104:どうしたいのか



しおりと東堂の様子がおかしいと気が付いたのは、彼らが急に「総北に行ってくる!」と息巻いて出かけ、帰ってきたその日からだった。

同じクラスで、同じ部活。学校にいる時間のほとんどを一緒に過ごしていると言っても過言ではない二人は、長い時間を共にしているというだけあって馬も合う。
部内で最も仲の良い二人として周囲から認められるほどに親密であった。

けれど今、その関係が崩れつつある。
それも、東堂が話したそうにしているしおりから一方的に距離を取っているという形で、だ。
それまではどちらかというと東堂の方がしおりにくっついて回っていることが多かったので、これは珍しいパターンであった。

しかし距離を取っていると言ってもあからさまに避けているわけではなく、一緒に行動はするし、練習だって彼女が決めたものを淡々と文句も言わず黙々とこなすしアドバイスも聞く。

では何が問題なのかといえば、東堂が彼女の『目を見ない』ことだった。

一緒にいる時も、話しているときでさえ、東堂はしおりと目を合わさない。
どんな時だって目が合いさえすれば楽しげに話し出す二人の存在が、堅苦しい実力主義の部内での中和剤となっていたと言っても過言ではないというのに。
今は目を合わさずただ事務的なやりとりばかりをする為、いつもは感じないピリピリした雰囲気に他の部員まで不安がって部活に集中しきれていないようだった。

あの日、総北で何かあったのは間違いないだろう。それが原因で二人の関係がギクシャクしてしまっているのであろうということも確かだ。

部活終わり。当人同士はそこにいるのに、いつもの賑やかなやりとりは始まらない。何を考えているのかわからないほどの無表情を顔に張り付けている東堂と、彼が作り出す沈黙に押し潰されまいと必死で耐えているしおりが気まずさを誤魔化すようにせっせと帰り支度をする音だけが響いていた。

「先に上がるぞ。お疲れ」

誰の目も見ず、何の感情もないような声色で発して、東堂が静かに部室から出ていく。
ここ数日の様子から彼が振り向かないとわかっているだろうにその背中を悲しそうに見つめ、泣くのを我慢しているような売れ居た顔をして俯くしおりの姿に、福富もさすがに息を吐き出した。

見たところ、今日も彼らはほとんど会話らしい会話をしていない。
明らかにおかしい。何かある。なのに東堂もしおりも、いつまでたっても何の相談もしに来ないで部の空気ばかりをかき乱していくのだから、こちらだってそろそろ気が立ってくる。

自分たちは仲間ではなかったか?
ただの部員同士というだけではない、いわゆる『同志』という括りであると思っていたのは自分だけなのだろうか。
今までは一緒にいる時間が長い分、どんな些細なことでも話してくれていたため、二人のこの沈黙は必要以上に自分たちの精神も削っていると感じていた。

チラリと自分と同じく彼らの動向を見守っていた荒北と新開に目配せをやると、すぐにそれに気が付いた二人はソッと頷いて部室を出ていく。何も言わなくても意図を読み取ってすぐさま行動に移してくれるあたり、彼らは非常に優秀だ。
福富は、部室に残されたまま俯いている彼女に近づいて単刀直入に聞いた。

「東堂と何があった。喧嘩か。それとも意見の食い違いか。いずれにせよ総北に行ったことと関係があるんだろう。ずっとあんな雰囲気では部の活動にも支障が出る。しっかりしろ」

ストレートな物言いだという自覚はあるが、まどろっこしいことは苦手なのだ。そ人の言動を読み取って隠された本心を探るとか、そういうのは性に合わない。

好きなことは好き、嫌いなことは嫌い、他人が何に悩んで、どう思って、どうしたいのかは本人に尋ねるのが一番はっきりしていてわかりやすい。
それが福富の持論だった。

そして、目の前の彼女はそんなデリカシーがないと非難されることもあるこの性格を認めた上で受け入れてくれる数少ない友人だ。

つむじが見えてしまうほど下を向いていた顔が、ゆっくりと福富の方を見上げ、自信なさげに揺れる黒色の瞳と目が合った。
咄嗟に笑おうとしたらしい彼女の口端がうまく笑えずにヒクリと引きつるのが見える。たとえ口元だけ笑えたとしても、彼女の眉間にはしわが寄っていて、とてもじゃないが自然な表情には見えないことは目に見えているが。

福富からの質問に、しおりはすぐには返答しなかった。どこかぼんやりとした表情で、今聞かれたことを理解しようと考え込んで、そうしてややあってからゆっくりと顔が小さく横に振られた。

「違うの。私がね、簡単な問題に即答できなかったから。その場でハッキリさせなかったから東堂くん怒ってるの」
「……問題?」
「うん。総北の監督からね、来年の夏休みに自転車競技のトレーナーとして留学してみないかって打診されたの。……ビックリだよね」

肩をすくめ、冗談めかした口調でそう言うと、彼女は今度は実に自然で綺麗な笑顔をこちらに向けてくる。
どうやら優秀すぎる彼女はこの短い会話の最中に表情筋を無理やり動かす方法を習得したらしい。……まったくもって厄介だ。

並みの付き合いしかしていない者であればきっと、この彼女の完璧に近い作り笑いにコロリとだまされるだろうが、こちらも伊達に毎日一緒にいたわけではない。憧れを抱いて見つめていたわけではない。
そんな不自然なメッキ、すぐに見破れるくらいの自信はあった。

「……しおり」
「だって、福ちゃんたちの最後の夏だよ。春からは練習メニューもインターハイ用に本格的に調整しなきゃならないし、合宿もあるし、メンバーも決めなきゃいけないし」
「しおり」
「そりゃあね!本場でトレーナーの仕事実際に見られるとか夢があっていいなって思うけど、そんな場合じゃないし。夢なんて追ってられないし」
「しおり」
「今なら即答できるよ!『留学なんてしません』って。あ、そうだ。何なら今から監督に電話して断っ……――」

心にもないことばかりを紡ぐ彼女を制するように、福富はその口を自分のてのひらで塞いだ。

「いいから、少し黙れ」

驚いた瞳がビー玉のように丸く見開かれこちらを見上げている。彼女の顔の輪郭は右手ですっぽりと覆えてしまうくらいに華奢で、手のひらに触れている唇は柔らかく、そして酷く冷たく、乾いていた。

「オレに言い訳をしてどうする。大事なのはお前が『どうしたいか』だ。違うか?」

問いに合わせて口元から手を外してやるが、それでも彼女は言いあぐねているようだ。何とも言えない苦々しい表情。救いを求めるような頼りない瞳が福富を見上げていた。


したいようにすればいい。けれど、彼女がそれだけ迷う気持ちがわからないわけではないのだ。

近くにいたからこそ、福富はしおりがどれだけこの部を想い、尽くしてくれていたかを知っている。部員の助けになることに没頭し、生活のすべてを捧げ、時には睡眠時間も削り、自分のトラウマと葛藤しながら部員たちを何度も勝利へ導いてくれた。
もちろん福富だって彼女の努力の恩恵を受けた一人だ。

けれどその部活に向ける並々ならぬ愛着が、自分の選択肢を無意識に狭めているのに彼女は気が付いていない。
自分の夢があるのに、部を放って置けないという感情が先立って前に進めないのだった。

「でも、福ちゃん……わたしは、」

弱弱しく、そう発したきり口を噤んでしまったしおりに、福富も、もうそれ以上声をかけない。いや、実際にはかけられなかったというのが正しいだろう。

それはたぶん、彼女の夢を応援したいという心の奥底に『それでも行かせたくない』という感情があったからだ。

しおりには好きに生きて欲しい。けれど、これ以上背中を押して、しおりが留学を決めてしまったら。彼女のいない夏を想像すると、ぽっかりと心に空虚が生まれる感覚があった。

彼女への想いをきっぱりと諦めたはずなのに、それでも友人として。マネージャーとして、彼女に傍にいて欲しいなんてあまりに厚かましい。
自分の感情が先行して、好意を抱いた人の背中を力いっぱい押してやれない、これが長年こじらせ続けた感情の末か。そう思うと情けなくて福富は卑怯な心に自己嫌悪した。

……こんな時『彼』ならきっと迷わないのだろう。
頭に浮かんだ顔を思い出して部室の扉に目をやるが、どうやらまだ戻ってくる気配はないらしい。

シンとした空気が二人きりの部屋を満たしている。未だかつてしおりと二人きりの沈黙を苦だと思ったことはない。けれど今は、早く誰か帰って来てくれと本気で思う。

この口が余計なことを口走らないように。
いま正に飛び立とうとしている彼女を、己の傲慢で引き戻すことがないように。

真っ青な顔をして惑う彼女の思考の邪魔をしないように、福富はそっと自分の唇を噛んだ。


 
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