106:困ったときの自転車勝負



彼らが部室に戻ると、それに最初に反応したのはしおりだった。ずっと待っていたのだろう。扉が開く物音にバッと勢い良く顔をあげて、入ってきた集団の中に東堂の姿を見つけると酷く安堵した表情を見せた。

「とうど……――」

嬉しさに弾んだ声で彼の名前を呼ぼうとしたその時、彼女の視界は彼に対して何か違和感を捉えて言葉を詰まらせた。

目の前には見慣れた東堂が立っている。表情が多少強張っている様だが、おかしいのはそこではない。
違和感の元を探るために彷徨った視線が彼の体を伝い探し回る。そうして、彼の引き締まった肢体から伸びた手の先へと向いた瞬間。
ヒュッと息をのむ音と共に、しおりの顔はみるみる青ざめていった。

「その手っ……!」

響いたのは、悲痛の声だった。
東堂の両手は見るも無残に負傷している。内出血で赤黒くなった拳もパンパンだ。
きっとすぐにでも怪我の理由を問いただしたいだろうに、けれども彼女は東堂を質問攻めにする代わりに口を固く閉ざし、真っ直ぐと彼の元へ歩み寄った。手を伸ばし、腫れあがった右手をそっと手に取って、患部に視線を落とす。

いつもの長くて綺麗な指ではない。酷く腫れていて、炎症で熱まで持ってしまっている。
しおりはそれを酷く険しい表情で見下ろして、次の瞬間にはまるで自分が痛みを感じているかのように、くしゃりと顔を歪ませた。

――ああ、泣く。

その場にいる誰もが、彼女の様子を見てそう思った。

何故なら自分たちが見てきた彼女という人は、人の痛みに敏感で、こうやってすぐ他人に感情移入してしまうのだ。

誰よりも笑って、誰よりも泣いて。誰かが理不尽目に合えば本人よりも怒ってくれる……そんな人。

けれど、そんな行き過ぎなくらいのお節介が不快に感じたことなんて、この中の誰も、きっと一度だってない。

……ただし、それは彼女のお節介が自分たちに向けられているときに限る。

もし自分たち以外の誰かに向いていようものなら、非常に腹立たしく感じてしまうというのが本心であった。




そんな風に誰かの痛みに敏感な彼女だから、今回だって泣くと思ったのだ。

泣きながら、東堂を痛みから一秒でも早く解放するために、神経をすり減らしてでも毎日付きっきりで看病するのだと……そう、思ったのに。

なのに、彼女は涙を流さなかった。

ただ感情の高ぶりを堪えるように唇を噛み締め、ゆっくりと目をつむって深く深く息を吐く。

「……どうしたいか。私が、どうしたいか」

吐息のように吐き出された小さな言葉は誰にも届かない。届かせようともしていない。
そうして、閉じたときと同じようにゆっくりと開いた瞳が、スッと東堂を見上げた。

予想外の眼光の強さ。長く隣にいた彼女の、こんな決意のこもった色の目を彼は知らない。
思わずたじろいで身を引こうとすると、そうはさせないと彼女に手を引かれ、ベンチへ半ば強引に座らされてしまった。

「応急手当てするからじっとして。その後すぐ病院。寮母さんに送ってもらおう。新開くん、連絡しておいてくれる?」
「え、ああ」

いきなり振られた新開がコクリと頷いた。

「荒北くんは、悪いけど製氷機から氷持ってきて。福ちゃんは東堂くんの荷物をお願い」
「わかった」

そうやってテキパキと指示を出し処理をするしおりに、黙って従いながらも、その場にいる全員が内心では驚きと動揺とを隠せないでいた。

普段の彼女も仕事は出来た。けれど、自分たちの知る彼女はこんなに強い人ではなかったはずだ。
誰かに何かあった時。その対象が身近な存在であればあるほど彼女は動揺し、気持ちの切り替えがうまくいかなかった。彼女は他人を身近に感じすぎるのだ。
だから、そんなときは他の誰かが背中を押して、時には支えて引っ張りあげてやらなければならない。

そう。確かに、そんな弱い一面もあったはずなのだ。

――なのに、いまの彼女にはそれがない。

自分で切り替えて、自分で進もうとしている。まるで、急に大人の階段をのぼってしまったかのように。
そんな彼女に、取り残された男たちは心にざわめきを感じながらも言われ通りに指示をこなす。いまは逆らってはいけない。何も聞いてもいけない。そう感じたのだ。

それでも気にはなるので東堂の手当てをしている彼女が何を考えているのかを探ろうとするが、そこにはひたすら真剣な瞳が見えるだけで、答えなど出てこなかった。












「……しおり?」

傷口を消毒され、湿布を貼った上に包帯でぐるぐると巻かれた患部をしげしげと見つめながら、東堂が声をかける。その呼びかけに彼女も答えはしたが、怪我の処置をしている手は未だせわしなく動いていて、それが生返事だということはすぐに予想が出来た。

未来のエースクライマーは両手の打撲も酷いが体中擦り傷、切り傷だらけだ。必然、しおりの治療時間もかかる。

せめて、傷口を綺麗にして病院に行けるように。バイ菌が入った傷口が膿んで傷が長引いたりしないようにしなければ、と無数の傷を一つ一つ処置していく。
男子寮の寮母さんには先程連絡を入れてもらったから、きっとそう時間もかからずに到着するだろう。
それまでにできるだけのことはしておきたかった。

そうやってまたひとつ、傷口に絆創膏を貼っていると、東堂が今度は先ほどよりも強い声色で名前を呼んでくる。
けれど彼女はやっぱり手の動きを止めないまま、「なに?」とだけ返した。

「……フランス留学、行くのか」

突然吐き出されたストレートな問いに、それまで頑なに手を止めなかったしおりがピタリと動きを止める。視線だけで見上げてきた彼女の表情はどこまでも冷静だ。
そこから肯定も否定も読み取れないことが、東堂にとっては何よりも怖かった。

――行くなよ。行かないでくれ。

心の中で強く思って、縋るように彼女を見つめる。
するとしおりはそんな東堂に優しく目を細め、綺麗に口角を上げながらフッと目を逸らすと、止まっていた治療の手を再開した。

「まさか。行かないよ」

何の迷いもなく発せられた言葉に、東堂は目を丸くする。それは、間違いなく彼が欲しかった言葉だったのだ。
思わず念押しで問おうとしたその時、東堂はふと、あることに気が付いて二の句が継げなくなった。

伏せているしおりの目に、暗い影を見た気がした。
目は口ほどにものを言う、といった『ことわざ』があるように、人はどんなに表面上で取り繕っても目に宿る感情まで隠すのは難しい。

特に表情豊かな彼女の瞳はいつだって相手に多くを語ってくれる素直な瞳だ。感情をまっすぐぶつけてくれるから。喜怒哀楽の全てを乗せて見つめてくれるから。だから瞬間によって見え方を変える宝石みたいに彼女の瞳の色を愛でてきた……のに。

今の彼女はその瞳の色を隠している。
感情を悟られないようにしているのか、はたまた無意識なのかはわからない。けれど彼女は深く目を伏せ、東堂に本心を示してはくれなかった。

(……そんなに信用がないのか?)

東堂の中で、不満がふつふつと湧き上がってくる。
感情をぶつけられないくらい、感情を押し殺してしまうくらい、嘘を付くくらい。しおりにとっての自分たちは信用ならない存在なのか。

確かに、感情に任せて留学を反対したのは東堂自身だ。なんの権利もないのに「絶対行かせない」とのたまって、一番気にするだろう来年のインターハイを引き合いに出して彼女を縛った。

それでも、本気で留学したければ、自分たちと喧嘩しようが言い合いになろうが、まっすぐ面と向かって言ってくれると思ったのだ。

――『行きたい』と、言ってくれると思ったのだ。

なのに実際の彼女は感情すら押し殺して嘘を付いた。最初から何とも思ってないとでもいう風に、笑って「行かない」などと口にした。

どこまで事情を知っているかは定かではないが、福富も同じように面食らった表情をしていたから、彼は少なくとも彼女に留学の話が出ていたことくらいは知っていたのだろう。
主将でエースで元ライバルでと、しおりの福富に対する信頼はいつだって厚い。それこそ嫉妬してしまうくらいには。

その福富にも自分の答えを口にしていなかったということは、いかに今回の問題が彼女の中で大きな惑いを生んでいたかということがわかる。

……ちなみに新開と荒北に関しては何もかも初耳だったらしく、始終ハトが豆鉄砲を百発くらい撃ち込まれた間抜けな顔をしている。
それに少しだけ心を和ませながら、東堂は深く息を吸って、吐いて、もう一度吸って、吐いて。
覚悟を決めた。






「駄目だ。やっぱり行け」

東堂が放った言葉に、一瞬部室内の空気が止まる。
皆が驚愕の視線を東堂に投げかけ、呼吸の仕方を忘れたようにポカンと口をあけていた。

特に話の主役であるしおりは誰よりも動揺していた。ゆうに十数秒は東堂の言葉が呑み込めず、東堂の発言から何十秒後かにやっと声に出せたのは、

「……ど、どこに?」

とまだ混乱の色濃く残るセリフだった。

「はあ!?どこにって、今の話の流れからしてどう考えてもフランスだろうが!」
「はああああ!?ていうか、行くなって言ったのは東堂くんでしょ!」
「今だって行かせたくないに決まっとるだろう!」
「じゃあなんで!!」
「しおりが行きたがっているからだ」
「何聞いてたの?私いま『行かない』って言ったよね。え、聞いてたよね?」
「ふん。あんな死んだような目で言われたセリフが本心だとはとても思えんな」
「いつも死んだような目してる東堂くんにだけは言われたくないよ!!!!!」
「この絶世の美形に対して目が死んでるとはどういうことだ!」
「瞳孔開いてるの!女の子の間でも『東堂先輩カッコいいけど目が怖い』って評判なの!」
「なにぃ!?どこの誰だ!今から行ってオレの美しさについて語ってやらねばならんようだな!」

「……おーい。尽八、しおり。ちょっとストップ。話がおかしな方向行ってるぞ?」

ヒートアップしていた言い合いを新開に止められ、二人はハッとして口を閉じた。

最初は留学に行く行かないの話をしていたはずなのに、なぜ今自分たちは死んだ目の話をしているのだろうか。きっと新開が止めてくれなかったら、話はどんどん逸れて最終的には何の話をしていたかすら忘れていただろう。

まるでこの数日間の無言を取り返すように、勝手に口が動いていた。次から次へと話題があふれてきて止まらなくなっていた。
毎日話すのなんて当たり前のことだったのに、たった数日その習慣が崩れただけで、久しぶりの会話がやけに懐かしい。
口には出さないが、くだらない言い合いをしていただけのやり取りが、じんわりと胸を暖かくするのを2人は確かに感じていた。

「とにかく、だ」

仕切りなおすように東堂がコホンとわざとらしく咳をして切り出す。

「オレの発言のせいで悩ませて済まなかった。こっちは何とかなるから、フランス留学行ってこい」

今度は正真正銘、真剣な表情の東堂が言う。それを見つめるしおりの表情は、当然ながらまだ惑っていた。

応えあぐねて福富に視線をやり、それから新開と荒北にも目をやって。最後におそるおそると言った風に東堂に視線が戻ってくる。
すぅ、と彼女の形の良い唇が息を吸ったのが見えた。
吐き出された息と一緒に口から出てきたセリフは……――

「……い、いやです」

何故か否定の言葉だった。

「何故だーーー!!!!」

しおりの返答に、今度こそ東堂の感情がドカンと暴走する。包帯でぐるぐる巻きの自分の両手が痛むのも構わずに彼女の肩に置き、ぐわんぐわんと前後に揺する。

「これだけオレが譲歩して背中を押しているのに何故『いやです』だ!?行きたいんだろ?勉強したいんだろ?なんでそこで行かないという選択になる!?」

東堂の圧倒的な勢いに気圧されはするが、伊達に毎日の様に彼と言い合いをしていた訳ではない。しおりだって負けずに睨む。

「いっ、いきたい……けど!やっぱりみんなが主役のインターハイは見たいし、私だって最後までマネージャーとして参加したいもん!留学はこれからだってチャンスあるかもしれないし、今じゃなくても……」
「だああっ!もっと良く考えろ!」

東堂が吠えて、しおりにしっかりと言い聞かせるように説得を始めた。

「いいか。ロードレースの本場に留学できる機会がそう何度もあると思うなよ!インターハイが終わったらすぐ受験勉強で、大学行ったらレポートにゼミに試験に単位取得に部活にで忙殺されてチャンスなんて回ってこない。そうしているうちにすぐに就職活動が始まって、卒論書いて、就職して。一般企業に勤めてて留学できる機会なんてそうあると思うか?今が一番のチャンスだろう!」

最後は叫ぶように言った東堂に、流石のしおりもすぐには反論できなかった。

というか、しおりにはそこまでを見越す力がなかったのだ。ただ自転車が好きで、自転車に乗っている人たちが好きで、頑張っている人たちの役に立ちたくて、だから『トレーナー』という仕事に心惹かれていた。

だから、そのためにどんな資格が必要で、どの大学を選ぶべきなのか、くらいは調べてはいたが、東堂のように具体的に大学に入ってからの流れだとか、そういうものはわかっていなかった。

これが一人っ子と、姉弟がいる家庭の差だろうか。

もしかしたら彼の言う通り、今後チャンスなど巡ってこないかもしれないし、ちゃんと回ってくるかもしれない。……でもインターハイは譲りたくないし、後輩たちの育成のことだってまだまだ心配事がある。

決めたのに。答えを口に出したのに、まだぐるぐると回る思考が、東堂に揺さぶられて回る視界と相まって気分が悪くなりそうだった。

すると、パッと誰かの手が伸びてきて東堂の手を止めてくれる。しおりがまだ多少回っている世界の中で救世主の姿を捉えようと目をやると、こんな状況でも変わらない鉄仮面が騒がしい2人を見下ろしていた。

「決着がつかんようだな」

静かな声色に、しおりはコクリと頷く。結論を迷いに迷っている今、できれば福富からも助言が欲しかった。冷静な彼から意見を貰えれば、いくら自分が混乱していたとしても最も適した答えを出せるような、そんな気がしたのだ。

彼の言葉を期待して見上げる。東堂も同様に、福富の言葉を待っているようだった。

「ならばこうしよう」

揺らぎのない声色が頼もしいくらいにしっかりと響く。無意識の期待でしおりの喉がコクリと鳴ったあと、福富が言い放った。

「ロードレースで決着をつけよう。東堂が勝てばしおりは留学について前向きに考えること。しおりが勝てば俺たちを含め、今後一切留学の話題について触れないこと。どうだ?」
「はああああ?!」

しおりの驚愕が響く。
救世主だと思った味方がラスボスだった。気分的にはそんな感じだ。

確かに箱根学園自転車競技部は、何か部員同士のいざこざがあるとスポーツマンらしくレースで白黒をつける風習はあった。これに関しては殴り合いや、険悪な雰囲気になるより全然マシなので、しおりも容認していたが、でも、まさかこの場でそんな案が出てこようとは夢にも思わなかった。

「いやいや、冗談でしょ福ちゃん。そんな……――」
「良い案じゃないか!それで行こう!」

しかも、東堂はノリノリである。
そういえば東堂は前々からしおりと勝負してみたいと言っていたクチだから、そっちの欲も満たせるこの提案を受諾しないわけがない。

「ちょうど来月近くで男女混合ヒルクライムがあるから舞台はそこだ。もちろんしおりの足と男女差を考慮したハンデは付けさせてもらう。いいな」
「えっ……ちょ、待っ……――」
「よーし、賛成!大賛成だ!」

金魚よろしく口をパクパクさせているしおりを尻目に、話はドンドン進んでいく。
その時部室前で車のエンジン音とブレーキ音が聞こえてきて、先ほど依頼していた男子寮の寮母さんが到着したのだとわかった。

「丁度いい。しおり、東堂に付き添ってやってくれ。オレたちは3人でレースについてのルールやハンデ内容を決めておくとしよう」

淡々と話しを進めていく福富に、なおも食い下がろうとしたところで寮母さんの車から急かすようなクラクションが聞こえてきて、しおりは仕方なしに部室の扉を開ける。それでも恨みがましく福富に視線をやれば、しれっと目を逸らされて、それどころか上機嫌な東堂にグイグイと背中を押されて退出を促される始末だった。

先ほど福富に相談したとき、彼は「大事なのは自分が『どうしたいか』だ」……と言っていなかっただろうか。
今の半ば強引ともいえるこの状況は彼の発言に反してはいないだろうか。

「わ、わからない……」

あまりに色々なことがありすぎて、もはや何が何だかわからない。
寮母さんの車に押し込められて、精神的にも肉体的にも疲れ切った体を車のシートに預けることしか、今のしおりにはできそうもなかった。


 
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