105:電信柱は返さない



……またやってしまった。

暗い帰り道を速足で進みながら、東堂はギュッと眉をひそめた。
秋も深くなったこの季節。昼間はあまり感じないが、日が落ちると一気に気温が下がり始める。自分の吐いた息が白くなるのを見てしまうと、もうすぐ来る冬の季節を否が応にも感じるものだ。

箱根の長い冬が終われば次は春がくる。自分たちにとって高校最後の年だ。新しい教室と、新しい勉強と。とにかく環境に慣れようと必死になっているうちにじわじわと夏が迫って来て、そして

(そして、しおりが行ってしまう)

ズキリズキリと痛む胸のせいで呼吸ができなくなりそうだ。まだ決まったことでもないのに。しおりが決めたと言ったわけでもないのに。彼女がフランスへ行ってしまう。ただその不安感だけで、毎日ココロがどうにかなってしまいそうだった。

もう何日、彼女とまともに話していないだろう。
しおりの方は何か言いたげに様子をうかがって来るが、東堂はそれに応えられない。だっていま彼女を前にしたら、みっともなくごねて、罵って、必要以上に彼女を傷つけてしまうから。

しおりのフランス行きに賛成などできない。離れるなんて絶対に嫌だ。けれど、自分のせいで彼女が傷つくのを見るのはもっと嫌だった。

(くそっ!くそくそくそ!!)

どうすればいいかなんて自分にはわからない。行き場のない感情が胸の中でぐるぐると回って、今にも爆発してしまいそうだ。

心の中のムシャクシャをぶつけるように近くにあった電柱を拳で殴る。ジンと肘にまで衝撃がきたが、その一瞬の痛みが少しだけ感情を和らげてくれた気がして、同じ拳でまた殴った。

ガンッ

けれど丈夫なコンクリート柱はビクともしない。素手での攻撃などもろともせず、暗い闇夜の中でただまっすぐに立っているだけだった。

そうなると先ほどまでは精神を安定させてくれる味方のように思えた電柱が、今度は自分の非力さを嘲笑う敵のように見えてきて憎らしくなってきた。

立ちはだかった敵を睨み、唸るように喉を鳴らす。
電柱は何も返さない。当たり前だ。でもその当たり前が東堂には悔しかった。

ちっぽけな自分の力では、果たして何も変えられないのだろうか。
しおりの留学を止めることも、彼女の気持ちを自分へ振り向かせることもできないのだろうか。

この手では掴めない?何もできない?神に三物を与えられたこのオレが?そんなこと……――

……そんなこと、信じたくはなかった。

固く握った拳をもう一度、力いっぱい電柱にぶつける。暴力に訴えたことなど無い右手は最初の二発ですでに赤黒くなっていて、明らかに熱を持っていた。

痛い、痛い。でも心の痛みに比べれば、こんなものどうってことはない。言い聞かせて、また拳を叩きつける。自分にだって何か変えられるはずだと、そう思っていた。

……なのにどうして動かないんだ。どうしてオレの思い通りになってくれない。

打ち付けすぎて力がうまく入らなくなった右手の代わりに、今度は右足を振りかぶる。
自転車競技部で鍛えた脚だ。きっとこちらの方が威力も高い。

そうやって電柱に足があたる瞬間、ガッと後ろから羽交い絞めにされて東堂の体がバランスを崩した。

「バカ!やめろ!」

ブン、と振り切った脚は勢い良く空を切り、その反動で後ろにいた人物共々後ろへ倒れこむ。

視界がぐるりと回った。世界が一緒に回った。

地面に転がった自分の下で、何かダミ声のカエルがつぶれたような声がしたような気がしたが、いま東堂にそんなことに気付く余裕はない。

回転した世界で東堂の視界一杯に見えたのは漆黒の夜の空だ。暗闇の中を数多の白い点々が光り輝いている。
呆然としながら無駄に美しく光る星空を見上げていると、その視界の中にひょこりと見知った顔が入り込んできたのが見えた。

「こりゃまた派手に転んだなぁ、尽八」

全く持って緊張感のない口調で声をかけてきたのは、同期の中でも良くつるんでいる新開だ。仰向けに倒れこんでいる東堂を覗き込むように見下ろし、ただ可笑しそうに口元を歪めている。

「ほれ、手出しな」

起こしてくれるつもりなのか、伸ばされた手に東堂も無意識に手を伸ばす。しかし新開はその手のひらを避け、そのもう少し先の東堂の手首を掴んで引っ張り起こした。

(あ……)

東堂はようやく自分のこぶしが腫れあがっていることに気が付く。節立っていた自分の手が、今は赤ん坊の手のようにパンパンだ。打撃に慣れていない手はたった数発の衝撃だけでジンジンと波打つような痛みを持つ。

……確かにこの状態で握られたらさぞ痛いだろう。
気遣って避けてくれた友に感謝して、みっともないところを見られた気恥ずかしさに少しだけ肩をすくめて苦笑を投げた。

それを見た新開も笑みを返してくれる。さすが、箱学の潤滑剤と呼ばれる男だ。先ほどまで張りつめてどうしようもなかった気持ちが、彼の緊張感のなさに引きずられるかのように落ち着いたのが自分でもわかった。

……とその時、まったく注意を払ってなかった背後から後頭部をスパンッと勢い良く叩かれる。

「ぎゃっ?!」

情けない悲鳴と共に振り返ると、そこには何故か鼻血を出して立っている荒北が立っていた。
鼻から下が血塗れで大変残念なことになっている。東堂は思わず顔をしかめて、心底気の毒そうに言った。

「お前……ブサイクがいつにも増してブサイクだぞ」
「テメエの頭に当たったんだよ石頭がぁ!」

荒北にもう一度容赦なくド突かれて、東堂は、はて……と頭をひねった。

そういえば、あれだけの勢いで転んだのに痛みなどは全くなかった。なるほど。となると思い当たるフシはひとつだ。

「さっき潰したダミ声ガエルか」
「誰がダミ声ガエルだボケェ!!」

コントのようなやり取りに横で見ていた新開がケタケタと笑う。それにすら怒った荒北は、今度は新開に蹴りを入れながら、忌々しいとばかりに舌打ちして鼻から出る鮮血を腕でぐい、と拭った。
凶悪な目つきがギロリと東堂をとらえる。血も相まって、その姿は完全にヤンキーのそれに見えた。

「……お前よォ、脚はダメだろ」
「は?」
「今まで大事に育ててきた財産だろが。ソレ潰れたら来年のインハイ誰がオレら引っ張ってのぼんだ?何に気ィとられてんのかは知らねえがよォ、一番大事なとこまで見失うなよ」
「っ……――」

言われてハッとした。
確かに、先ほど自分は怒りに任せてこの脚を振りかぶった。二人が止めてくれたからあたりはしなかったが、あの一撃が固いコンクリ柱を蹴っていたらきっと『痛い』だけじゃ済まなかった。
インターハイ優勝を目指す自分がやっていいことではなかった。荒北の言うことは、悔しいが正論だ。

「すまん」
「……おう」

素直に謝れば、荒北はそれ以上責めてきたりはしない。相性が悪いのかウマが合わないのか、いつもは喧嘩ばかりだが、東堂は荒北のこういう所を素直に尊敬していた。
完全にそっぽを向いてしまっている横顔は実に腹立たしいが、今回ばかりはキチンと叱ってくれる彼にも感謝した。

「で、一体どうしたんだ。しおりと喧嘩か?」

雰囲気が良くなってきたところで、新開がいきなり核心に迫る質問をしてくるので言葉を詰まらせてしまう。

……まあ、周りから見たらそう見えるだろう。
あれだけ一緒にいて、話して、笑い合っていた友人たちが突然話さなくなったら誰だってそう思う。

「いや、諸事情があってな。オレが一方的に避けていただけだ。しおりは何も悪くない」

言った東堂に、新開は「ふーん」と相槌を打ち、けれど納得はしていないというまなざしをこちらへ向けていた。

……非常に気まずい。これは、事の発端をイチから説明しなければならないのだろうか。

というかそもそもこの二人はしおりの留学の話を知っているのだろうか。事情を説明しようにも、必ずそこが絡んでくるのでもし知らないのであれば自分の口から言ってしまうのは倫理的にどうなのだろう。

言いあぐねて黙ったままでいると、荒北が大げさなくらい深くため息をつき、くるりと踵を返して歩き出した。彼が向かっているその方向は彼らの暮らす寮……ではなく、今しがた自分たちが歩いてきた学校への道だ。
それを見ていた新開も、何かにピンと来たのか荒北の後を追いかける。

「え……ちょっ、おい!どこへ行くんだ!」

この中で、どうやら全く話が見えていないのは東堂だけらしい。焦って二人の背中に声をかけると、彼らはその場でピタリと足を止めて、東堂の方を振り返った。

「ンだよ早くしろよ」
「尽八ー置いてっちまうぞー」
「いや、だから一体どこにっ……――!」
「アァ?決まってるだろが」

――部室に戻るんだよ。

吐き出されたセリフに、東堂が固まる。『部室』と聞いて頭の中を駆け抜けて行ったのは部室の内装や、はたまた自転車のことではなかったからだ。
そうではなくて、先ほど見たしおりの寂しそうな……落ち込んだような表情。そればかりがが思い出されて、罪悪感で胸がひどく痛むから堪らなかった。

いやいや、無理だ。無理。
そう伝えようと口を開きかけると、東堂の声にかぶせるように二人が言葉を畳みかけてきた。

「さっき言ってただろう?『諸事情で避けてただけでしおりは悪くない』って」
「オメーが悪いってわかってんなら謝っちまえよ。オレに謝れんのにアイツには言えねえなんてこたあ無ぇよな?」
「それとも、尽八はしおりを謝罪しても受け入れてくれないようなヤツだと思ってるのか」

この問いには首をブンブンと横に振って否定する。
だって彼女はそんな人じゃない。人からの謝罪を無下にしたり、一度許したことを何度も掘り返して責めるような人じゃない。
むしろ心が広すぎると思うくらい、時には優しすぎるとたしなめられるくらい、人に甘いのだ。

人間は、女性の方が精神的に大人になるのが早いと言われている。でも、それを考慮したって彼女の対応は年相応とは言えない。

一歩踏み出すと、靴の下の小石がこすれて音を立てた。
置いて行かれるのは怖い。でも、何もできないまま……しおりとまともに話が出来ないまま置いて行かれるのと、自分も近づこうと努力したうえで置いて行かれるのでは、意味合いが全然違う。

彼女を黙ってフランスに旅立たせるなんてことはしないが、それはそれとして、とにかく、いまは二人の言うとおり謝ることが先決かもしれない。

きっと彼女は許してくれるだろう。目元をくしゃっと歪めて、泣きそうな顔で笑ってくれるだろう。
そうしたら目一杯話すんだ。この数日間話せなかった分も含めて、自分の気持ちも、しおりの気持ちも吐き出して、そして沢山たくさん喧嘩しよう。

――もちろん、彼らも一緒にだ。

まっすぐと視線を前へ向けると、少し前で自分を待っている荒北と新開の姿がある。目が合うと、ニヤリと笑った二人は別段言葉を交わすこともなく、歩みを再開した。

自分より幾ばくか背の高い彼らの背中。いつもは恨めしく思う数センチの違いが、今日はなんだかやけに頼もしく感じた。


 
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