13:特別じゃない



――週末の土曜日、時刻は夕方。

新開は、電車に揺られながら箱根の山に沈む夕日の紅を眺めていた。車内は遊び帰りの学生たちや、休日出勤のサラリーマンなどで混み合っているが、彼は苦痛の表情も見せず、それどころか少し楽しげに口端を上げ、飄々とした様子であった。

「ねえ、あの人カッコ良くない?」
「わかるぅ!彼女とか、いるのかなあ」

近くにいた女学生たちが、彼を見てヒソヒソと黄色い声をあげる。180センチ近い長身に、緩くウェーブのかかった赤茶色の髪の新開は、基本どこにいても目立つのだ。
厚い唇やら優しげに垂れた目尻。彼の顔は、どこをとっても女性好みの『甘いマスク』だ。日々のトレーニングで引き締まった身体も妙な色気を出していて、それがゆえに、否が応にも目立ってしまうのだった。

「あの〜、おひとりですか?」

猫なで声で声をかけられ、窓の外にあった視線をそちらへ向けると、そこには女の子が二人、期待のまなざしを抱き、彼を見上げていた。
彼女たちの手にはキラキラとした装飾を施されたスマートフォンが握られている。それを見て、新開は察した様に「ああ、」と声を上げ、はにかんだ。

自転車に命をかけているとはいえ、新開も年頃の男である。女の子にはそれなりに興味があったし、レース中に自分に向けられる黄色い声も嫌いではなかった。
だから、番号交換をしたがっているのであろう彼女たちの気持ちは非常に嬉しいのだ。本来なら、ぜひともお願いしたいところだった。

そう、本来なら。

けれど彼は、彼女たちが二の句を継がないうちに自分の顔の前で手を合わせ、申し訳なさそうに頭を下げて、少しだけ微笑んだ。

「ごめんね、今日はこの子を最優先してあげたいんだ」

その言葉を聞き、女の子たちは近くに彼女でも居たのかと目を見開いて彼の横を見た。流石に彼女のいる前で逆ナンはヤバい。
しかし、そこにあったのは、彼女でも、はたまた友人でもなく、彼が傍らに置いた大きな袋だけだった。

新開が袋の中の『なにか』にうっとりとした視線を送る。
まるで愛しいものに触れているような優しく、けれど情熱的な視線。傍目で見ているだけでこれなのだから、もしも、直接この色香の溢れる瞳に見つめられたら、ほとんどの女性が憤死してしまうだろう。
彼の色香に彼女たちが思わずゴクリと生唾を呑むと、車内アナウンスが次の停車駅を告げる声が聞こえた。

『次は、箱根湯本駅。箱根湯本駅です。お出口は、右側』

徐々に減速する電車。ブレーキの重力で、体が後ろに倒れそうになるのを誰もが堪えている。その動きが完全に止まると、開いた扉は丁度、新開の立っていた側の扉だった。

「じゃあね」

大きな袋を軽々と抱え上げ、新開が女の子たちに声をかけ、ウインクする。
固まる女性陣。閉まる扉。彼が下りた後の電車の中は、一部始終を見ていた女性たちの歓声で、それはそれは大層にぎやかだった。





**********






「一年、新開はいりまーす」

輪行袋を抱えた新開がやってきたのは、彼の所属する自転車競技部の部室だった。土曜日のこの時間では誰もいないとわかってはいるが、一応規則なので声をかける。
部員しか知らないダイヤル式の鍵ナンバーを合わせ、扉を開けて中を確認すると、案の定そこには誰もおらず、新開は息をついて部室の中に入った。

……これなら集中して出来そうだ。

鼻歌交じりに向かったのは整備室だ。ここにはありとあらゆるメンテナンスを行う為の道具がズラリと揃っているのだ。自転車が命の自転車競技部ならではの設備である。
新開は、肩に担いでいた輪行袋を床にソッと下ろすと、その包みを丁寧に広げた。

白い車体に、鮮やかなブルーのロゴが入ったロードバイクだった。

新開の愛車は黒のサーヴェロである為、もちろん彼のものではない。
サビかけた金具が。傷ついたままの車体が。この自転車がどれほどの間主人を無くしたまま待っていたを物語っていた。

「今からおめさんを綺麗にしてやるからな」

新開の指がなぞった、青の模様。ラピエールと書かれたそこに、静かな頬笑みを浮かべた。











寿一のように、彼女に尊敬され、手放しの好意を寄せられているわけではない。
尽八のように、彼女がどんな顔をしようとガンガン攻める勇気もない。

けれど、新開は他人より少しだけ彼女の過去を知っていた。
だからこそ使える『奥の手』というヤツが彼にはあるのだ。

――鍵になるのは、彼女の両親と、電話番号だ。

時をさかのぼること2年。
例の事故で、しおりが入院している際、新開はあしげく彼女の見舞いに行っていた。
そのため、彼女の両親からは熱心に通ってきてくれる友人と認識されていたらしく、退院の日、やっぱり見舞いに来ていた新開に、彼らは何かあればかけてくれと実家の電話番号を教えてくれたのだ。

しかし、あの頃の新開といえば、しおりに憧れを抱いてはいたものの、仲が良いというわけではなかったし、もちろん特別な関係でもなかった。
だから、教えられた電話番号は、今の今まで机の引き出しの中に仕舞い込まれたまま、存在すら忘れていたのだが、そんな時、高校でしおりに偶然再会したのだった。

久しぶりに会った彼女は、諦めたはずの自転車の間で酷く迷っていた。
三歩進んで二歩下がる、を体現するように、彼女は自分が捨てたものの前で右往左往して、今一歩を踏み出せないでいた。

きっとあとひと押しで、彼女は自転車の世界へ舞い戻ってくる。
そのひと押しの手助けを、何の影響力もない自分が出来るとするなら、この方法しかない。そう思った。

――彼女のラピエールを返すのだ。

彼女の過去に触れることができる唯一の人であること。これが新開の特権であった。



この作戦を思い立ってすぐ、新開が彼女の実家に電話をかけ、しおりには内緒で彼女の実家まで自転車を取りに行った。
出迎えてくれた彼女の両親は、新開を懐かしがりつつ、やはりたった一人の愛娘を心配しているようだった。

「あの子は自転車に未練があるのよ。退院してからずっと自転車を前に泣いていたわ」

あの事故は、自転車に触れることも出来ない程のトラウマを彼女に植え付けた。泥だらけ、傷だらけになった愛車を洗ってやることも出来ない不甲斐なさに、彼女はいつだってごめんなさい、ごめんなさいと謝りながら泣いていたのだという。

その姿を不憫に思った両親が、自分たちなりに自転車を洗車してみたものの、勝手がわからず表面のドロを落とすことしかできなかったそうだ。

だから、数年越しではあったが、自転車を整備すると申し出て来た新開に、両親は酷く感謝していた。

「あの子の為に、本当にありがとう」

目にうっすらと涙の幕を張り、新開の手を取る彼女の母親は、目元が娘ととても良く似ていて、まるで彼女に感謝されているような気分になり照れてしまう。
けれど悪い気はしなくて、何度も何度も手を握って感謝を表してくれる彼女の母親のされるがままになっていた。

……彼女もあんな風に喜んでくれるだろうか。それともトラウマを思い出して泣き崩れるのだろうか。

胸の中を支配して行く期待と不安をぶつけるように、新開は自転車専用洗剤で汚れを浮かしてブラシでこする。
長く整備していなかった汚れは頑固だったが、熱心に磨けば少しずつ綺麗になっていった。
これは、一日がかりどころでは済まなそうだ。

洗車に、注油に、ギアの確認。ボルト締めに、タイヤの空気補充。
やらなければいけないことは山ほどある。けれど、自分の手で自転車の本来の姿が蘇っていくのを見るのは嫌いじゃなかった。
まして、それが憧れの人の自転車なのだったら、尚更だ。

――自分は彼女の特別ではないけれど。

彼女に自転車の世界に戻ってきて欲しいという気持ちは皆と一緒だった。選手じゃなくてもいい。マネージャーでなくてもいい。どんな形だっていい。

ただ、ただ。
自転車が好きだと笑う彼女の姿を、また見てみたいだけなのだ。







 
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