107:育っていくもの



あれよあれよという間に時は過ぎ、ついにレースの日がやってきた。

いつもと変わらない時間に目を覚まし、顔見知りの寮の調理員さんに朝食を貰って自室でもそもそと食べる。同室の友人はまだ夢の中だ。穏やかな寝顔の彼女の顔を見ながら、起こしてしまわないようテレビにイヤホンを差し込み電源を付けた。

四角い画面の中で、早朝からスーツをビシリと着こなすお天気お姉さんが明るい声で全国の天気を伝えている。しおりはそれに耳を傾けながら昨夜用意した荷物の最終チェックをするために鞄を開いた。

『関東地方は曇りのところが多い予想です。山沿いでは雨、所によっては強く降るでしょう。北からの大寒波の影響で気温は昨日よりぐっと下がり、北海道では初雪も観測されて……――』

「……大寒波」

聞こえてきた不穏な予報に思わず準備の手を止め画面を見ると、なるほど既に日本列島の上の東側のほとんどが寒波に飲み込まれている様子が映っていた。冷気の触手は今にもしおりの住む神奈川にも届かんとしている。

この季節は本当に気温の変化が目まぐるしい。先週まで20度を超える日和だと思ったら、今度は寒波で一気に10度以下になる。

しおりは迷わず薄手だったインナーに厚手のものを重ねて、羽織るコートも春物から冬物に着直した。
そうして、さあ出かけようと部屋のドアの前に立ったところでふと足を止まる。
もう一度部屋の中を見回して、少しだけ思案した後、踵を返して室内に戻った。向かったのは自分のクローゼットだ。そこからインナーを一枚掴んで、そそくさと鞄に入れた。

……『もしも』の時のためだ。使わないなら別にそれでもいい。

今度こそ部屋を出て、待ち合わせの駅へ向かう。
箱根の天気は穏やかだ。青空も見えるし、気温もそんなに低くない。この空模様が本当に崩れるだろうかと考えて、せめて荒れなければいいなと願った。

たぶん、しおりにとってはこれが今年最後のレースになる。それに東堂との勝負という名目でレースに参加するのなんて、きっと一生でこれ一回こっきりだ。
賭けの内容は、まあ……あれだけど。とにかく参加する以上レースは楽しみたい。それが自転車乗りってものだと思っているから。

愛車のラピエールにまたがって駅に向かってペダルを漕いだ。みるみる加速するスピードに、飛ぶように流れていく景色。今日も自分と愛車との相性は抜群のようだ。それだけで嬉しくなってきて、思わず口元が緩んできてしまう。
見えてくる目的地。その前に見慣れた4つの人影を見つけて、しおりは精一杯手を伸ばして大きく振った。

「おはよ!」

真剣な表情で顔を突き合わせていた彼らが、かけられた大声にギョッと振り返りしおりを見る。誰もが一様に目を丸くしていて、自転車から降りて近づいてくる彼女を、瞬きもせずにポカンと見つめていた。

「どうしたの。みんなして変な顔しちゃって」
「いや……その。無理やりレースに参加させられて怒ったりはしていないのか」
「もちろん怒ってるよ。見てわかるでしょ?」

しおりは手の甲で軽く汗をぬぐいながら、問うてきた福富に向かってにやりと笑う。その表情は言葉とは裏腹にどう見たって楽しそうで、とてもではないが怒っている風には見えなかった。

ああ、自他ともに認める自転車狂の弊害はこんな時でも発揮されるのだ。どんな時だって、彼女は自転車レースを楽しむ心を持っている。
誰かが思わず噴き出した声がして、それに釣られるようにその場にいた全員が一斉に声を上げて笑い出した。

早朝の晴れやかな寒空に、楽しげな笑い声が吸い込まれていく。そうやってしばらく賑やかな時間を過ごしていると、誰かがふと思い出したように時計を見て「あ」と声を上げた。

すでに乗るはずの電車の出発時刻が迫っていた。
慌てて総出で自転車を分解し、輪行袋に詰めて肩にかける。慣れ親しんだ愛車の重さ。ちなみに今日レースに参加するのはしおりと東堂だけであるため、自転車持参なのも2人だけだ。

「急げ!!」

福富の号令と共に次々と改札口をくぐっていく仲間たちの後を追ってしおりも走りだす。もたもたとICカードを出して改札機に押し当てる。何事もなく改札を抜けて乗り口の方へ足を向けようとすると、突然ふわりと肩にかけていたはずの荷物の重さが消えて、しおりは驚いて立ち止まってしまった。

「オラ、いーから走れって」

止まったしおりをせっつくように背を押して来たのは、最後尾にいた荒北だ。見れば先ほど奪われた輪行袋はいま彼の肩に掛かっている。しおり気に入りの淡いピンクの輪行袋。長身で強面の荒北には恐ろしく似合っていない。
いかにも『荷物持ちをする彼氏』といった風貌だった。

(……って、いやいやいや!!彼氏じゃないし!)

思わず頭に浮かんだイメージをかき消すように首を振る。今のはあくまで『そういう風』に見えただけで、2人の関係がどうこうという話ではない。一瞬とは言えそんなことを考えてしまったことが恥ずかしくて、荒北の顔も見れないまま返してくれと手を伸ばした。

《間もなく一番線に電車が参ります。白線の後ろまで下がってお待ちください》

アナウンスが流れて、しおりはハッと電車のホームを見た。しおりたちの乗る一番線の乗り場は、改札から跨線橋を渡った反対側だ。急がないと間に合わない。

荷物を取り返すか、走るか。
そんな二択に一瞬固まってしまったしおりに、荒北は小さく舌打ちをして自分の方に伸ばされていた彼女の手を取った。
カサついた大きな手がしおりの手首の辺りを掴んで強く引く。

「行くぞ」
「えっ、え!うわっ」

グンと引っ張られ、自然との足は動き出す。跨線橋を駆け上がり、向かいのホームに向かって走り出した。

4両編成の電車がホームに入り、ゆっくりと減速していく。
それだけでしおりは焦って足がもつれそうになるのに、右肩に自転車を担ぎ、左手でしおりを引っ張る荒北の足取りは全く揺るがなかった。
きっとしおりが自転車を持っていたらこうはいかないだろう。いくら慣れているとはいえ、ロードバイクの重さは8キロ近くある。ホームを歩くにしても、階段の上り下りにしても、荷物とは逆の方向に重心をかけてえっちらおっちら運ぶしかないのだ。

なのに、前を行く荒北の足取りのなんと軽やかなことか。まるで荷物など何も持っていないかのようにすら見える速足に、しおりもつんのめりそうになりながらも必死で足を動かした。

(男の子だなあ)

二年前は細長いばかりに見えた背中は、今でも細身には見えるもののしっかり筋肉がついて随分と頼もしく見える。身長もまだ伸びているようで気が付くと見上げる角度が高くなっている気がした。十代半ばで身長の伸びが止まる女性と違い、男性は二十代前半まで成長するというからもしかしたらまだ伸びるのかもしれない。

……こうやって助けてくれるのは、成長どうこうというより彼の性格なんだろうけど。

何とか電車に飛び乗って、大きく息をつく。掴まれていた手はそこで離されたが、自転車は荒北が持ったままだ。あとは会場まで運ぶだけ。今みたいに輪行袋を担いで走る必要などない。
だから「返して」と言えばいいだけなのに、どういうわけか、声がつかえてうまく出なかった。

「間に合ったな。大丈夫か?」
「うん、ありがと……」
「おう」

何とか礼だけは絞り出して、窓から景色を見ているふりをして不自然にならない程度に荒北から距離を置く。
頬が熱い。まだ手首に掴まれた感触が残っている。胸がいつもよりドキドキしているのは、きっと走ったからだ。……そう思いたい。

(レース前なのに、気を抜くと余計なことを考えてしまいそう)

これじゃ、駄目だ。しおりはキュッと唇を引き締めて、浮足立ちそうな気持を集中させるのだった。



 
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