120:夏の後悔を振り切る方法



薄い青色をぼんやりと見上げていた。箱根の空は穏やかだ。降水確率もゼロパーセント。今日は四月上旬並みの気温になるらしい。

全くのお出かけ日和だ。運がいい。

機嫌よく手に持っていたベプシの残りを一気飲みし、自販機横のゴミ箱に投げ入れる。すると、ちょうどその時こちらへ向かってくる足音が聞こえてきて、荒北は音の方へと振り返った。

「おはよ、荒北くん」

手をひらひらとさせながら近づいてくるのは本日の待ち合わせ相手の佐藤しおりだ。
白のダウンジャケットに黒のパンツ、首元には薄ピンクのマフラーが巻かれている。普段あまり彼女の私服を見ないため新鮮で、思わずじっと見つめてしまうと、彼女も自身の服に目を落とし、それから荒北の方へ視線を向けてマジマジと彼の服装を観察すると、プッと吹き出すように笑いだした。

「な、なんだよ!」

自分のコーディネートが変で笑われたのかと、荒北は慌てて自分の服を見る。
黒のダウンジャケットに白のパンツ。マフラーはブルーだ。
……至って無難な格好だと思うのだが。

戸惑う荒北に気がついたのか、しおり「あ、違うの」と顔の前で手を振り、自分の服と荒北の服を交互に指差すと、照れたような笑みを浮かべて少しだけ声を小さくする。

「これ、お揃いみたいじゃない?」

……確かに自分たちの格好は、パッと見て全てが揃っている分かりやすいペアルックというわけではないが、上下の色とマフラーが反対色になっていて、これはこれでペアルックに見えないこともない。

でも、だからって何故コイツはそういう可愛いことを面と向かって言いやがるのか。

口元が弛みそうになるのをグッとこらえるように口をへの字に噤むと、気恥ずかしさを誤魔化すように彼女のおでこを手のひらでペチリと軽く叩いた。

「バカ言ってねえで行くぞ」

そうやって彼女を駅中へと促すとしおりも「はぁい」と間の抜けた返事をして、荒北のあとをよちよちとついてくる。その無邪気さと緊張感のなさに、荒北は思わずため息が出てしまうのを止められなかった。

彼女を好いている荒北の目標は、いかにしおりに早く自分を異性として意識してもらうかである。だから、本来なら彼女が無意識にやっているであろうこういう思わせぶりな行動を利用して距離を縮めたほうが良いのだろうが、いま彼女にヘンに自分を意識させてしまうと、きっと後が持たない。

だって今日は一日中二人きりなのだ。天気は良いし、偶然にもペアルックなんて幸先も良い。それに二人で出かけるなんて、こんなチャンスは滅多にない。だからここで焦って関係を推し進めて失敗なんてしたくはなかった。

駅の中へと連れ立って歩く途中、ふと視線を向けた彼女の表情は安心しきった顔をしていて。
この関係のもどかしい甘さが妙にむず痒かった。



改札を通り、彼女の指示で下り電車に乗り込む。
日曜の午前中なのでそれほど混んでもおらず、所々空いている座席にすんなりと座ることが出来た。離れて座るのはおかしいので隣同士で座れば、歩いている時より近い距離になる。田舎の鈍行電車がのどかにガタゴトと車体に振動を送ってくるたびに互いの肩のあたりが触れ合って、彼女に触れている部分の感覚だけやけに過敏になっているような気がしてならなかった。

「で?オレはどこに付き合えばいいワケ?」

電車の速度も安定してきた頃。荒北がずっと考えていた疑問を何でもない風に話しかければ、しおりは待ってましたとばかりの顔をして、ゴソゴソと鞄から一冊のノートを取り出した。

「あのね、これ!協力して欲しいの!」

そう言って掲げたノートの表紙には見慣れた彼女の綺麗な字で書かれた題目が踊っている。
『夏合宿計画』と書かれたそれに、荒北は内心『やっぱりな』と息を吐いた。

大体、彼女が休日に部室以外で出かけると言ったら大概が自転車関係か部活関係の用事なのだ。例外としてはクラスの女子と買い物行ったりスイーツ食べたりはしているらしいが、それでも目を離すとすぐに出先の自転車屋やら偶然やっていたレースやらに気を取られて迷子になってしまうのだと、そんな話を彼女の友人達が笑い話として話していたのを聞いていたこともある。

だから今回、誘われた時点で何かしら自転車関係だろうとは予想はしていたのだが……まさか夏合宿の計画だとは思っていなかった。

今は三月。合宿は八月。気が早すぎるにもほどがある。このぐらいの時期なら新入生向けの企画やインターハイ向けの練習計画の予定を立てる方が先なのではないだろうか。
夏合宿の企画ならもう少し遅くても……――。そこまで考えて、ふと合点がいって口をつぐむ。

早すぎることはないのか。だってこれから彼女は留学準備でバタバタしだすのだから。パスポートの準備をして、休みの日は留学に必要なものの買い出しをして、留学に必要な書類の準備をして、それにフランス語の練習もだ。
それを全部やっていたら、とてもじゃないが時間なんて足りない。
だから『今』なのだ。今しかできないから、彼女は今に懸命になっている。

そういう生き方を応援するために送り出すと決めたはずだ。
けれど、彼女は確かにここにいて、明日も明後日もそばにいて。彼女が傍にいない生活が来るなんて実感がわかなくて。だから実感も湧かなくて、すっかり失念していたのだった。
彼女は数か月後には行ってしまう。こちらに実感があろうとなかろうと、彼女はすでに自分の夢に向かって動いていて、その日は必ずやってくる。

(覚悟が足りてないのはオレの方か)

二人きりで出かけるとか、ペアルックだとかそんな所で浮かれている場合じゃない。ここは、せめてしおりが悔いや心配を残したまま渡仏になったりしないように協力してやるところだ。
差し出されたノートを手に取り、パラパラとページをめくってみる。
手書きでびっしりと書きこまれたデータや、赤字で書き足された項目。もうかなりの項目の下調べが終わっていて、今日は宿泊施設の見学と練習コースの下見、それに個人練習用のメニューも数人分決めるとのことらしい。

これだけ調べるのに一体どれだけの労力をかけたのか。ちょっと引くぐらいの情報量に、ノートから目を離しチラリとしおりを見れば、荒北のそんな感情が伝わったのか、彼女は誤魔化すようにアハハ、と空笑いをしていた。

そういえば、去年も、一昨年の夏合宿もしおりが仕切っていたが、まさか今までこのレベルの立案を一人でやって監督やコーチ、それに主将たちにプレゼンして説得してきたのだろうか。いや、きっとそうなのだろう。でないと箱学のようなインターハイ常連校がおいそれと今まで守ってきた練習方法を変えるとは考えられないから。

スイッチが入ると止まらない、彼女らしいといえば彼女らしい熱心さには、関心するが同時に呆れもする。
そしてふとした瞬間、畏怖すら覚えるのだ。

彼女が入部した年。荒北は、先輩たちがしきりに『佐藤は怖い』と言っているのを聞いて、この自転車馬鹿なだけの女のどこが怖いんだと疑問に思っていた。
だが、今ではその言葉の意味を誰より理解している。
パッと出の、自転車乗りですらない女が、いきなり目の前で持ち前の体力・頭脳・精神力をフル稼働させて部活の為に全身全霊注ぎ始めたりしたら、そりゃあ怖い。しかもそれが反論の余地もなく的確で、自転車競技部が今までやってきた伝統すら覆す説得力があったら。自分が生きてきた中で出会った【女】のイメージをぶっ壊していくような、そんな女が目の前に現れたら誰だって怖いと感じるに決まっている。

今でこそ彼女の自転車バカは部内外でも有名だが、当初先輩たちはこんな人種が本当に存在することすら信じられなかったのだろう。
だからこそ、先輩たちはそれを『怖い』と表現した。
彼女の自転車への熱意を表現するためにはその言葉しか見つからなかったのだ。

「……怖ェ女」

しおりに聞かれてしまわないように、口の中だけで呟いてみる。

出会った当初はただのおてんば娘だったくせに、どんどん成長して、どんどん魅力的になって。自分には必要ないと思っていた【大事な存在】とかいうやつにあっという間に成り代わっていた。そんなやつ、コイツだけだ。

……コイツ以外、いてたまるか。

「あ、この駅で降りるよ!」

弾んだ声に意識を引き戻されて、彼女を見る。これから三月の寒い外気に晒されるというのに何が嬉しいのか、いそいそと電車の扉の所まで行って、そこが開くのを今か今かと待っている彼女の姿に笑えて来る。

暖房の利いた電車内は快適だ。座席もクッションが厚くて座り心地がいい。
それでも彼女の隣にいられるなら寒い思いをしたって良いと思ってしまうなんて、我ながら泣きたくなるくらいの重症っぷりだ。

開かれた扉と共に飛び出していく彼女を捕まえるために、居心地の良い空間から腰を上げた。






**********







薄雪の積もる中を歩いてまず向かったのは今年の合宿予定地だった。駅からの距離はあまり気にしない。どうせ夏合宿用にバスを何台かチャーターして直接施設に入るからだ。
駐車場の位置と広さを確認してから、あらかじめアポを取っていた施設管理人に案内してもらい施設内をぐるりと見て回った。部屋数、炊事場、給湯室の数。大浴場の大きさも十分だ。
施設にはトレーニングルームや室内運動場もあり、自主トレなどにも活用できる。しおりはその全てをメモ帳に書き出し、気になった点はすべて質問していた。

それが終わると周辺地図と地形図を照らし合わせながら練習コースを決めていく。
この施設の周辺に複数ある道路のほとんどは施設が管理してるものであるらしく、合宿中は好きに使っても良いとのことだった。

候補になったコースは実際歩いてみる。
本当は自転車で走るのが一番なのだと彼女が息巻いていたが、積雪残る道ではまず無理なので二人で徒歩で進む。道路幅も広いし、変な割れやゆがみもなく状態も良い。

施設の裏山に続く坂道には最大勾配15%の激坂や、急カーブ、つづら折りなどもあってクライマーの練習にも最適だ。黙々と坂道のコースを歩いて行けば、流石に三月と言えども額にはじわりと汗がにじみ、徐々に息も上がってくるというものだ。

「ねえ、そういえばね」

同じく、いささか息を切らせた様子のしおりが声を掛けてくる。その声に反応して坂道の先にいるしおりを見上げると、彼女の視線はまっすぐと坂の上を見つめたまま話を続けた。

「黒田くんがね。最近のぼりの調子いいみたいだから、合宿もクライマーメニューで組もうと思うんだけど、どうかな?」

今まで黙々と歩いていたくせに、久しぶりに口を開いたから何かと思えば、今度は個別メニューの話題らしい。大方、こんな坂道をのぼっているからクライマー候補のことを思い出したのだろう。

彼女は、良い意味でも悪い意味でも気になる点のある選手には全体練習とは別に、個別メニューを組みこむことがある。実際荒北も、自転車を始めた当初にあった右ひじをかばうようなハンドルへの体重の掛け方を矯正するために、均等な負荷をかけられるよう徹底的に練習させられた経験があった。

いま話題に上がった黒田については、【良い意味】で気になる選手なのだろう。
せっかくの二人きりの時間にいきなり話題に出てきやがったことにはイラッとするが、荒北は彼女の質問に答えるために件の後輩の練習の様子を思い出して口を開いた。

「アイツは……無駄に器用なだけが取り柄だ。たぶんやらせればどのポジションでもいける。折り合い見て他のポジションの練習にも混ぜた方が良い」

すると、先ほどまで坂の上にしか目を向けていなかったしおりの足がピタリと止まる。何かと思って荒北も足を止めれば、彼女は急に荒北の方を向いて、真ん丸な目でジッと見つめてきた。

「なんだよ」

彼女の意見を否定したことがそんなに気に食わなかったのだろうか。内心焦る荒北だったが、しおりに怒っている様子など微塵も感じられない。むしろ、驚いた表情をしていた次の瞬間にはパアッと顔を綻ばせ、見ているだけで眩しいと感じてしまうくらいの良い笑顔を向けて、喜んでいるようだった。

「やっぱり、今日荒北くんに頼んで良かった」
「……そりゃどーも」
「こういう意見って私から見た選手と、選手から見た選手のイメージがどうしても食い違いが出来ちゃうから、きちんと見てくれてる人に聞きたかったの」
「はあ?だったら福チャンに聞いた方が確実だろ」
「うん、まあ絶対的な統率が出来るのは確かに福ちゃんだけど。一人一人の本質まで見てるのは荒北くんだよ」

――だから人に好かれるでしょう?だから後輩が慕ってくるでしょう?それだけ信頼されてるのは、自分のこと見ててくれる人だってわかってるからだよ。

聞いているだけで恥ずかしい言葉を、何の迷いもないまっすぐな瞳と共に語られて、荒北は湧き上がってくる感情で胸が熱くなるのを感じた。

違う。オレはそんなんじゃない。
だってオレが見ているのは見どころのある奴だけだ。他の奴なんて興味もないし、自分から接しようとすら思わない。

そんなオレが信頼される人間なら、それじゃあお前は何なんだ。

皆を分け隔てなく見ていて、皆から好かれていて。信頼されて大事にされているお前は。佐藤しおりという人は、自分の立ち位置をどこだと思っているんだ。……そう聞いてみたかった。

もしかして、これだけ人に頼られているのに彼女は自分で気付いていないのだろうか。
自分がこの部になくてはならない存在なのだと。唯一無二の存在なのだと分かっていないから、こんなことを言い出すのだろうか。

現に、今の部員たちは毎日毎日何かあるたびに自分の背丈よりも大分小柄な彼女を頼って甘えているし、監督やコーチだってそうだ。彼女の留学には快諾したが、引退後のマネジメントのことや、卒業した後の部への指南についても既にオファーしているらしい。

今の箱学にも、未来の箱学にも彼女が必要なのだと、皆が毎日全身で表しているのに何故気づかないのだろう。それが不思議でしょうがない。

数歩先にいる彼女の方へ一歩踏み出して睨みつけた。
標高が高いところは風も強い。冷たい風が彼女の髪とピンクのマフラーを揺らす。

手を伸ばせば届く距離。捕まえて、コイツがコイツ自身の価値がわかるまで説教してやる。

そう思ったのに、何故か彼女の手の方が先に伸びてきて、小さな冷たい両手が荒北の右手をギュッと握りしめた。

「荒北くんが力になってくれるって思うだけで、皆すごく、すごく。安心できるから」
「……しおり?」
「こんなこと、頼むまでもないって。箱学は強いから大丈夫だってわかってるんだけど」
「おい、何を……――」
「荒北くん」

――私がいない間、皆のことよろしくね。

こちらを向いた大きな瞳から溢れそうな涙を見つけて、荒北は咄嗟に次の言葉が紡げなかった。

ああ、コイツはまだ未練があるのか。

確かにしおりは決意した。フランスに、自分で行くと決めた。けど、彼女の気持ちは本当の意味で固まっていなかったのだ。

本当は最後の夏合宿に参加したいし、インターハイを自分の目で見たい。
何か月も前から合宿計画を前倒しして立てているということからわかる通り、留学の準備の方も着々と進めているのだろう。

でも、彼女の心は定まっていない。日にちだけが近づいてきて、準備だけが進んでいって。心が前に進めていないから不安だけが募っていく。

だから荒北に託そうとしているのかもしれない。そんなことしたって、荒北は彼女ではない。彼女のようなサポートなんてできはしないし、彼が見ているのは気にかけている人物だけだ。
荒北に頼んだって、たとえ彼がそれを承諾したとしても。自分の気持ちを振り切らなければ心の不安は消えないまま、後悔として彼女の中で一生残り続けるのだろうに。

このまま行かせれば、しおりはこれからずっとふとした時に「あの時留学に行かなかったら」と思い出すだろう。
参加できなかった夏合宿に。インターハイに。誰にも明かすことのできない、ほの暗い気持ちを抱えてながら生きていく。

――そんなことは、絶対に許せなかった。

「聞け。こっち見ろ」

嗚咽で顔を伏せそうになる彼女の頬を手のひらで包み、視線をこちらに向かせようとする。拍子で目の中に一杯になっていた液体がこぼれ落ちて、荒北の指先にじんわりと暖かな感触が染み込んでいくのを感じた。
この局面で、他の誰でもなく自分を頼ってくれたことは単純に嬉しい。それが彼女にとってどういう意図であったとしても、選んで信じてくれたことは嬉しい。でも。

「いいか。お前が留学して、力磨いて未来の自転車競技の……箱学の力になりたいってんだからみんな応援してんだ。夢追って来いって送り出してんだ。誰もこの夏日本にいられないことへ責任感じろなんて。後悔しろなんて思っちゃいねえ――お前を信じてるやつらのこと、お前も信じて見せろよ!」

今コイツが信じるべきなのは、『オレだけ』じゃなくて『みんな』だ。頼って甘える対象も同じ。

自分がいなくても、この部なら大丈夫だって笑って見せろ。帰って来てみんなで取った優勝旗をアホ面で振って見せろ。

「世界で大暴れしてこい。箱学のじゃじゃ馬」

最高のエールを込めた軽口にしおりは涙に濡れながらもコクコクと頷き、「ありがとう」と泣き笑いの嗚咽を漏らした。



 
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