123:頑張れ



「つ……つかれ、た……」

今日もヘロヘロになって自室のベッドに倒れ込む。トレーナーの勉強と称してプロのチームに出入りするようになって数日だが、しおりは毎日疲労困憊だった。

というのも、しおりの教育係になったトレーナーがかなりの職人気質で、『見て体で覚えろ』を地で行くような人なのだ。
慣れない外国語でのコミュニケーションだけでもいっぱいいっぱいなのに、彼はしおりにバンバン仕事を振ってくる。
……というか、言葉が通じないからこそ実際に動かせてくれているのだと思うが。
それでも仕事の量が半端ではなくて、しおりは朝から晩までてんてこ舞いだった。

なにせ、自転車競技チームのトレーナーにはやることが多いのだ。
ここに合わせたトレーニングの構築や提案はもちろん、メンタル面や衣食住も全てに気を配らなくてはならない。
しかもチーム専属のトレーナーは、他のスタッフの動きを見て、手が足りなそうならそちらにも手を貸したりするのでそりゃあもう、死ぬほど忙しい。

選手の記録計測、ドリンクの用意、大会の付き添い、事務所の掃除にパソコン仕事、なんでもござれだ!

それでも今はツール・ド・フランスが終わったばかりでこれでも多少落ち着いているらしい。
大会前はどんな状態だったのかと、考えるだけでもぞっとしてしまう。

とは言え、季節は夏。まだまだ自転車競技のシーズン真っ盛り。
必然、チームお抱えの選手が出場するレースの数も多くある。
仕事量が地獄のようにあるのは、しおりのような右も左も分からないヒヨッコさえ走り回らなければならない程の状況を見れば良く分かった。

そんなわけで、しおりはいつも満身創痍だったのだ。
帰って来て、最低限の食事を胃の中に放り込んで、朝まで泥のように眠る。
いくら若いとは言えど、やっぱり体力的にはキツかったが、自分が知らなかったこと、知りたかったことに一番近くで触れられるのはやはり心が躍る。
自分の実力以上のことを否応なしにやらなければならない環境に置かれている為、知識も技術も経験も、どんどん底上げされているのが自分でも良くわかった。

(それと、経験不足加減も嫌って程に)

ハプニングが起きたとき、他のスタッフが経験則で瞬時に反応するのに対し、実戦経験の浅いしおりは状況把握のために少なからず動きが止まってしまう。
コンマ一秒が勝負を分ける自転車競技の世界で、スタッフの動きによどみが出来て選手に迷惑をかけるなんてあってはならない。

しおりは、自分の課題は何よりそれだと改めて理解していた。

ごろり。ベッドの上であおむけになって、年季の入ったクリーム色の天井を眺める。
その右手には携帯電話が握られていた。

しおりがフランスに来てから、部員たちからポツリポツリと送られてくる近況報告のメール。
その相手は、葦木場だったり泉田だったり、はたまた他のマネージャーだったりはするが、4人からの連絡は未だ1度も入っていない。

……まさか、自分たちがメールをしたら私がホームシックになるとでも思っているのだろうか。

一瞬そんな考えが浮かんだが、すぐに「まさかね」と首を振って考えを否定した。
連絡してこないのはきっと『信じているから』だ。
自分が彼らにそう感じているように、彼らも自分を信じてくれているから。何も言わなくても、お互いに頑張っているとわかっているから。

「……でも、今日くらい連絡くれても良いのに」

現在時刻は7月31日の夜9時すぎ。日本時間は……8月1日の朝5時だろう。考えた瞬間、心臓がギュッと緊張した痛みを感じた。

もうすぐ、福富達の最後のレースが始まるのだ。
一日中酷使して疲れているはずの脳が、ぐっとインターハイの舞台に思考を引っ張られているのがわかった。

今、何をしているだろう。流石にまだ寝てるかな。
みんな朝食しっかり食べられると良いな。箱根は標高が高い分、真夏でも朝夕が冷え込むことがある。しっかり対策取って、万全の態勢で挑んで欲しい……――

気が付くと、しおりは自分の指が震えていることに気が付く。真夏なのにひんやりとした指先。いてもたってもいられなくなるような焦燥感。それは間違いなく『緊張』を表していて。

しおりはハハ、と力なく笑って震えを誤魔化すようにこぶしをギュッと握り込んだ。

信じている。それは確かだ。彼らの実力を疑ったことなんて、ただの一度だってない。
なのに、自分がその場に居ないことがこんなにツラいだなんて知らなかった。

フランス短期留学に来たことを後悔なんてしていない。良い経験が出来ているし、帰る頃には今までよりもっともっと良い練習の提案が出来るようになっている自信だってある。でも。

「見たかったなあ、」

この3日間で彼らが経験する激闘を、喜びを。汗も涙も、全部そばで一緒に感じたかった。

「見たかったよ」

福富と金城のリベンジ戦も、新開のトラウマを克服した走りも、東堂と巻島のライバル対決も、そしてたった2年で強豪校のレギュラーにまで上り詰めた荒北の努力の走りを。

後悔はしていないけど、傍にいられないことがただただツラかった。

ピピピピピ……

その時、突然手の中の携帯電話が着信音を鳴らし始めた。突然のことに驚いて、思わず携帯を取り落としそうになりつつも、何とか通話ボタンを押して耳に押し当てる。

「あっ、も、もしもし?」
『……』

電話の向こうから応答はない。え、まさかこのタイミングで間違い電話?と思って携帯の画面を見てみると、そこに表示されていた電話相手の名前を見て、しおりの心臓は一瞬止まりかけた。

荒北靖友

そこには確かにそう表示されている。
その瞬間フラッシュバックしてくるのは、空港での出来事だ。緊張を解いてくれると言った彼からの告白は、確かにしおりの一人旅の緊張を解いてくれた。
というか、しおりの脳を長いこと使い物にならなくしてくれたのだ。

彼に似た背格好の人を見ると目で追ってしまう。
彼が乗っているビアンキを街中で見かけただけでドキッとしてしまう。
彼と同じような石鹸の香りがするだけで。彼が好んだ食べ物をテレビで見るだけで。
何かあるたびに思い出してしまって、そのたびに意識してしまう。

最近ようやく仕事に忙殺されているおかげで頻度も減っていたのに、彼の名前を見ただけでもう駄目だ。

「荒北くん……」

恥ずかしくて、そんな自分に涙がこぼれそうで。助けを求めるように、自分をこんなにしてしまった原因の名前を呼ぶ。

『……なんつー声出してんだよ、ばァかチャン』

ああもう、そんな優しい声を出さないで欲しい。嬉しそうに笑わないで欲しい。
電話越しなのに彼の表情まで想像できてしまって、しおりの心臓がさらにキュウ、と締め付けられる。
それを悟られないようにと、精一杯普段通りの声を出した。

「っ……き、今日からインターハイでしょ?そっちまだ早朝なんじゃないの?どうしたの、急に……」
『急に、しおりの声聞きたくなった……じゃ、駄目かよ』
「うっ……だっ……め、じゃ……ない、けど」

私の心臓がもうダメだ。尻すぼみになっていく情けない声に、電話の向こうの荒北がおかしそうに笑う声が聞こえた。
そこでしおりは、そういえば自分がまだ彼への返事すら考えていなかったことに気が付く。むしろ、忙しく働いて告白を忘れてしまおうとしていた節だってあるのだ。

……え?いま?今返事するべきなの?

全く言葉が浮かばなくなって、さらにカチンコチンになっているしおりに、荒北はハッと息を吐いて『別にいま返事くれだなんて思ってねェ』ときっぱりと言い切る。

『それより、そっちうまくやってんのか?』
「え、と。うん、すごく忙しいけど。その分勉強になってるって感じてる。……荒北くんは調子どう?」
『絶好調に決まってンだろ』

いつでもフクちゃんゴールに叩き込める、なんて軽口を叩く荒北に、しおりは思わず声を上げて笑う。
あっ、と思った時には受話器から『やっと笑いやがったな』と満足げな声が聞こえてきて、その声に、しおりもこの感じで良かったんだ、とホッと出来た。

『あんなコト言ったんだから、意識すんななんて言えねェケドさ』

いつも通りで頼む、と請われたその声に、しおりも頷いて返す。
自分も、荒北との会話はいつも通りでいたかった。楽しくて、暖かくて、時に泣いてしまうような。そんな、心地の良い会話のままで。
この関係がどうなろうと、それだけは変えたくない。自分のわがままかもしれないけど、でもきっと荒北も同じように思っているだろうと、確信めいたものだけは感じていた。

「荒北くん、ありがとう」
『だから、なーんもしてねェって』
「電話くれて、ありがとう」
『オレが声聞きたかっただけだって言わなかったっけェ?』
「……好きって言ってくれて、ありがとう」
『……』
「返事、日本に帰ったらするから。絶対。だから……」

そっちで待ってて、と言った瞬間に、電話の向こうで何か悶えるような音と、感情を抑えきれないダミ声が聞こえてくる。

『いつも通りって言った途端にコレだよォ……』

などと、実に弱々しい声が聞こえてきて今度はしおりの方が笑ってしまう。
この人は、本当に私を好きなのだ。よりにもよって、こんな面倒くさいヤツを好きになってくれた。嬉しくて、恥ずかしくて、堪らない。
だけど嫌な感情ではないことだけは確かで。心の中に暖かな気持ちがたまっていくのを感じていた。

日本はもうすぐ朝6時。そろそろ皆起き出すころだ。
これから朝食に会議にウォーミングアップにと忙しくなるであろう電話口の彼に、「じゃあ、この辺で」と名残惜しさを感じつつも別れの言葉を切り出そうとすると今度は荒北の方から『あのさ、』と声をかけてきた。

『頑張れって、言ってくんねェの』
「だって、荒北くん頑張れって言われるの嫌いじゃない」
『頑張ってるヤツから言われるのはいいンだよ』

……何それ、難しい。

まあ、荒北自身が言ってくれと言ったんだから、言えばいいのだろう。
これを切ったら、もう自分の声は荒北には届かない。彼の性格だから、きっとインターハイが終わるまで連絡すらよこさないはずだ。
だから、想いを全部言葉に乗せる。

「信じてる、頑張って荒北くん」
『おぅ、任せとけ』

その言葉が、箱学自転車部にとってどれほど頼もしいか。彼は自分で把握しているのだろうか。
皆が彼に甘えている、皆が彼を頼っている。
それは私も一緒。支えてくれる、引っ張ってくれる彼がいなきゃ、あの最強のチームは作り上げられなかった。

返事をしたら何だか泣いてしまいそうで、しおりは静かに頷いて、そして通話ボタンを切った。

ふと、携帯電話を握っていた手を見てみると、先ほどまで氷のように冷たかった自分の指先が暖かくなっていることに気が付く。感じていた不安感や、緊張もどこかに吹き飛んでいた。

(ほら、やっぱり)

いつもいつも、知らない内に私を助けてくれる。
いくらありがとうって言っても足りないくらい助けてくれてる。

目が覚めたらインターハイ1日目は終わっているだろう。自分が知らない内に終わってしまうのだ。
なのにちっとも怖くない。だっていま、荒北が「任せろ」と言ってくれたから。

だったら私は信じるだけだ。信じてこっちで頑張るだけ。
目をつむった先の闇は、何だか酷く暖かい。まどろむ意識に抗わず、ふわりと夢へと落ちて行った。




 
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