121:高度一万メートルの苦悩



握りしめた手が酷く震えている。誰にも悟られないように肩にかけたカバンの持ち手を強く握りこめば、力を込めた指先が白く変色したがやっぱり震えは止まらなかった。

いま鏡を覗きこんだら、きっとひどい顔色の自分が写るだろう。最近は留学の緊張と興奮でよく寝られなかったし、昨夜などはウトウトとしかけるものの、その度に寝過ごして飛行機に乗り遅れる夢や、電車の遅延で搭乗時間に間に合わない夢を見て何度も目が覚めたので休んだ気になどなれなかった。

旅立つ前に化粧室で確認してメイク直しをした方が良いのかもしれないが、とてもじゃないがそんな気分にもなれず、ただただ自分の調子の悪さだけを自覚するだけに留めていた。
……というか、いま鏡なんて見ようものなら確実に憂鬱になるだけだ。
それは熱っぽいようなそうでもないような時に体温を計って数値が平熱より高いのを見ると一気に具合が悪くなった気がするあの現象と同じ。

鏡に映った青白い顔の少女が不安そうな表情でこちらを見ているのを想像する。
途端、意識がネガティブに持って行かれそうになり、しおりは慌てて首を振ってその幻想を打ち消した。

来たる日の夏の日差しは、今年も耐え難い猛暑を日本にもたらしている。
空港の巨大なガラス窓の奥に見えるグレーの滑走路も強い照り返しで白んで見えて、その眩しさにクラクラしそうになりながらも広い外の景色を眺め続けていた。
眼下にあるのはこれから何百という人を抱えて飛び立たんとする鉄の鳥だ。あの巨体がどうして空を飛べるのかという疑問は尽きないが、説明されたところできっと何ひとつ理解できない。
また一機、目の前を滑るように走り出し、軽やかに飛び立っていった飛行機の姿を見送って、しおりはハア、と本日何回目になるかわからない大きなため息をついた。

しおりが生まれた佐藤家は飛行機を使った旅行をさほどしない家であった。父方、母方共に関東の生まれであり、どちらの実家に帰るにも電車か車で事足りるし、しおりが物心がつき自転車に夢中になり始めてからはどこに行くのもサイクリングが基本になっていたので乗る機会がなかったのだ。
それでもしおりが生まれる前などは夫婦で日本各地に旅行したり、彼女をおなかの中に抱えつつの新婚旅行も海外だったらしいのだが、しおり自身が飛行機に乗る経験などほぼないと言って等しい。

そんな彼女がこれから一人で飛行機に乗る。しかも目的地は遠いフランスだ。不安がないはずがない。
空港についてからずっと緊張で表情を硬くしている一人娘に、彼女の両親も心配そうに俯きがちな彼女の様子を見つめていた。

「しおり!飛行機なんて乗っちゃえば寝てる間に目的地に着いちゃうんだから全然怖くないのよ!」
「そうだぞしおり。何も心配いらないんだからな」
「うん、ありがとう。お父さん、お母さん。私は大丈夫よ」

ぎこちなく笑うその顔が無理をしていることくらい生まれてからずっと彼女を見つめてきた両親であればすぐに判断が付く。誰に似たのか、どんなに不安でも両親に弱音を吐き出すことすらしない気丈で頑固者の娘を、両親は困ったように見つめるしかできなかった。

見るからに心細いという表情をして。それでもそれを口に出さずに笑って見せる。娘のいじらしさに、両親はもう一度力いっぱい抱きしめてから搭乗のチェックインと荷物カウンターへと向かう。
本当なら娘にべったりと側についていたい所だが、先ほどから視線の端にしおりを見つめる4人組の姿があるのだ。見送りに来てくれた友人達だろう。何人かはしおりが中学の頃からの顔見知りであるし、数か月前の事故の時、彼女の入院先に真っ先に駆け付けて来てくれた顔ぶれでもあった。
両親がそちらに向かって会釈をすると、彼らもペコリと頭を下げる。しおりは背後の彼らに気が付いていないのか、離れて行く両親の姿を心細そうな顔をして視線で追っていた。

置いて行かれた、迷子のような所在なさ気な顔だった。
人ごみの中に消えていく両親の後ろ姿にしおりが再度俯きかけた……――瞬間。

「何て顔をしとるんだ、しおり!」

よく通る美声が彼女の名を呼び、しおりはびくりと肩を震わせる。
振り返れば、してやったりという顔で立っている東堂と、そんな彼の奇行を『またか』というあきれ顔で見ている3人の姿があった。

「え……な、なんで?なんで皆がここに……――」

彼女が驚くのも無理はない。何故なら今は夏のインターハイを来週に控えた大事な時期。王者箱学は、その王座死守の為に他のチームより一秒、一回でも多くペダルを踏むために練習しなければいけないのだ。
しかもここにいる4人は、たった6人しかない箱学のレギュラー枠を勝ち取った男達だ。本来なら一番こんなところに来ている場合ではない4人だ。

そんな状況であるから、しおりも練習時間を最優先にして見送りは必要ないと言ってあったのに。ふたを開けてみれば勢ぞろいとはどういうことか。
先ほどとは違った意味で青くなっていく彼女の顔色に、4人は困ったように笑いながら彼女の元へと足を進めた。

「れっ……れれれれ、れ!」
「ふむ。練習ならこの後すぐに戻れば調整できるな」
「主っ!副……!!レギュ……――!!」
「他の奴らのことも練習メニュー組んできっちり任せてあるよ」
「こなっ……いいっ、て……!!」
「おいおい、いくら大事な時期でも仲間を一人で行かせるようなマネは出来ないだろ?」
「……ば、ばかァ!!」
「こんなとこで緊張してガッチガチになってるオメーが一番ばぁかチャンだろが。目的見誤ってんじゃねえぞ」

言葉にもならない支離滅裂な言葉に、欲しい言葉で返してくれる男たちに四方を塞がれて逃げることすらできない。
まるで、2年前のようだ。自転車から逃げ回っていたしおりを追い込んで、説得して、背を押してくれた。あの時のよう。

皆あの頃よりも背も伸び、体つきも男らしくなって、精神的にもずっとずっと成長した。一目であの頃とは違うとわかるはずなのに。それでも根本的にはまるで変わっていないのだ。

「……お人よし。いつだって自分のことは二の次の、生粋の自転車バカ」

自分を囲む男達をわざと恨みがましく睨みつけ、そんな風に呟いてみせる。
すると彼らはニヤリと笑って一斉に口を開く。

「「「「お前が言うな」」」」

綺麗にそろったその声に、しおりはその日初めて心の底から声を上げて笑った。






**********







「しおりー!手荷物検査場もうすぐ閉まるからすぐに通ってくださいって!」

無事チェックインを済ませ、荷物を預け終わったらしい両親が少し遠くから声をかけてきた。たぶん、少し前から待ってくれていたのだろう。来てくれた4人に視線を合わせ、少しだけ名残惜し気に微笑んでから両親の方へと向かう。

……いよいよだ。
そう思うと、解れていた気持ちがまた強張っていくのを感じる。両親と最後のハグをして、手荷物検査場の列に並ぼうと一人で歩き出す。搭乗チケットを握りしめ、これから自分と同じく海外へ旅立とうとする人たちの列へと向かった。

(大丈夫、大丈夫)

ついさっきまで暖かかった指先が緊張冷えていくのを感じる。振り返ると、他の搭乗者の邪魔にならないようにと少し離れたところで手を振る両親と友人たちの姿があり、それに勇気づけられてまた前を見た。

チャリン。

指先が鞄のキーホルダーに触れた。荒北がくれたラピエールのキーホルダーだ。とっさに指でパチンと外して胸の前でギュッと握りしめる。触っていると勇気がもらえるような気がしたのだ。一人じゃないと言われている気がしてそれだけで力が湧いてくる。不思議な感覚だった。
ドキドキと高鳴る心臓が、もう不安の音だけを奏でているわけではないことを感じていた。でもまだ足りない。踏み出すには、まだ。

(もっと、もっと、もっと……――!!)

祈るようにキーホルダーを唇に押し当てた時。突然しおりの肩に手がかけられ、体を反転させるように引っ張られる。そのまま大きな胸に力強く抱き込まれて、息が止まるくらい驚いてしまった。

「……冷てェ」

耳元で囁かれた低い声にビクリとする。反対の耳はドッドッドと、激しく鳴る心臓の音を聞いていて、それがこの人の鼓動だということはすぐにわかった。抱きしめられたとき、一瞬だけ変質者かとも思ったが、しおりはこの体温を、この心音を、匂いを。知っているのだ。

(荒北くん)

わざわざ顔を上げて確かめる間もなく彼の胸に強く顔をうずめると、くすぐったそうな声が漏れたのが聞こえた。

「まだ緊張してんのか」
「……うん、少し怖くて」

両親にも漏らせなかった弱音が、どうしてか今は何の抵抗もなくするりと口から漏れ落ちた。

「緊張、解いてやろうか」
「できるの?」
「さあ。お前の気持ち次第だな」

それは、どういうことだろう。
抱き締められていた体がソッと彼から離され、見上げた先には思った通りの人の強面がある。しおりがぼんやり見上げていれば、彼の節くれ立った長い指が肩の辺りまで伸びたしおりの髪をさらりとすくいあげた。

「諦めなきゃいけねえと思う場面が山ほどあった」

指の間をサラサラと指通り良く落ちていく髪の向こう。彼の目が自分を見ていた。

「お前と似合いな奴なんて星の数ほどいた」

最大限までボリュームを押し殺した声が、囁いていた。

「でも無理だった。諦められねえ」

いくら鈍い自分でもここまで来たら、彼が何を伝えようとしているのかくらい理解できる。
今聞こえている煩いくらいの心臓の音は、自分のものだろうか。それとも、彼の?
わからないまま、ただ体温だけが急上昇していくのを感じる。彼もそれを感じ取ったのか、酷く愉快そうに顔を歪め、トドメの一撃を打ち込んだのだ。

「なあ、知ってたか?オレは、お前が好きなんだ」







**********







突然の告白に呆然としている間に背中を押され、呆然としている間に手荷物検査場をぬけ、気が付いたら飛行機に乗って日本を飛び立っていた。
待合ロビーで待機している間も、あの場にいた荒北以外の面々からガンガン連絡が入っていたようだったが、それを気にしていられるほどしおりの頭のキャパシティは大きくない。どこかで流れていた『機内では携帯電話の電源をお切りください』の放送と同時にほぼ無意識に電源を切り、鞄の中に突っ込んでしまっていたようだ。

そうしてやっと正気に戻ったのは、フランスに向かう上の空だった。
出発からかなり時間が経っているのか、機内は消灯され薄暗い。周囲からは寝息も聞こえていて、就寝時特有の生ぬるい空気のようなものを感じられた。
いつの間にか食事も食べていたようで、けれどもボーッとしすぎて何を食べたのか全く思い出せない。人生初の国際線の機内食を味わって食べられなかったことに多少落ち込みながらも、諦めて身体を背もたれへと沈み込ませた。

とにかく、無事飛び立てたのなら寝てしまおう。連日の疲れと寝不足もあり、身体は睡眠を求めているはずだ。
フリース毛布に体をくるみ、狭い座席の中、なんとか落ち着ける体勢を見つけて目をつむる。

けれどもしおりがどれだけ静かな暗闇を望んでも、瞼の裏に映るのは数時間前の荒北の言葉と彼の笑顔なのだ。

『知ってたか?オレは、お前が好きなんだ』

ついでに抱きしめられた時の彼の体温も思い出し、どうにもいたたまれなくなってガバリと身体を起こした。

「……知らないよ」

声にならないような声で呟き、両手で顔を覆う。
知らなかった。彼がそんなことを思っていただなんて。そんな風に思ってくれていただなんて、自分はちっとも知らなかったのだ。
ただ彼は優しいから。面倒見がいいから自分を気にかけてくれるのであって、決してそういう類の感情からではないと思っていた。

(いつから?)

いつから、彼は自分を好いていてくれたのだろう。

(どこを?)

だって自分は相当なじゃじゃ馬だ。女の子らしい部分なんて、全然見せていなかった。特にあの4人には本当に全てを曝け出していたし、だからこそ好きになる要素なんて皆無だろうに。

というか、突然の告白に驚くあまり自分は彼に告白の返事をしていない。いつすればいいのだろう。フランスについたらすぐ?いや、でも到着した時には向こうは夜中だ。じゃあメールで?……いやいや、せっかく面と向かって告白してくれた相手に文面で返事はダメだろう。それに、なんと返事をするかも決めていない。

――自分の気持ちも、まだ定まっていない。



確かに彼の言う通り、飛行機に乗る緊張は解けた。が、これでは余計に寝られない。
心臓がまだドキドキいっている。エアコンが利いているはずの機内も、妙に暑くて毛布すら被っていられない。

「荒北くんの馬鹿……」

心の中を占領し続ける彼の笑顔に、高度一万メートルの空の上で悪態をついた。


 
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