118:お菓子の甘みは気持ちの重み



流れ作業のごとく自分の手にも乗せられたチョコレートの粒の軽さに、荒北は人知れずため息をついた。
正直なところ、ここ最近の自分たちの関係からいけば『自分にだけはくれるはず』と思っていたのだが。どうやら期待は盛大に外れたらしい。

でもまあ、よくよく考えてみればアイツは去年も同じように、『ザ・義理チョコ』という感じの徳用チョコを堂々と配り歩いていた気がする。
どう見たって糖分補給用の菓子を配っているようにしか見えないその様子に、去年も徳用チョコだった2年目以上の部員たちは、また徳用か……と呆れているし、彼女に密かに憧れていた1年生はあまりの色気のなさに見事に落胆している。
手渡された小さなチョコに喜んでいるのは無邪気で純粋な彼女の崇拝者、葦木場拓斗くらいのものだった。

……とにもかくにも、彼女にとってバレンタインデーとはその程度の認識なのだ。

手のひらのチョコの軽さが、今までの全てが自意識過剰で見当はずれだったのだと突きつけて来ているようで。ただでさえキツかった練習の疲れが、いつもの3倍くらいに重くなったように感じていた。

皆彼女からのチョコにそれぞれに言いたいことはあるだろうが、本当に面と向かって文句を言っているのは自称箱根で一番モテる男、東堂だけだ。
彼は山での上りは速いが、口うるさい男だし趣味も気も全く合わない。ゆえに荒北とはよく口喧嘩をしたり、時にはつかみ合いの喧嘩にもなるが、けれど今回だけは荒北も全面的に彼の意見に同意だった。

「全国の男の夢を何だと思っている!」

……別にそこまで壮大なことだとは思っていないが、言わんとすることはわかる。

要するに、自分たちはしおりからのバレンタインの贈り物が欲しかった。それも義理などではなく特別な奴を、だ。

今日一日、他の男子生徒よろしくガラにもなくそわそわして、彼女からの菓子類をいつでも受け取れるように。誰かに横取りされないように。迅速に保管できるようにと、いつも以上に独り行動に努めていたのだ。
なのに結果が小さな徳用チョコ一粒だったのだから、そりゃあ、誰だって落ち込みもするだろう。

けれど、振っても叩いても彼女が今日本命チョコなど持ってきていないのは明白だ。文句を言ったって嘆いたって、もうどうにもならないことには変わりがない。

まだギャアギャアと彼女に詰め寄っている東堂の頭を憂さ晴らしとばかりにゴンと殴り、首根っこを掴んで彼女から引きはがす。
助かった、とホッとした表情の彼女が自分を見上げているのがわかったが、流石にいつもみたいには目を合わせられなかった。

気にすんな、とか。忘れろ、とか。

口下手な自分でも、彼女にならそのくらいのフォローの一言くらい入れられるのに、今日はそれができない。
何故なら、本心は今日という日を気にして欲しいし、忘れて欲しくなどなかったのだから。
けれど自分は東堂のように素直に心の内を伝えられるほど強靭な精神を持ってはいない。だからせめて女々しい心の内が見透かされないように視線を逸らしておくことしかできなかった。

「……遅くなるから早く送ってもらえよ」

視線の端で彼女を捉えながら、やっと出たのはつまらない言葉だ。
自転車競技部内で唯一の女であり、暗闇が苦手な彼女の為に始めた女子寮までの当番制の送迎はそろそろ最終学年に上がろうかという今でも変わらず続いている。今日の当番は新開だったはずだ。

新開と言えば、学年内で1、2を争うモテ男で、今日も紙袋に一杯になるほどのチョコレートを女子達から渡されていた。貰ったチョコは総じてビッグサイズのものが多いようだが、大食いの新開にとってはタダで大量の糖分が貰える最高のイベント。チョコをくれる女子の一人一人に最高の笑みで返していたので、今日は彼の行くところ行くところで歓喜の悲鳴が聞こえていたほどだった。

ちなみに新開はしおりとも中学の時からの顔見知りで仲も良い。
まあ、それを言うなら同じく中学の時から彼女とライバル関係であったらしい福富や、高校でずっと同じクラスの東堂もそうだと言えるが。

とにかく、新開が帰り際に彼女から贈り物を貰うかもしれないと考えると酷く心がモヤモヤして。彼女への気持ちを諦めないと決めたのに、未だにそんな感情に振り回されて弱気になっている自分に憤りすら感じていた。

……こんな気持ち、早く寮に帰ってシャワーで汗と一緒にきれいさっぱり流してしまおう。

そう思いながらまだ賑やかな部室の中で一人さっさと着替え、肩に鞄を引っ提げてソッと出て行こうとする。すると背後から「荒北くん」と小さく呼ばれて、ドアノブを回しかけていた荒北の動きがピタリと止まった。

……自分をそう呼ぶのは彼女だけだ。
呼ばれただけで心臓が笑えるくらい不自然に脈打つのも、彼女にだけだ。

すぐに振り返ればいいのに、身体が固まったように動かないのは今日一日彼女を意識しまくったせいだろうか。それとも最後のチャンスを感じて浮足立っているのを隠したいからか。

すっと彼女の石鹸のような爽やかな香りが近くなる。すぐ後ろに立っている。それだけが感じられた。
くれるのか。そうなのか。
意を決して振り返ろうとした瞬間。

「またね。気を付けて」

そう声をかけられて、時間が止まった気がした。
言われた言葉を頭の中で反芻して、理解するのにゼロコンマ数秒。その瞬間、張りつめていた体の力が、ドッと抜け落ちていくのが感じられた。

……これじゃあ、本当に期待ばかりしている間抜けなヤツだ。

無性に笑えてきて、でもそのまま口を開いてしまえば嗚咽が漏れてしまいそうで。荒北は黙ったまま中途半端に回していたドアノブを今度こそ思い切りひねって扉を開いた。

頬を撫でる二月の寒さに目を細める。目の前には雪すらチラついていて、春はまだ遠そうだと厚い雲に覆われた空を見上げながら思った。

――春は、まだ遠い。

箱根の春も、自分の春も。
思えば2月じゃ桜だってまだ小さなつぼみだ。いま咲き誇ってはしまってはそれは狂い咲きである。真冬のこの時期に春が育っていなくたって、普通のことなのだ。きっと。
そう思ったら気が少し楽になって、自然と彼女に返す言葉が口をついた。

「またな」
「うん……――あ、荒北くん!」

言い淀んだ彼女が気になって、荒北は今度こそ振り返る。
そこにはいつものように朗らかで、無邪気な笑みを浮かべている彼女が……いると思ったのだ。

なのに、視線の先の彼女はやけにまっすぐな視線をこちらに向けていた。
どこかで見た表情だと思い当たり、思案を巡らせて、ああ、あれだと思いつく。

しおりは何かを決めたとき、必ずこういうまっすぐな目をしているのだ。
それがいばらの道であろうが、何であろうが、何かを決意したとき、彼女の瞳は宝石のようにキラキラと輝いているようにすら見える。
彼女の魅力は多々あるが、荒北にとっては彼女のその瞳の色も気に入っているポイントのひとつであった。

「絶対渡すから。お願い、待ってて」

他の部員に聞こえないような声量で囁いた彼女。まっすぐにそれだけ伝えられ、訳もわからず呆然とする荒北をよそに、彼女は突如二コリと綺麗に口端を上げると、部室の扉を閉めてしまった。

……なんだ、今のは。

聞きたくても、もう一度この扉を開けて問いただす勇気なんてない。
仕方なく寮に帰って、風呂に入って、筋トレして、愛犬の写真に癒されてから布団に潜り込む。
いつものルーチン。いつもの行動。普段なら、練習疲れもあるのですぐに夢の世界に落ちていけるのに、今日に限ってはどうにもモヤモヤしてしまって寝付きも悪かった。

ベッドに入って一体何時間、何十回、不毛な寝返りを打ったか。もう数えることすら諦めて、疲れ果ててこれまた何十回目のため息を大きく吐き出した。

……オレの馬鹿野郎。期待なんてしても、すぐに勘違いとわかって恥ずかしい思いをするだけだ。

今日一日、痛いほど味わったはずのに、自分はまた同じ轍を踏もうとしている。懲りないやつだ。大馬鹿者だ。
――なのに今度こそ、と思う気持ちを見て見ぬふりしたくない自分がいるのだ。

ああ、くそ。明日朝イチでペダルを漕いでこんな気持ちをぶっ飛ばそう。
そう思って目をつむれば、別れ際のしおりのキラキラした顔が、声が、瞳の色が。リフレインして、なお眠れない。
トレーニングで苛め抜いた身体は確かに疲れ切っていて休息を求めているのに心がそれに応えてやれない。
それでも無理やり目をつむり、瞼の奥に住み着いた彼女を眺めながらどうにか浅い眠りについた。









**********












朝、荒北は昨晩の決意通り朝イチから練習しようと部室に向かう。果たして昨晩自分がどれほどの睡眠時間が取れたのかはわからないが、いつも以上に体がだるく、日の光が目に痛いことから推測するにまともに眠れていないのだろう。
あくびを押し殺し、部室に向かう。扉の前に立ち、鍵を開けようとして寝ぼけ眼に手を伸ばすと、いつもはかかっているはずのダイヤル式南京錠がないことに気が付いて、一気に目が覚めた。

部活に入って2年目になるが、この時間に部室に来て扉に鍵がかかってない時の理由はたったのふたつだ。

ひとつは鍵の掛け忘れ。前の日最後に部室に出たやつが鍵をかけずに帰宅した場合がこれだ。犯人は見つかり次第かなりキツくお灸を据えられるらしいが、今の所そんなポカをやらかしたのを見たのはたった2回だけ。福富が主将になってからは、彼が可能な限り最後まで残り戸締りのチェックをしているので遭遇したことすらなかった。

そしてもうひとつの理由。回数としてはこっちが圧倒的に多い。

知らぬ間に飲み込んだ生唾に、喉がごくりと鳴るのが荒北自身の耳にも聞こえた。
ゆっくりとドアノブをひねる。そのまま引いて、開けた視界に目を向けた。

「おはよ」

冷え込んだ部室の中。そこにはジャージにウィンドコートを着込んで立っているしおりの姿があった。
差し込む光に照らされる彼女は優しく、けれどもそこになくてはならないものだとでもいうように確かな存在感を放っていて、改めて日の光が似合う女だと実感してしまう。

今にも白い光の中に溶けてしまいそうで、慌てて彼女に手を伸ばすと、くすりと笑った彼女も手を伸ばして……――

荒北の手に、紙袋の取っ手を引っかけてきた。

「う、ぉっ!?」

ズシリとくる重さに我に返ってみれば、そこには中身がこんもり入った紙袋が握られている。よくよく中身を見てみれば、見覚えのある、確か、クリスマスに貰ったしおり手作りのパワーバーが大量に入っているのが見て取れた。
部員みんなに配れとでも言うのだろうか。それぐらいの量だ。
どういうことかとしおりに目をやれば、彼女はくすくすと笑いながら困惑している荒北を見て楽しんでいるようだった。

「もう、目ざといなあ。こっそり渡そうと思ったのにもしかしてバレちゃってた?」
「え?は??」
「またパワーバーになっちゃって申し訳ないんだけど。一応荒北くん用に改良してみたから前より食べやすいと思う」
「ちょっと待て。オレ用……ってこれ全部?」
「うん、ぜんぶ。やっぱ多すぎた?」

……多すぎた、というか。
荒北は思わず手の中の紙袋を覗き込む。だって、少なく見たって30本はある。一本ずつ個包装されていて、フレーバーごとにラッピングリボンの色を変えているようだ。
予想すらしていなかったカウンター攻撃に寝不足の頭が付いていけずにクラリとした。

いや、とりあえずまずは礼か。これだけの量だ。昨日帰ってから作ったのだとしても作るのも、包むのも大変な手間だったろう。

「あ……――」

――りがとう、と続くはずだった言葉の途中で、荒北の視線がしおりの左手にぶらさがっている紙袋をとらえる。自分の貰ったものと同じくらいの大きさの紙袋。中身もやっぱりパワーバーのようで、量も自分のと遜色ないくらい入っている。

……誰のだ。

咄嗟に思ってしまった頭には、もはや、あの3人の顔しか浮かんでこなかった。だって、中身がパワーバーなのだ。部活のヤツ以外にあり得ない。

「アイツらのは?」

聞いた瞬間、しおりがきょとんとした表情でこちらを見上げていた。
自分でも馬鹿だと思う。この量のバレンタイン菓子を貰えたのだから普通に喜んでありがとうと言えばいいのに、目についた紙袋につい嫉妬心を覚えてしまったのだ。
これであの3人のうちの誰かの名前が出てきたら確実にショック死は必須だというのに。

葛藤に苦しむ荒北を尻目に、しおりは何の疑問も抱いていないかのようにパッと顔をほころばせる。

「福ちゃんたちはこっち!」

掲げたのは、持っていた紙袋だった。何の躊躇もなく中身を見せてきて、「福ちゃんのは黄色で、新開くんは赤、東堂君は紫リボンなの!」なんて嬉しそうに自慢すらしている。

つまり、彼女が持っている紙袋は3人分の物だったということだ。なのに荒北だけひと袋分まるまる貰ってしまった。
驚きすぎて、実感すら湧かなくて思わずしおりの顔をまじまじと見つめてしまう。

「なんでオレだけ多いの?」

しかも今日の荒北は寝不足で頭が働いていない。いつもは心にしまっておくような疑問もつい口に出してしまうようだ。……いや、ただ単に酷く動揺しているだけかもしれないが。

尋ねられたしおりの方も「それ聞く?」と言いたげな顔をして、困ったように視線を泳がせながらもけなげに答えてくれた。

「荒北くんには……その。特にお世話になったから。いろいろ」

……いろいろ。

頬を染めつつ言った彼女が、一体どの場面を思い出しているのかは想像に難くない。自分を意識している彼女をもっとよく見たくて、ただでさえ近い彼女との距離をもっと詰めようと踏み出してみる。

少し手を伸ばせば届く距離。近づいて気付いたが彼女の目は潤んでいた。潤んで、キラキラして、熱のこもった目をしていた。驚いて言葉に詰まれば、しおりは含んだ瞳の色を隠すように目を細めて笑って見せる。

「荒北くんにはすごく沢山感謝しなきゃいけないから。それを形にしたらこんな量になっちゃった」

助けてくれてありがとう。
ラピエールのキーホルダーをありがとう。
夢を応援してくれてありがとう。

言いながら微笑む、冬の朝焼けに照らされたその顔がとてもキレイで、愛おしくて。
本能が、今すぐ気持ちをぶちまけてしまえと叫んでいるのを心の中で必死で宥めすかして、飲み込んだ。

「あ!もちろん多すぎると思うしみんなに配っていいからね!」
「バーカ。全部食うに決まってんだろ。クリスマスの分だってほとんど食べられてねェんだぜ」

誤魔化すように明るく言い放った彼女に、荒北も何も気が付かなかったフリをしながら返す。まだその時じゃないと押し込める。

――春はまだ先。狂い咲くな。

「じゃ、責任持ってこのパワーバー分のカロリー消費とトレーニングの組立て頼むぜ、マネージャー」

そうやって一言『マネージャー』と呼ばれた瞬間、女子の顔から仕事の顔になるから面白い。
さっそくノートと電卓を取り出してなにやら計算しだした自転車バカの背中を見ながら、荒北は早速貰った紙袋の中からパワーバーを取り出して食べた。

袋の底が見えないほど詰め込まれたパワーバー。彼女の気持ちはそのまま量になって反映されるらしい。
何てわかりやすい。けどそのわかりやすさが嬉しくて、どうしようもなく希望を与えてくれるのだ。


 
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