114:Lとオオカミ
しおりが駆けたであろう道を、荒北はのんびりと歩いていた。姿は見えていなくとも行きそうな場所は心当たりがある。
……というか、ここしか知らない。
うっすらと積もった雪の上に残る足跡を辿ってグラウンドの脇を抜けて行けば校庭に行き着く。目当ての場所をそっと覗き込むと、そこには案の定彼女が膝を抱えて小さくなって隠れていた。
ちゃんと見つけられたことへの安堵と、何かあると馬鹿みたいに毎度同じ場所に隠れようとする彼女の安直さにため息を付く。
元よりここは荒北としおりしか使わない隠れ場所だ。彼女はわかっているのだろうか。ここに隠れれば自動的に一番最初に荒北に見つかってしまうと言うことを。
今いちばん会いたくないのが荒北だとしても、ここに隠れる限りその『彼』に見つかってしまうのだということを。
(わからねぇんだろうなあ)
先程の出来事でパニックになったしおりは、安心できる場所だからここに逃げ込んだだけだ。そして入学して丸二年間、彼女にここが安全な場所だと思い込むように刷り込みをしたのは他でもない荒北自身。
――こんな愉快なことはない。
うずくまる彼女の前に立つようにそっと近づけば、降ったばかりの新雪が踏みしめられてキュッと小気味の良い音を立てる。それで恐らく彼女も誰かが来たのには気がついたのだろうが、体を必要以上に強張らせているのを見れば、どうやら隠れ場所にこの場所が非常に不適切だということに気がついてしまったらしい。
誰が来たのかも、顔をあげなくてもわかっているはずだ。
死んだふりよろしくピクリともしない彼女に苦笑しながら、荒北は彼女のそばにしゃがみこんだ。
「となり空いてる?」
「……満員です」
「スッカスカに見えるんだけど」
「見えない友達がいるんです」
「こえーよ。てかココ、オレが見つけた場所だよなァ」
「……」
「しおり」
「……どうぞ」
「ドーモ」
言い負かした荒北は自分の特等席を奪っていたしおりの友達を押し潰すように乱暴に彼女の隣に腰を下ろした。その振動を受けて小さく丸まっていた彼女の体が更に小さく縮こまる。
まあ、さっきの今でまともに話せるとは思っていない。
そうしている間にも尻の下の雪が溶け、ズボンがじんわりと冷たい水分を吸い込んであっという間にパンツまでグッショリだ。不快極まりなかったが、隣に彼女がいると思うだけで、その不快感など全く気にならなくなってしまう自分が可笑しかった。
……思えばあの時もそうだった。
あの事故のとき、自分の上着をしおりにかけて救助隊を待っていた時間。
目の前の彼女のことばかり考えていて、自分の寒さなんて全くといっていいほど感じなかったのだ。
むしろ胸に抱いたしおりから伝わってくる微かな体温が焦燥感を押さえつける唯一の心の支えで。救助隊が介抱を代わるというのも聞かずに救助の間中抱きしめていた。
しおりはそれで変な風に荒北を意識してしまってこんなことになっているが、反対に荒北にとって、あの事件は自分の中での彼女の大きさを計るためのいい機会だったようだ。
顔を体育座りの膝の間に押し込んだまま動かない彼女の、丸い後頭部に視線を落としつつ、荒北はそちらへと手を伸ばした。
ソッと髪の間に差し入れた指にはなんの抵抗もない。それは、するりとすべるような感触だった。男のように芯の強い固い毛ではない。女性特有の柔らかいこの毛並みは、まさに荒北好みの指どおりだ。
どうやらいつか言っていた『ロングヘアにする』という約束を律儀に守っているらしく、一時期はショートヘアだった髪が今や肩口あたりまでのボブになっていた。
「伸びたな」
荒北がひとりごちて、また髪を撫でる。
嫌なら触れる手をはね除ければいい。そうする権利だって度胸だって十分にあるはずなのに、彼女はされるがままになっていて、決して彼を突っぱねようとはしない。
……こんなふうに受け入れてしまうから悪い男が調子に乗るのだ。
毛先をくるくると指に巻いたりほどいたり。顔をあげてもくれない彼女への当て付けに、気に入りの髪を弄んでやる。
生えグセだろうか。全体的にストレートな髪の中で少しだけ外側に跳ねている髪をひとつまみつまみ上げる。マジマジと見つめてみれば、その一本一本が酷く真っ直ぐで。
こいつはこんな所まで真っ直ぐなのかと思ったら、その生え癖さえも愛しく思えて、そこに軽く口付けてみた。
すると、どうやら彼女は運悪くちょうどその現場を目撃してしまったらしい。信じられないとでも言うように大きく見開かれた瞳とパチリと目があって、赤かった彼女の顔が一瞬で湯だったタコように真っ赤に染まるのを見た。
「う、あああああっ?!」
叫んだ彼女がのけぞった拍子に指先から髪がすり抜けた。サラリと揺れながらあるべき場所に収まった一房を見送りながら、荒北はいまだに目をまんまるに見開いて自分を見ているしおりにクッと口端を上げた。
「やっとこっち向きやがったな」
「なっななな!なんでっ……!」
「ハッ、『なんで』ねえ」
彼のもとより鋭い眼光が更にスッと細まり、しおりはギクリと肩を揺らした。
……自分は、彼に何か気に障ることをしてしまっただろうか。
いや、まあよく考えると最近妙に荒北を意識してしまって彼への態度が少しおかしくなってしまっていたという自覚はあるが。
でもだからといって髪にあんなイタズラをするほどの案件だっただろうか。
何が悪かったのか、決定的な事案が見当たらず、しおりは混乱しながら目の前の荒北を見やる。
本当に困った、と物語っているような半ベソの瞳に見つめられ、荒北は深くため息を付くとしおりの頭をわしゃわしゃと手で乱暴に撫でた。
「うぅ……」
優しさのかけらも感じられない。まるで犬扱いだ。
それでも彼の手を払えないのは、今まで幾度となくこの大きく骨張った手に助けられてきたからだろうか。お世辞にも丁寧とは言い難いが、それでもいつもそばにいて励ましてくれる不器用な手の感触を心地いいとすら思ってしまう自分がいた。
しおりはいつものようにされるがままに頭を荒北の方に傾け、犬扱いに甘んじるように目をつむる。
……何というか、複雑だ。
でもどうして複雑に思ってしまうのかもわからない。その先にある感情を見出せるほど、しおりの経験値は高くないのだ。
撫でる手が、だんだん緩やかな動きになっていく。先程まで乱雑に撫で回し、乱した髪を元通りにするように手ぐしで梳いて整えていく。最後に右サイドをそっと耳にかけて指が離れていったかと思うと、今度は同じ手がしおりの指に触れてきたのがわかった。
髪を触られていたときとは違う、感覚の優れた部分に触れられてドキリとする。思わず目を開け見上げると、そこには見たこともないほど真剣な表情の荒北がいて、戸惑うと同時に心臓がキュウと甘く痛んだ気がした。
「『なんで』って……ンなもん、決まってんだろ。わかんねぇ?」
かすれたように低く囁く声。
ギラギラと光るその目はしおりを射抜いたまま離さない。少しでも動けば食べられてしまうと錯覚してしまうくらい、今の彼はそのくらい獰猛な獣を思わせる雰囲気を醸し出していた。
彼の右手が、向かい合ったしおりの左手に触れて指を絡めてきている。握られて包み込まれれば手の大きさの違いに、今まで見えていなかった……いや、努めて見ないようにしていた彼の男の部分を強制的に実感させられて顔が熱くなる。
彼のこの目が嘘をついたことなんてない。
だからこそ、もうやめてくれと、意識させないでと泣きたくなる。なのにここで目を逸らしたら彼が離れて行ってしまう気がして視線を動かすことすらできないのだ。
壊れてしまうのではないかと思うくらい心臓がドクドクと鼓動している。震える喉が苦しくて、けど気を抜くと嗚咽になってしまいそうで必死に呼吸することで精一杯だった。
ふいに左手を持ち上げられ、動かせないでいたしおりの視界の中にも自分の手が見えた。
その人差し指に見慣れない銀色の輪が光っているのが見えてハッとする。思わず目をむいて人差し指に視線をやると、僅かな光を反射して鈍く光るそのリングが指輪にしてはあまりにサイズが大きいことに気がついた。
「指輪……じゃ、ない……?」
おそるおそる観察するように手をかざして指にはまったリング見つめ、手のひらを返す。すると、しおりの手のひらの中でチャリッ、と音を立てた金属同士の擦れる音がした。
ただの輪っかだと思っていたそれはどうやらキーホルダーのような形になっているらしい。
細く短い鎖の先にシンプルな四角いアクセサリーが付いている。白地の金属板に書かれた文字はたったひとつ。
『L』だった。
見覚えのある、しおり気に入りの夏の空みたいにきれいな青だった。
「……ラピエール?」
名前を呼べば、風も吹いていないのにキーホルダーがゆらゆらと手の中で揺れた。手の震えのせいかもしれない。でもなんだかこの子が自分の呼びかけに応えてくれたような気がしたのだ。
帰ってきたよ、と笑ってくれた気がしたのだ。
カァッと目の奥が一気に熱くなり、溢れ出した熱い雫がパタパタと落ちて冬の地面に染み込んでいく。しおりはたまらずキーホルダーをギュッと握りしめ、胸の中に強く抱き込んだ。
「ど、して……、わたしのっ……!!」
もう、会えないと思っていたのだ。
あの事故でメチャクチャになった自転車の車体は土砂と一緒に道路から取り除かれ処分されたと聞いていたから、もう二度と。
警察や医師から自転車が足の上に覆いかぶさっていたおかげで土砂崩れに押しつぶされなかったとは聞いていた。だからこそ、最後に一言だってお礼を言えなかったことがしおりの心中でひどく心残りになっていたのだ。
「指輪が良かったか?」
茶化すように笑われて、そのまま胸の中に招き入れられれば、こみ上げてくる感情で喉が熱くなり、呼吸すら満足にできなくなる。
すがるように彼の胸元に顔を押し付ければ、そんなしおりを落ち着かせるように、大きな手のひらが背中を何度も撫でた。
――震える彼女の小さな体を抱きしめているこの状況。否が応でも『あの日』のことを思い出させて、堪らなくなる。
いま、胸の中で泣きながら苦しそうに息をしている彼女は確かに生きている。
彼女がこよなく愛した、彼女の愛車によって生かされたのだ。
その恩人が無惨にスクラップにされるのを黙ってみていられるほど荒北は薄情ではなかった。
彼はしおりを病院に見送ったあと、道路の復旧作業を急ぐ作業員に頼み込んでラピエールの車体の一部を取り出して貰っていた。
あとは大学で工学部の技術科に行った先輩を頼って使えそうな部分を切り取って加工をしたり、塗装ハゲの部分を直したり。
ダメージの多い部分は叩いて平らにしようとしてもどうにもならなくて、結局どうにか形にできたのがこの小さなキーホルダーに使った『L』の部分だけだったのだ。
「せめてロゴの部分だけでもプレートにしてやりたかったんが、こんなんしかできなかった」
ごめんネ、と謝る荒北にしおりはブンブンと強く首を横に振って、涙でぐしゃぐしゃの顔を荒北に近づけた。
「ありがと。うれしい、すごく」
耳元で、苦しそうにしゃくりあげながら、彼女が言う。その行動がいじらしくて思わずギュッと抱きしめれば、彼女も素直に荒北の首に腕を回して抱きついてくれた。
途端に鼻孔をくすぐる彼女の柔らかく、甘い匂いに感情が高ぶりそうになるのを、今はただ堪えるしかない。
彼女が突然正気に戻らないように。少しでも長い間自分に甘えていてくれるように。
――自分を男として意識してくれるように。
それまで、獲物を狙う狼のように息を潜めてじっと待つ。
「オレはアイツらみたいにイイ子じゃねえから」
――諦めてなんてやれねえよ。
囁いた言葉はしおりには届いていない。
けど今は、それでも良いと思った。