12:青春かぶれのクライマー



薄暗い箱根の道を、二人乗りしたママチャリが走っていく。本当にママチャリなのかと思うくらい早いのは、運転している彼が自転車競技部の男だからだろう。歩きとも、自動車とも違う景色の流れ方に、後ろに座る少女は遠い昔に見た懐かしい景色を重ねていた。

自分の漕ぐ力加減で早くも遅くもなる景色。飛ぶように駆けてみたり、景色を眺めてみたり。自分をどこまでも連れて行ってくれるその乗り物が、少女は好きだった。

あの事故さえなければ、自分は未だに自転車乗りでいただろう。レースにも出ていただろうし、ジェットコースターが苦手になることも、一人の暗闇が怖くなることも、きっとなかった。
過去に戻ることなんて出来やしないが、どうしてもそんなことを考えてしまう。二年たった今でもそれは変わらない。それくらいに、彼女の中で自転車は大きな地位を占めていたのだった。

そんな感傷に浸っていると、ふと、体が後ろに引っ張られているような感覚がして、しおりはペダルをこぐ東堂の体の横からひょこりと進行方向を覗き見た。
この重力の掛かり方は、坂道だ。しかも結構なこう配がある。平坦な道を行っていた先ほどよりもかなりスピードがかなり落ちているのを見れば、一目瞭然であった。

山道に入り、東堂の息も上がり始めている。寒そうだと思っていた薄手のインナー下の肌が、すでにじんわりと汗ばんで熱を持っていた。

一体どこを走っているのか。そう思って辺りをきょろきょろ見回せば、途中にあった案内板で、この道が、周辺で一番高い山へ続く道路だということがわかった。なんで、山?

「東堂くん、降りようか?」
「駄目だ、乗っていろ」
「でも……」

横乗りでは、踏ん張れないし、体が重力に引っ張られてどんどん落ちてくるので、いくらクッションがひいてあると言ってもあまり乗り心地が良くないのだ。
それに、東堂だって辛そうだ。どれだけ坂が得意なクライマーといえど、今はロードバイクではなく、ママチャリである。ひとりでもキツイのに、しおり分の体重も余計にかかっているとなれば、彼の負担の大きさは想像に難い。

なのに彼は絶対にしおりに降りることを許さず、汗だくになりながら坂道を登っていた。

どうしてそこまでするのか。一体自分に何を見せたいのか。下手に降りることも出来ずに問いかけまくれば、彼はいきむ様に言い放った。

「だ、大丈夫だ!しおりを乗せてこの坂を上ると決めたのだ!!!」

それは、どこかで聞いたことのあるセリフだった。日本の有名なアニメで、こんなシーンはなかっただろうか。
そういえば先ほどの寮でのことも、『夜中にふいに目を覚ました主人公の女の子が窓の外を見ると、そこには意中の男の子が立っていて、見せたいものがあるからと女の子を自分の自転車の荷台に乗せた』あのシーンにそっくりではないか。

まあ、あのアニメの主人公達とは違い、東堂の場合は小石を窓に投げて無理やり起こしたのだけれど。
となれば、彼の見せたいものも大体想像はつく。気付いてしまったらなんだか笑えて来て、しおりはうろ覚えの記憶で劇中のセリフを読んだ。

「そんなのズルイ。お荷物だけなんてイヤ!」
「……しおり!?ふ、ふはは、そうか!じゃあ頼む、頂上までもう少しだから」
「え、誰が手伝うって言った?応援はしてあげるから、最後まで私乗せて登りなさいよ、クライマー」
「なんなのだ!せめて最後まで演じきってくれ!!」

どうやら青春映画を再現したかったらしい東堂の幻想をしたたかにぶち破ってしまったようだ。彼はしばらく理想がどうの、青春がどうのとぶつぶつ言っていたが、ペダルを踏む足だけは止めなかった。
頂上に近づくにつれどんどん急になっているのに、それでも上って行く。どんなにつらくても、坂道で足をつくのが嫌いなのがクライマーのプライドというやつである。

(青春かぶれのクライマー……か)

確かに、あの自転車競技部の練習量じゃ、男女の青春を謳歌している暇などないのだろう。
じゃあひとつ、夢でも見せてあげようかと、彼の背中にそっと身を寄せた。









結局アニメのカップルとは違い、自分ひとりの力で坂道を登り切った東堂は、頂上に着くや否や、やり切ったとばかりに足をつき、荒く息を吐き出していた。

そんな東堂を横目に、しおりは自転車の荷台からひょこりと飛び降りると、白く明るんできた空の方をじっと見つめ、指をさす。

「東堂くん、何してるの。陽が出るよ」

言うや否や、目前で大きな太陽が赤い光を放ち、ゆっくりと顔を出し始めた。周りに高い建物がないからこそ見られる幻想的な景色に思わず感嘆の声を上げれば、東堂が隣でキザッたらしく笑ったのが聞こえた。

「ここは、オレの秘密の場所なのだ」
「あ、まだやってたの。耳をすませばごっこはもういいったら」

美しい景色に似つかわしくない東堂の一人芝居に思わず噴き出せば、最初は大まじめだったはずの彼もまた、つられたように笑い声をあげた。

暗かった町が、太陽の光とともに色を取り戻していく。ガラスが、プールが、全てがキラキラと輝いて、この辺りで一番高い景色は、心にジンと来るくらい、美しかった。
しばし、黙って太陽の誕生を見守っていると、丁度太陽の全貌が見えたところ位で、東堂が口を開いた。

「頂上から見る景色は美しいだろう?」
「そうだね」
「オレは、だから山が好きなのだ。山の頂上は『てっぺん』だ。そして一位を獲ることも『てっぺんを獲る』と呼ばれている。すなわち、山での一位が全ての頂点なのだ!!」

自信満々に両手を広げた東堂の顔も、朝焼けに染められキラキラ輝いている。
彼の言っている理屈はおかしいが、まあ、言わんとしていることは分かるので、否定はしなかった。

山は綺麗だ。風に吹かれる木々のざわめきが。遠くに見える他の山々の山脈の形が。何もかもが、ちっぽけな自分を包みこんで受け入れてくれる。
自分が怪我をしたのも山だけど、それでも美しいものは美しい。落ちることと暗闇は駄目になってしまったけど、山だけは、憎む気になんて、なれなかった。

これはきっと、坂が好きな自転車乗りに共通している感覚だ。
事実、いま山の頂点に立っている東堂も、いつもより楽しそうで、そして少しだけ、男らしかった。

「次のてっぺんは、インターハイのてっぺんだ。オレが皆を連れていく」
「……東堂くんは頼もしいね」
「当たり前だ!もちろんしおりにも見せてやる。だから、是非マネージャーに」
「やめてよ。私なんて、居たって何の役にも立てないよ」

自転車が嫌いな自転車競技部マネージャーなんて、聞いたことがない。何より、部員の士気を下げてしまうだけだ。
だったら自転車好きな、自分よりもっと適当な人がいるだろうと言えば、東堂は間髪いれずに首を横に振り、しおりの言い草を否定した。

「しおりは、自転車が好きだろう?」

自信満々の笑顔が、しおりに向けられる。その返しにしおりの方が戸惑ってしまった程だった。
だって、もう何週間も自転車など嫌いだと、マネージャーなどやらないと宣言して逃げ回っている。そんな自分の姿を一番近くで見ているのは、他ならぬ東堂なのだ。
自転車が好きなんていうそぶりは、一度だって見せたことがないはずだ。なのにどうして、と思案を巡らせていると、東堂は「わからないのか」と朗らかに笑った。

「先ほど女子寮の前で、オレが通報されるされないの話をしていたとき、しおりは真っ先に部活の心配をしただろう?部員でもない。マネージャーでもない。でも、大会のことまで考えてくれていた」
「う……」
「自転車が本当に嫌いなら、そんな発言絶対にしない。オレがどんなヘマをしようと、無視するだけだ」

本当に、口の減らない男だ。
正論をいくつも並べて、こちらを追い詰めてくる。せっかく今まで押し殺して、閉じ込めていた自転車への感情の扉を、ガンガンノックしてこじ開けてこようとするのだ。

しおりが言い返せずに黙り込むと、東堂はそれ以上は何も言わず、止めていたママチャリにまたがって、しおりに振り返った。来た時と同じように、また荷台を手で叩いて乗るように促す。
今度はわざと荷台を跨いで乗ったが、彼は何も言わなかった。


もう見ることのないと思っていた頂点の景色。
東堂が見せてくれるといった頂点は、毎年全国でひと校しか見られない、特別な景色だ。
それは、今日の景色と同じくらい美しいのだろうか。それとも、もっと綺麗で、尊いものなのだろうか。

(見てみたい、)

見てみたいけど、まだ踏み出せない。
気持ちが揺れている、この果てのない戸惑いを胸にしまって、遠くなっていく山頂をただ見つめていた。





 
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