109:白黒つける



レース前の会場はざわついていた。というのも、レースの開始が遅れているからだ。
スタート予定時刻が10時で、現在は10時13分。
本来の開始時間の少し前にスタート延期のお詫びアナウンスが入ったが、それからこの通りずっと待たされている状態だった。
どうやら運営本部が話し合いをしているらしい。

原因は、まず間違いなく天候だろう。

しおりは予測して白い息を吐いた。
この通り、今日は予報通り朝から気温がほとんど上がることもなくずっと冷え込んでいる。だがそれは良い。スタートしてペダルを回せば自然と体は温まっていくから、選手たちもそこを問題視はしていないだろう。

本当にやっかいなのは、少し前からポツリポツリと体に落ちてくる雫の存在。会場の皆が感じているだろうこの雨だ。

通常自転車レースは雨天決行の競技であるため、このくらいの小雨なら何の問題もなくスタートする。なのに開始を遅らせているということは運営がスタートを躊躇するほどの懸念を抱えているということだ。

朝見た大寒波到来の天気予報と、降り始めた小雨。そこから導き出される予想図なんてひどく簡単で。

レースが終わるまでこの天気のまま持ちこたえられるのかどうか。運営はその判断に迷ってスタートを遅らせているのだった。

いつ始まるやもしれないレースを、参加者たちはグローブをはめた手に息を吹きかけ、意味があるのかわからない暖取りをしながら待ちわびている。しおりも寒さ対策はしてきたとはいえ、この気温では流石に冷えるので、せめて体温が奪われて動けなくなることだけは防ぐためにしきりに体を動かし、時を待っていた。

ところで、このレースにおける東堂との賭けのハンデだが、東堂の勝利条件は『優勝』することである。
一方しおりは総合順位で20位以内に入れば良いらしい。
もし両者とも勝利条件を満たしていたり、逆に満たさなかった場合はしおりの勝ちにしてくれるそうだ。

何ともしおりに有利な賭けに見えるが、男女格差や現役選手と元選手という実力差を加味したらこれくらいは妥当だ……と福富が言っていた。そのくらい、東堂としおりには差があるのだ。

もちろんしおりだって負ける気はないが、地元の大会なのでそんなに参加者も多くはないといっても、男女混合レースのため順位予測は安易には出来ない。

だから、ただ精一杯回す。今はきっとそれしかできないから。

ふと、隣で自分と同じようにレース開始の時を待つ東堂の様子をうかがい見た。彼はレースが続行になるか中止になるかもわからないのに腕を組み、目をつむり、既に精神統一している最中だった。

周りはなかなか始まらないレースに戸惑い、しきりに辺りを見回したり近くの人に話しかけたりしてざわついているというのに、彼の周りだけは時の流れが止まっているかのように静かで、キンと空気が張り詰めているのがわかる。

明らかに他とは違う。彼だけが違う。レースの時の彼は東堂尽八という一個人ではなく、箱根学園のエースクライマーなのだ。
それを思い知った気がして、ざわりと鳥肌が立った。

地元の自転車強豪校のことを誰もが知っている。学校名の入ったサイクルジャージを見て話しかけてきたり、注目されるのは珍しいことじゃない。
彼らが背負っている箱根学園自転車競技部という肩書きはそれほど重く、大きいものなのだ。
それに応えるために。王者のプライドを守るために、部員たちは人の何倍も努力してレースという舞台に立つ。絶対負けられないというプレッシャーの中、勝ち続ける。

このレースに、彼がわざわざ出場しているのはしおりのためだ。本来なら出る予定ではなかったレースに。感じずに済んだプレッシャーに晒されているのは、しおりのためだ。

この賭けで、東堂が勝てばしおりは留学についてを前向きに考え、しおりが勝てば彼らは今後一切留学の話題について触れないということになっている。
勝っても負けてもしおりにどちらにも転べるような逃げ道が提示されている何とも生ぬるい賭け。

でもこれは、このレースを機会に自分の今後についてを真剣に考えろという、過保護な彼らからメッセージなのだ。

大好きな自転車と、尊敬すべき選手たちと。どう関わっていきたいのか。ちゃんと自分で考えて、決めなくてはならない。
体を張ってくれる東堂の為にも、この場を提案してくれたみんなの為にも。
……向き合うんだ。絶対。

俯きがちに目を閉じている東堂とは逆に、しおりは空を仰ぐ。「晴れろ」と心で強く念じて、曇天を脅すように睨みを利かせた。
――晴れろ、晴れろ、晴れろ!お願い、中止にならないで!

《ーー皆さま、大変お待たせいたしました》

しおりが両手をグッと握って祈ったその時、沈黙を守っていた本部のスピーカーから声が入った。
会場が、その声に聞き入るように静かになる。皆が声のするスピーカの方を見上げていた。

《ただ今より箱根ヒルクライムチャレンジレースを開催いたします!》

ワッと会場の至るところから歓声が上がる。どこかからパラパラと拍手の音が聞こえてきて、それに釣られるように次々と周りからも拍手が巻き起こる。

皆がレースに出られることを喜んでいる。参加申し込みをした時点で自分の意志でエントリーしているわけだからそんなことは当たり前なのに、こうやって皆が直接レース開催の嬉しさを体現しているのを見るとこちらまで嬉しくなってきた。

会場が良い雰囲気に包まれている中、再びアナウンスでレースの開始時間が告げられた。10時20分。今から約3分後だ。

隣の東堂は、未だピクリとも動かずに精神統一にいそしんでいる。まるで最初からレースが予定通り続行されるとわかっていたかのようだ。
しおりも習って目をつむる。周りからはまだ興奮したような声がそこら中から聞こえてきている。レース前のピリピリした感じも気が引き締まって好きだが、意外にこのアットホーム感も心地良かった。

《――それでは、レーススタートです!》

寒空の中響く明るい声に、私たちはいっせいに飛び出したのだった。









**********









スタートから間もなくするとそれまで小雨だった雨足が急に強まってきた。平均勾配7パーセントの坂道を全力で漕いでいるので今のところ寒さは感じていないが、このまま雨に晒されればみるみる内に体力はすり減っていくだろう。

(早くゴールしちゃわないと)

今何キロ地点だろうと考えて、そういえば先ほど10キロの札が出ていたと思い出す。全長15キロほどのコースだからすでに半分は超えている。自分を追い越していった人たちの人数を頭の中で数えて、確実に20位以内にいるという自信だけはあった。

ところで東堂はといえば、早々にしおりをちぎって先頭集団を率いていってしまったので、しおりの位置からはもはや影すら見えない。彼からすれば優勝が賭けに勝つ絶対条件なので実力で劣るしおりと並走していては負けが確定してしまうのはわかるが、一度だって競ることなくこうも簡単に離されてしまうとやはり悔しいものだ。

そういうわけで今しおりは先頭集団に少しでも近づこうと単独走行中である。先ほどからパラパラと先頭から落ちてきたらしい選手たちを抜いているので、順位はきっと……12〜3位だ。うん、悪くない。

あとはどこまでこのペースを維持していけるかだが、正直いまの状況はかんばしくない。ただでさえ悪い気象条件に、この土砂降り。ヒルクライムはその名の通り山を登るレースのため、標高が高くなるにつれ気温も下がってくる。

一般的に高度が100メートル上がると気温が0.6℃下がると言われているので、頂上標高1000メートル程度のこの山の中腹であるこの時点の気温はスタート地点の平地より3〜5℃は低いという計算になる。
体力は削られているが、今ここで止まって活動エネルギーで上昇させていた体温を冷やしてしまう方が自殺行為だ。

(止まるな、止まるな)

叱咤しながら足を動かす。
もしかして東堂はもうゴールしているのだろうか。
レースに集中したいからと携帯電話も福富に荷物と一緒に預けてしまっている為、しおり自身はリザルト状況を確認することもできない。

後方を振り返っても誰も登ってくる様子もない。地元のレースとはいえ何十人も参加しているはずのレースなのに、しおりの視界の範囲内に選手の姿が見えないのが酷く心細かった。

チラリと、視界の端に転落防止用のガードレールが映る。その奥はもちろん谷だ。最近は大分思い出す頻度が減ったあの日のことが頭をよぎりそうになって、慌てて頭を振って悪夢を追い出した。

――集中しろ。ゴールのことだけ考えていればいい。

歯を食いしばって、視界の悪い前方だけを見て進む。呼吸が変な風に上がっているが、これ以上余計なことを考えてはいけないと思った。
代わりにゴールで自分を待っている人たちのことを想う。

この雨できっと皆びしょ濡れだろうな。風邪をひくといけないから帰りに温泉でも寄ってあったまって、それからご飯を食べに行こう。その時みんなに相談に乗ってもらおう。
私がどうしたいのか、何が不安なのかを聞いてもらおう。きっと今後の糸口になる何かをくれるはずだから。

……早く、あいたいなあ。




ガキンッ

「……っ!?」

足元から嫌な音がして、グラリと視界が揺らいだ。体重を乗せていた左足のクリートが割れたらしい。
バランスを崩した車体は建て直す余裕もなく濡れたコンクリートでスリップしてしおりを後方へ投げ飛ばす。落車の恐怖で身を固くしたしおりは、成す術もなく、制御不能な愛車と共に地面に叩きつけられていた。

「痛っ……」

倒れこんだまま、しおりが痛みで呻こうとしたその時。山肌の方からガラガラと何かが迫ってくる音が聞こえて、しおりはハッと視線を上げた。

見えたのは、自分に向かって押し寄せてくる土と岩。巻き込まれるように落ちてくる木々の群れ。
自然の脅威に悲鳴を上げる暇すら与えられず、彼女の姿を飲み込んだのだった。



 
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