を上げる。すると、嫌悪とか恐怖でまみれていると思っていた彼女の視線は、まっすぐと自分を見ている。驚いて声を出せない荒北に、しおりはそのまま言葉を続けた。

「髪切って、酷い筋肉痛になるくらいペダル回して、何度も転んで擦り傷だらけになっても、走るんだね」

その言葉に、ギクリとする。何故転んだことが分かるのか。がむしゃらに、漕いだことがわかるのか。けれど、その答えは簡単に出た。
そういや今日は、体中絆創膏や、湿布だらけなのだった。衣類で隠れないところにも、いくつかその名残が見えたのだ。

転んだことが悔しくて、自分を自転車の道へ引きずり込んだアイツに全く追いつけないのに腹が立って、自分が傷だらけになっていることすら忘れていた。

ダセエ。努力してるのを人に見られるのほど、ダサいことはない。

もう彼女の顔が見れなくて、校舎の壁に寄り掛かってずるずるとずり落ちるように顔を腕の間に隠せば、自転車競技部の話をし初めて初めて、彼女が笑った気配がした。

荒北の、短く切った髪を指ですきながら、撫でる。

「がんばってね」

優しげな声に、さらに顔があげられなくなった。
おいおいおいおい、チャリ部嫌いはどうしたんだ。
あんなに避けて、逃げ回っていたのに、どうしてオレの時は、平気なんだ。応援なんかくれるんだ。

(クソ……ッ、)

生き生きと育った天然の芝生の上に寝転がる。「寝る」と一言、彼女に背を向けた理由は、みなまで言わずもわかるだろう。


 
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