10:激アプローチに疲れたら



長い直線の廊下を、彼女は全力疾走で駆け抜けていた。そこの角を道なりに曲がれば、水飲み場が設置されたスペースの脇に窪みがある。

……大丈夫、相手との距離は十分にあるはずだ。

ちらと後ろを振り返り、彼女は意を決して狭い窪みに体をねじ込ませた。人ひとりがやっと入れるくらいの隙間だ。ぎゅうと体を縮みこませれば、彼女の細い体はそこにすっぽりと収まった。
後は敵が通り過ぎるのを待てばいい。そうすれば、勝利は彼女の物だ。
もう慣れたとはいえ、突発的な運動に否応なしに息が上がっている。深呼吸でもって呼吸を整えた。深く息を吸い込み、一回、二回。
すると、時を移さずに騒がしい足音とお決まりの台詞が聞こえてきた。

「しおり!今日こそ逃がさんぞ!」

校舎廊下の音をよく反響することか。彼こと、東堂尽八のよく響く声質も相まって、廊下はワンワンと彼の小うるさい声でいっぱいになった。

今は昼休み中。もちろん廊下には他の生徒達だって居る。
なのによくもまあ平気で走り回り、叫び回れるものだ。流石は目立ちたがりだと呆れれば、東堂が、しおりが身を潜めている廊下の直線を風のように通り過ぎるのが見えた。
二人の距離がすれ違う。その一瞬、目にも留まらぬ勢いで流れているであろう東堂の視線の中で、隠れていたしおりの姿が映った。途端にしまったという表情で足にブレーキをかけた彼の胴体視力の良さも流石のものだと感心する。……しかし、もう遅い。

慌てて東堂が振り返った時にはもう彼女の姿はなく、足音だけが曲がり角の向こう側で弾むように去って行った。








**********






「毎日まいにち、よくやるネェ」

今日もものすごい勢いで校庭に飛び出してきて、当たり前のように自分の隣で弁当を広げ始めたしおりに呆れたような声を出せば、彼女は肩で息をしながらあはは、と力なく笑った。

自転車競技部からのマネージャー依頼を直々に断った数日前。ずっと隠してきた怪我の事も、引退の事も話して納得してもらい、これでやっと静かに暮らせると思ったのに、彼らからのアプローチは何故かヒートアップして日々しおりを襲うようになっていた。


例えば朝。登校する際には必ず、朝練中の彼らがしおりの通学路である校舎前の坂道を登ったり降りたりしてアピールしてくる。この長く急な坂道を、三人そろって勢いよく駆け登り、頂上まで行ってまた戻ってきての繰り返し。
一見すると普通の練習風景に見えるのだろうが、彼ら以外の部員が坂を登り切った後、そのまま道なりに違うコースへ走り去っていくのを見れば、それが彼らの独断による行動なのだとわかった。

あのスピードを維持したまま、しおりの登校中に坂を往復する実力とスタミナは認める。けれど、短い朝の時間の中、坂道ばかりを練習場所として選ぶのはいかがなものか。

「どうだしおり?オレたちの走りは!!感化されるだろう!!」
「……効率的じゃない。他の練習もしたら?」

ちょいちょいスピードを緩めては徒歩のちょっかいを掛けてくる東堂にポロリと思っていることを口にすれば、彼らは「やっぱりしおりはわかっているな」などと嬉しそうに顔を見合わせ、言われたとおりに他の練習をし始めるのだ。いうなれば体を張ったツッコミ待ちか。
わかっているなら初めからバランスよく練習しろと、のど元まで出かかるセリフを呑みこんで、しおりはいつも彼らの姿を見送るのだった。

次に授業の間の休憩時間中。
今までしおりたちの教室に来たことすらなかった福富と新開が、これ見よがしに毎時間のように現れ、彼女の隣の席の東堂を訪ねてくるようになった。
会話の内容はなんてことはない、部活の話や、雑誌の話や、昨日見たテレビの話だ。……ちなみに、これらの会話は全て自転車関連の話である。つまりは、現役を退いて久しいしおりの耳に現在の自転車業界の状況を聞かせているのだ。わかりやすいにも程がある。
それを延々として、たまにしおりに「どう思う?」なんて意味ありげに話を振って、冷たくあしらわれている彼らはきっと周りから見れば、ただの自転車馬鹿だ。自転車が好きすぎて、一般人のしおりを巻き込んでいるようにしか見えないので、しおりはいつも同級生達から「大変だね」なんて同情を受けていた。

そうやってしか伝えるすべを知らない不器用な男たち。けれど、いくら冷たくあしらっても折れない人たちでもある。

昼休みには東堂に追いかけられ、放課後になれば三人そろって部室に行こうと誘ってくる。
何度断っても、何度追い払っても離してくれないのだ。たぶん、彼女がマネージャーになるまで……――


ところで、一日中そんな勧誘を受け続けるしおりの唯一のやすらぎの場所がふたつだけあった。
そのひとつが、いま彼女が弁当を広げている校庭であり、隣のクラスの不良風少年が居座っているこの場所であった。

前にこの場所で助けてもらって以来、しおりは東堂から逃げきった後に良くこの場所を訪れるようになっていたのだ。
荒北の時代錯誤の見た目のせいか、ここは日当たり良好の絶好のスペースだというのに、彼以外の誰も寄り付かず、いつも静かで、それが安心できた。
彼だって、見た目は怖く、口も悪いが基本的に良い人なのだ。ぶつくさと文句を言いながらも、後から来たしおりを追い返すようなことは一切せず、それどころか東堂に見つかりそうになる度にさりげなく盾になってくれる。
いつも一人ぼっちで逃げ回っているしおりにとって、こんなに嬉しい助けはない。他にも隠れ場所など沢山あるが、やはり荒北のいるこの場所が、一番の安息の地だった。

「いつもごめんね」
「別にィ。ここで見つかってうるさくされっとウゼエだけだ」
「ここ静かで気持ちいいもんね。あ、私はうるさくない?」
「……お前は良い」

会話の途中ですぐにそっぽを向いてしまうのは、照れているせいだと最近分かった。彼は気がついていないだろうが、顔をそらした彼の耳がいつも赤く染まっているのだ。
彼が自分を嫌っていないことは知っている。もちろん、自転車競技部の面々が自分を好いていることも。ただ、強烈なアプローチに少しだけ疲れてしまったので、彼からの静かな好意が欲しかったのだ。自己満足といえば、それまでだけど。

「ありがとう。お礼にこれ……食べる?」

差し出した卵焼きは、同居人の作ってくれるお弁当の中でしおりが一番好きなおかずである。ふんわり甘く、焦げ目のひとつもなく綺麗にまかれた可愛い黄色。友好の印として差し出したそれに、彼はまだ赤みの差す顔をこちらに向け、箸の先で摘まれた卵焼きを見てギョッとしたような顔をしていた。

「お前なあ、それ…その箸……」
「へ?箸?」
「だアア!何でもねえ!!」

覚悟を決めたようにパクリと箸ごと口に含んだ荒北が、卵焼きを口の中で荒々しく咀嚼し、ごくりと飲み込んだ。わくわくと感想を待っていると、何故だかさらに赤くなった顔でギロリと睨まれた。

「今の、他の奴にはするんじゃネエぞ」
「しないよ〜もったいない!だって私、卵焼きが一番好きだもん。ねえ、それよりどうだった?」
「……うまかった」

でしょ!と、顔を緩めて笑うしおりに、荒北は盛大にため息をついた。





 
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