110:君を愛した九十九神



天候悪化でレースの中止が言い渡されたのは、スタートから大分時間が経ってから。小雨から一気にバケツをひっくり返したような激しい土砂降りになってしばらくしてからだった。

レースの運営本部はこの豪雨への措置として、コース後方を走っていた選手は回収車を用いてスタート地点に引き戻させ、前方を走っていた選手はゴールさせてから後ほどバスでスタート地点まで送ってくれるとのことらしい。
レース開始を遅らせた時点で中止の判断が出来ず申し訳ないとの詫びのアナウンスが繰り返し入っていたが、ゴール地点で彼女の到着を待っている彼らは気が気ではなかった。

「……遅いな」

低く呟かれた新開の言葉に、荒北が既に寄っている眉間のしわを更に深くして不機嫌を顕にする。
そう、まだしおりがゴールしてこないのだ。
レース中止の最初のアナウンスの時点で連絡を取ろうとしおりの携帯に電話をしたら、鳴り始めたのは福富が預かっていた彼女のバッグだった。

携帯を携帯しないとは、何のための携帯電話だと思っているのか。

盛大に舌打ちし、何の罪もない福富にさえ睨みを利かせる。気性の荒い荒北がわかりやすいほど慕っている福富に八つ当たりなど酷く珍しいことだ。
皆から驚きの目を向けられていることにすら気が付かず、荒北はもう何度目にかになる深い溜息を吐き出した。

……彼女のサークルジャージに似た色を着ている選手の姿が見えるたびに期待で心臓が震える。そして人違いだと気が付くたびに落胆で沈んでいく。
先程からこの不毛な浮き沈みの繰り返しだ。

気になって仕方がないのに、本当は探しに行きたいのに、安全面の関係から自分には選手たちがゴールしてくる一本道の先を見ているしかできないことが酷く歯がゆく苛立たしかった。

「東堂。しおりチャン走ってるときどんな様子だった」
「体調は良さそうだったぞ。賭けのことがあるから途中で千切ってきてしまったが、中盤過ぎまで先頭集団に着いてきていたハズだ。スタートに引き返した可能性は低いだろうな」

――ただ、この雨じゃあな。

心配そうに続けた東堂の言葉に、荒北はイライラを隠そうともせず低く唸った。

冷たい雨は体力をごっそり奪う。それは、自転車乗りなら誰もが知っていることだ。
夏場の雨でもキツいのに、大寒波襲来中のこの時期の雨など体の温度を一瞬で奪ってしまうだろう。

今どこにいるかだけでも知りたい。
無事でいればそれでいい。
ちゃんとゴールに近づいてきているのなら、どれだけでも待ってやる。

きっと大丈夫だと自分に言い聞かせたいのに、妙に良い自分の『鼻』がどうにも嫌なニオイを嗅ぎつけていて、少しだって安心できなかった。

ふと気になって周りを見渡せば、もう大半の選手が帰ってきたようで、運営テントは選手の人数確認に非常にバタバタしていて忙しそうだ。荒北は、それを承知で運営テントへ向かい、受付の近くにいた男に声を掛ける。
運営はひどく迷惑そうな顔で振り返ったが、荒北の顔を見るなりビビビッと電気が走ったようにピン姿勢を正し、すぐに飛んできて用件を聞いてくれた。
どうやらイライラしている荒北の顔がよほどの極悪人面に見えたらしい。

普段は怖がられるか、仲間たちにからかわれるこの顔もたまには役に立つものだ。
初めてこの顔に産んでくれた親に心の底から感謝しつつ、運営にしおりの所在の有無を尋ねれば、男はすぐにスタート地点の運営テントに連絡を取ってくれると行って奥へ下がっていき、すぐにペコペコと頭を下げながら帰ってきた。

「お待たせしました!えー、佐藤しおりさん。まだ確認できていないようですね」
「……は?」
「え!ええーっと!女性なのでスタート地点に戻っている最中なのではないでしょうか?ゴール地点もこの通りバタバタしているので、まだ到着の点呼を取れていないだけかと思われ……――」
「おい!12キロ地点で土砂崩れがあったらしいぞ!」

会話の途中で、他の運営らしき男が割り込んできて焦ったように伝えてきた。消防を、警察を、と慌てている大人たちの傍で、荒北は自分の心臓が凍り付くような音を聞いた気がした。

今朝の彼女の顔が頭に浮かぶ。
無理やり参加させられたレースに怒るどころか楽しみでニヤけていたアホ面が。彼女の手を引き電車に飛び乗った後の少し赤くなった顔が。
レース前、東堂の隣で精神統一している際の真剣な横顔が。

これからも当たり前に見られると思っていた彼女の顔が、自分を呼ぶ声が。冷たい土の下に埋まっているのを想像してしまった。
……想像したこともない、知りたくもない絶望を、いま知ってしまった。

「あっ、ちょっと!?」

突然踵を返した荒北に運営が声をかけるも、彼の耳にはもう届いていない。
早く。早く行くのだ。彼女のところへ行くのだ。

戻ってきた荒北の形相に、仲間たちがギョッとしながら口々にどうしたのかと尋ねるが、それどころではない。

「……東堂チャリ貸せ」
「は!?何なのだいきなり!」
「あと運営に救急車と救助隊も呼べって伝えとけ」

ぶっそうな単語に、彼らも状況はわからないまでも、ただならぬ雰囲気を読み取ったのだろう。人を殺してしまいそうな殺気を身にまとった荒北が、東堂のリドレーを奪って猛スピードで山を下っていく姿をただ見つめているしかできなかった。








**********








森が強風にあおられ轟々と音を立てているのが聞こえる。叩きつけるような雨は先ほどよりも強烈だ。
数メートル先すらまともに見えない豪雨に、荒北はそれでも全力でペダルを漕ぎ続けた。

先ほどからタイヤが何度濡れたアスファルトの上で滑っている。そのたびに強引に体勢を立て直しているからか、体中の関節が悲鳴をあげているのがわかった。

「ぐっ……!」

滑った瞬間地面についた足も滑って、ガードレールにガツンと頭をぶつける。一瞬意識が吹っ飛びかけたが、倒れている暇など一秒たりともない。
顔を上げると額が切れたのか、目の前が真っ赤になっていたが、アドレナリンが大放出している体は痛みや寒さなどちっとも感じなかった。

そうしてしばらく行くと、道に土の塊や石が目立ち始める。たぶん、件の土砂崩れの一部がここまで転がってきたのだろう。
構わず自転車を走らせれば、目的の地点は案外すぐに見つけられた。





――それは、見たこともない光景だった。

大きな岩が。木が。大量の土が道を遮るように立ちふさがっている。転落防止のガードレールはその周辺だけ跡形もなくなくなっている。先ほど自分を傷つけたその凶器も、圧倒的な自然の力ではないに等しい存在だったのだろう。

そしてもちろん彼女だって、この脅威に巻き込まれたらひとたまりもない。
ざわりと全身の毛が逆立つ感覚がして、荒北は躊躇もなくその土砂の山の中に足を踏み入れた。

「っしおり!!!」

叫ぶ声はきっと風音にかき消されて届かない。けれど、それでも呼ばずにはいられなかった。

「しおり!返事しやがれ!!」

声を聞かせろ。姿を見せろ。
まだパラパラと土の粒が落ちてきているのも構わずに、血眼になって探した。

「勝手にくたばってんじゃねえ!まだ話してねえこと死ぬほどあンだよ!」

邪魔な枝木をかき分けて、行く手を阻む岩を蹴り上げながら進む。
自分の人生で神頼みなんてしたことがなかった。そんなものに頼るのは弱い人間だと思っていた。

……けどな神様。いるなら今だけ聞いてくれ。
今後オレは一切アンタを頼らねえ。だから頼む。アイツを助けてくれ。助けてくれないなら一生アンタヲ恨んだまま生きてやる。何なら神狩りだって神殺しだってしてやる。地獄に墜ちる?大歓迎だな。


アイツがここで死んでることの方が、オレにとっては地獄なんだから。











「しおり!!」

荒北の何度目かの呼びかけに、どこからか、かすかに声が聞こえた気がした。慌てて周囲を見渡して、今度はがむしゃらに呼ぶ。

「しおり!しおり!!!」
「ここだよー、ここー……」

今度ははっきりと聞こえた。
緊迫した状況にそぐわない、間の抜けた声だった。荒北は驚愕しながらその声がした方へ目を向けると、そこには地面に仰向けに転がっているしおりの姿があった。

慌てて近づいてみると、落ちてきた小さな石や枝に当たったのか擦り傷や切り傷はあったが、彼女の体に大きな外傷はないようだ。

ただ、右足だけは大小様々な岩の中に埋まっている。引っ張り出そうと岩の隙間を中を覗き込むと、足の上には彼女の愛車であるラピエールがクリートでつながったままになっていて、その車体が彼女の足を大きな岩や石から守ってくれているらしかった。

腰が抜けて動けないらしい彼女の上半身を抱きかかえて起こしてやる。彼女は必死に笑ってはいたが、真っ青な顔と体の震えを見ていれば、彼女がどれだけ怖い思いをして、どれだけ強がっているのかなんて容易に想像ができる。
本当は泣き出したいだろうに、必死で我慢している姿が痛々しくて、見ていられなかった。

彼女の冷え切った体に自分のダウンジャケットをかけてやる。大分雨を吸い込んで重くはなっているが、保温性はピカイチだ。その温かさに、しおりは今度は心底安心したというようにダウンの中に顔をうずめて強がりじゃない、柔らかな笑みを見せた。

「……あったかい」

すん、と鼻を小さく鳴らして、確かめるようにダウンの匂いを嗅いでいる、そんな姿を見たらもう耐えられなかった。

手を伸ばし、ジャケットの上から彼女の身体を力いっぱい抱きしめる。いつも柔軟剤の優しい匂いがする彼女の身体からは、今は冷たい雨の匂いしかしなかった。
存在を確かめるように強く抱く。

……本当に怖かった。死んでいたらどうしようかと思った。

実際、これだけの土砂崩れだったのだ。タイミングが悪ければ巻き込まれていてもおかしくなかった。
腕の中の彼女は人肌のぬくもりに心地よさげに頬を寄せ、されるがままになってくれている。

本当なら今すぐにでもここを離れたいところだが、流石に一人でこの岩を持ち上げてラピエール引っ張り出してクリートを外してやることはできないので救助が来るまでこのままだ。

彼女がこれ以上雨に濡れてしまわないように半分覆いかぶさるようにして抱きしめながら、少しでも温まるように小さな背中を手でさすってやった。

「……荒北くん」

蚊の鳴くような声で、しおりが呼ぶ。黙って耳を寄せてやると、彼女はそこに囁くように続けた。

「荒北くんが来てくれる直前まで、わたしね、夢見てたの」

話していれば恐怖が紛れるのなら、夢物語くらいいくらでも聞いてやる。
そんな気持ちで耳を傾けた荒北に彼女が語ったのはこんな話だった。




――ラピエールと走っている夢だった。

とても天気のいい日で、気持ちよくて、すごく高い山まで挑戦して。雲が下に見えるなあ、と思っていたらいつの間にか空を飛んでいた。

「このまま二人でどこまででも行けそうだねって話しかけたら、ラピエールが言うの」
「なんて?」
「『ダメだよ』って。『呼んでるから』って。私が『誰が?』って聞いたら、そのとき遠くに荒北くんの声が聞こえたの。ああ、本当に呼んでるなって。会いたいなって思ったら、そこで目が覚めた。あんなに気持ちのいい青空だったのに、目の前は酷い雨で、体中痛くて、寒くて……それで、ラピエールは」
「しおり」

喋るな、と荒北が止める。もういいから、と更にキツく抱く。

彼女を守ったラピエールは、たとえあの岩の下から引っ張り出せたとしても、もう原型を留めてはいないだろう。フレームが折れ曲がり、亀裂が入り、修理不能なくらい滅茶苦茶になっている。

大事にされた道具には魂が宿ると言われているが、彼女の自転車もそうだったのだろうか。せっかく手に入れた魂を捨ててでも、主を守りたいと願ったのだろうか。

腕の中から嗚咽が聞こえる。それを抱きとめ、あやしてやりながら荒北は土砂に埋まったラピエールに、そっと目を向けた。

「あんがとネェ」

……今度は絶対オレが守るから。
誰にも聞こえない、しおりにだって聞かせないような小声で、彼女の騎士に誓いを立てた。



 
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